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和歌歳時記メモ 犬蓼2009年09月29日

路傍に犬蓼の花が目立つやうになつた。野原ではかなり大きな群落をなしてゐるところもある。私がこの花を見て反射的に思ひ出してしまふのは、『歌』と題された中野重治の詩の冒頭、
おまへは歌ふな
おまへは赤ままの花やとんぼの羽根(はね)を歌ふな
であり、またこの詩に衝撃を受けた晩年の芥川龍之介のことだ。
この詩の「赤ままの花」が犬蓼の花で、「赤まま」はお赤飯の幼児語であらうか。女の子のままごと遊びにその花穂が使はれたことからの愛称といふ。
上の詩で「おまへ」と呼びかけたのは、つまりは詩人自身へ向けてのことで、「赤ままの花」は詩人にとつて排斥すべき「ひよわなもの」の象徴であつた。可憐な花の風情などを歌はず、「腹の足しになるところを」「胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌へ」といふのが、詩人が自らに課したテーゼであつた。
その主張はともかくとして、犬蓼の花は本当に「ひよわなもの」であらうか。コンクリートの僅かな隙間を見つけて育ち、こぼれ種で仲間を増やしてゆくこの一年草が、詩人の嫌つた「うそうそとしたもの」「ものうげなもの」であらうか。
犬蓼はタデ科の一年草。路傍や草地に生え、晩夏から初秋頃、紅紫色の穂状の花をつけて、晩秋まで咲き続ける。霜が降りるやうになる十二月頃、まだ頑張つてゐる花を見かけることも少なくない。この草の逞しさは、幕末の歌人橘曙覧によつて的確に歌ひ取られてゐる。
志濃夫廼舎(しのぶのや)歌集』 寒艸
枯れのこる茎うす赤き(いぬたで)の腹ばふ庭に霜ふりにける
茎ばかり薄赤い犬蓼が、地を這ふやうに生え、霜に遭つてゐる。色彩の乏しい冬の庭に発見した犬蓼の茎の薄紅さに、歌人は何を感じたのだらう。少なくとも、「ひよわなもの」「うそうそとしたもの」と正反対のものであつたことは間違ひない。何より一首の厳しい韻律がそのことの証しである。

因みに「蓼食ふ虫も好き好き」の諺にいふ「蓼」は犬蓼でなく、柳蓼のこと。柳蓼については別に取り上げたい。

(中野重治の詩はこちらで全編読めます。)
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『夫木和歌抄』(蓼) 藤原為家
からきかな刈りもはやさぬ犬蓼の穂になる程にひく人のなき

『新撰和歌六帖』(蓼) 藤原家良
鷺のとぶ川辺の穂蓼くれなゐに日かげさびしき秋の水かな

『むらさき』与謝野鉄幹
犬蓼の花さく見ればしのばるる君と韓野(からの)に駒なめし秋

『さざれ水』窪田空穂
置く露の涼しき踏みて畦行けば濡れては赤き犬蓼の花

『寒雲』斎藤茂吉
立ちどまりあたり見廻しくれなゐに咲き満ちたるは犬蓼の花

『くろ土』若山牧水
赤飯(あかまま)の花と子等いふ犬蓼の花はこちたし家のめぐりに

『北の人』坪野哲久
犬蓼のしみ立つところ風の渦またも捨身(しやしん)のあがきをぞする

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