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百人一首 なぜこの人・なぜこの一首:第5番猿丸大夫2010年02月08日

猿丸大夫

奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき

【なぜこの人】
百人一首の歌人の中で、猿丸大夫ほど謎めいた人物はいません。その名を記す最古の文献は古今和歌集の真名序で、

大友黒主之哥、古猿丸大夫之次也

と一言触れただけ。この一文から判るのは、六歌仙よりも前の時代の人であり、「頗る逸興あり」(真名序)、「言はば、薪負へる山人の、花の陰にやすめるがごとし」(仮名序)などと評された大友(大伴)黒主の歌風のさきがけをなす歌人と認識されていたこと、その程度です。
序文で言及されているにもかかわらず、古今集に猿丸大夫作とする歌は一つも見えず、万葉集にも正史にも後代の勅撰集にもその名を留めていません。
家集『猿丸大夫集』が伝存しますが、おおかた万葉集の異体歌と古今集のよみ人しらず歌から成り、後世の偽撰説が有力です。百人一首に採られた歌も古今集のよみ人しらず歌であり、確実に猿丸大夫の作と信じることのできる歌は一首もない、というのが国文学界における有力説のようです。
実体を伴わない、名ばかりの歌人? なぜそんな歌人が百人一首に選ばれたのでしょうか。

三十六歌仙の一人として猿丸大夫の名を高からしめたのは、平安中期の歌壇の大御所、藤原公任です。彼が『三十六人撰』に猿丸の代表歌として撰んだのは、「奧山に…」の歌のほか、次の二首でした。

をちこちのたつきもしらぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな
ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬと見しは山のかげにざりける

梅原猛氏が指摘するとおり、「すべて山居の閑寂、孤独を歌ったもの」(『水底の歌』)です。仮名序の「山人」云々の評語に影響されたものか、公任の時代、奧山に世を遁れた人物としての猿丸大夫像が出来あがっていたように見えます。
それにしてもなぜ公任は猿丸大夫を歌仙の一人に撰んだのでしょうか。上記の三首は『猿丸大夫集』から撰び採ったものと思われますが、いずれも古今集では「よみ人しらず」としている歌で、公任がそのことを知らなかったはずはありません。よみ人しらずの歌であることを承知で、古今集の権威に逆らってまで猿丸を歌仙にすべき理由が何かあったのでしょうか。
ところで公任より少し後の時代、藤原盛房(生没年未詳。1094年頃生存)が三十六歌仙の各人につき伝記を考証した『三十六人歌仙伝』という書物があり、猿丸を論じた中に注目すべき一文があります。原文は漢文ですが、訓み下して引用しましょう。

延喜の御宇、古今集を撰せらるの日に臨みて、(くだん)の大夫の歌多く()の集に載す。

醍醐天皇代、古今集撰集に際し、猿丸大夫の歌が多く古今集に載せられた、というのです。もとより古今集に「猿丸大夫」を作者名として掲げる歌は無いので、「よみ人しらず」として入集したと考えるしかありません。
また、保元二年(1157)頃に成った藤原清輔の歌学書『袋草紙』にも似たような記述が見られます。古今集を論じた章で「猿丸大夫集の歌多くもつてこれを入れ、読人知らずと称す」と言うのです。
盛房・清輔の記事を信じれば、猿丸大夫の家集なり詠草なりが古今集以前に存在したことになります。そしてそれが現存の『猿丸大夫集』と同一系統のものだとすれば、『猿丸大夫集』で古今集よみ人しらず歌と重複する歌は、元来は猿丸大夫の歌であったことになります。その数を新編国歌大観で調べると、二十四首。女流の大歌人伊勢の入集数二十三首にも勝り、盛房・清輔の言う「多く彼の集に載す」「多くもつてこれを入れ」に適合します。
『三十六人歌仙伝』の猿丸大夫の表題の下には小字で「口伝云々」とあり、「(くだん)の大夫の歌多く()の集に載す」ことも歌人の間に口伝で伝わっていたのでしょう。公任がその口伝を知らなかったとは思えません。であれば猿丸大夫を三十六歌仙の一人に撰び入れたのも尤もな話です。猿丸大夫は公任のおかげで本来の歌人としての名誉を回復したことになるのです。

ではなぜ猿丸大夫の歌が「よみ人しらず」とされてしまったのでしょう。この点については三好正文氏の『猿丸大夫は実在した!! 百人一首と猿丸大夫の歴史学』にみごとな解説がありますが、私なりにまとめさせて頂くと、次のようになります。
――古今和歌集はその名の通り「古」歌と「今」歌を合体させた集で、「古」歌は原則として「よみ人しらず」として採るという編集方針が取られた。古今集の「よみ人しらず」歌は四百八十首にも及び、全体の半分に迫る。撰者たちは分量的にも「古」と「今」、「よみ人しらず」と「有名歌人」のバランスを取ろうとしたことが窺われる。――
「よみ人しらず」として名を消されてしまった歌人たちの中で、おそらく猿丸大夫は傑出した存在であり、せめてもの配慮として序文に名が書き留められたのではないでしょうか。

もとより定家は『三十六人歌仙伝』も『袋草紙』も読んでいたでしょうし、そもそも歌の家に生れた彼が猿丸大夫についての口伝を知らなかったとは考えられません。定家は「奧山に…」の一首を、往古の伝説的歌人猿丸大夫の真作と信じて疑わず、小倉百首の中に撰び入れたに違いないのです。

【なぜこの一首】
業兼本三十六歌仙絵 猿丸大夫 さて本題に入る前に、しばし「猿丸大夫」(正しくは「さるまろのたいふ」と読みます)という面白い名について考えてみましょう。
『続日本紀』には「柿本佐留(さる)」の名が見えますし、上代、牛とか鹿とか動物の名を付けた人名は珍しくありませんでしたから、猿丸という名も特別変わった名とは言えないでしょう。「丸」は人名につけた「まろ」の宛字で、後世「まる」と読むようになります。奈良時代までは成年男子の名に「まろ」を付けることが流行ったのですが、平安時代以降は廃れます。「大夫(たいふ)」は高位の男性官人の称。ただし真名序においては「柿本大夫」と一対の称とも見え、すぐれた歌人に対する敬称の意を帯びたかもしれません。
猿丸大夫――それにしても出来すぎの名ではあります。その名自体が《都に仕えてある程度の出世をし、その後猿のごとく山中に隠れ住んだ、古い時代のすぐれた歌人》をあらわし得るのですから。
百人一首の歌は、そうした猿丸の人物像を象徴するような一首と言えましょう。

奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき

古今集では秋上の巻に載り、あとに鹿と萩を取り合わせた歌が続くので、この「もみぢ」は萩の黄葉です。『定家八代抄』では秋下に載せますが、「下もみぢかつ散る山の夕時雨濡れてや鹿の独り鳴くらん」と「秋萩にうらびれ居ればあしびきの山下とよみ鹿の鳴くらん」に挾まれており、定家もやはり「もみぢ」を萩の下黄葉と解していたことが知られます。萩は花が散って間もなく下葉から黄に色づき始めます。

萩の下黄葉 鎌倉市雪ノ下
萩の下黄葉

秋気ようやく深まる奧山に、黄葉した萩の下枝を踏み分けながら、妻を恋うて鳴く鹿の声が響く。一抹の華やぎを含んだ寂寥感のうちに、秋という悲哀の季節の真髄が歌い上げられています。深山の住人である「猿丸大夫」という名をもついにしえの隠逸歌人の作として読む時、一首の興趣はまた格別のものとなりましょう。
定家はこの歌を『定家八代抄』『近代秀歌(自筆本)』『詠歌大概』に撰び入れており、非常に高く評価していました。また「秋山はもみぢ踏みわけとふ人も声きく鹿の音にぞなきぬる」などと本歌取りしており、愛誦歌の一つとしたに違いありません。その意味で百人一首撰入は当然と言える秀歌ですが、ひとつ気になるのは、百人一首と『百人秀歌』でこの歌の配列が異なることです。
再び最初の十人を表に掲げてみましょう。

   百人一首    百人秀歌  
1番 天智天皇    左に同じ  
2番 持統天皇      〃   
3番 柿本人麿      〃   
4番 山辺赤人      〃   
5番 猿丸大夫    中納言家持 
6番 中納言家持   安倍仲麿  
7番 安倍仲麿    参議篁   
8番 喜撰法師    猿丸大夫  
9番 小野小町    中納言行平 
10番 蝉丸      在原業平朝臣

五番目の歌人から百人一首と『百人秀歌』の配列が食い違いを見せ始めるのです。
古今集真名序は猿丸を六歌仙以前の人、『猿丸大夫集』後書などは元慶(877~885年)以前の人とし、歌風(漢詩文の影響下にある「悲秋」観念など)からして奈良朝まで遡り得る人ではありません。であれば家持・仲麿より後、業平などより前とする『百人秀歌』の方がむしろ正当で、時代順のはずの百人一首の並び方は不審です。あるいは百人一首の編者は平安末期に唱えられた猿丸大夫=弓削皇子説(『古今和歌集目録』)や高市黒人の妻説(『袋草紙』)などに影響されて、猿丸を奈良朝の二歌人より前に置いたものでしょうか。『百人秀歌』もおおよそは時代順の配列を守っているので、百人一首と『百人秀歌』の各最終編集者が異なる史観の持ち主であった可能性が考えられます。
しかし結論は急ぎますまい。この件は別の機会に考察を進めることとしましょう。
また、『百人秀歌』における参議篁との合せは大変興味深いものですが、その点についても篁の章に譲りたいと思います。