菅家文草卷六 早春内宴、侍清涼殿同賦鶯出谷 ― 2010年03月03日
早春内宴に、清涼殿に
鶯兒不敢被人聞
出谷來時過妙文 谷を出でて来たる時
新路如今穿宿雪
舊巢爲後屬春雲
管絃聲裏啼求友
羅綺花間入得群
恰似明王招隱處
荷衣黄壞應玄纁
【通釈】鶯の子は、人に声を聞かさない。
しかし谷を出て来る時、その声は妙なる経声にもまさる。
通じたばかりの道は、いまだ残雪が深い。
古巣は、谷にたなびく春の霞に委せてゆく。
都へ出ると、美しい管弦の声にまぎれ、啼いて友を求める。
舞妓の花やかな衣裳の間に入って、仲間になる。
ちょうど明君が隠士を招いた宴のようだ。
地味な衣は黄ばんで古び、引出物の玄纁にぴったりだ。
【語釈】◇妙文 すぐれた経典、特に法華経。鶯の声を「ほけきょう」と聞きなしたことから「過妙文」と言う。◇穿宿雪 残雪を踏んで穴をあける。それほどまだ雪が深いということ。◇舊巢 今まで住んでいた巣。時鳥は鶯の巣に産卵し、抱卵・育雛を委ねる。それゆえ次に「屬春雲」と言う。◇爲後 「のちのために」とも訓む。今は岩波古典大系本に従い「こののち」と訓んだ。◇春の雲 谷間にたなびく霞。◇羅綺 羅はうすもの。紗・絽などの織物。綺はあやぎぬ。美しい模様の絹織物。◇明王招隱處 明君が山谷の隠士を招き歓待するところ。谷から出て来た鶯を隠士になぞらえている。◇荷衣 蓮の葉で編んだ衣。仙人や隠者の服装のこと。鶯の地味な色の羽毛を暗示している。◇應 ちょうどよく合う。ぴったりである。◇玄纁 「玄纁」は黒っぽい赤色。引出物とした。
【補記】醍醐天皇の昌泰二年(899)正月二十一日の内宴に侍っての応製詩。谷を出た鶯を、山を出た隠士になぞらえ、内裏の華やかな宴に紛れ込んだとした。和漢朗詠集巻上「鶯」に第三・四句が引かれている。特に第四句「旧巣為後属春雲」を踏まえて多くの和歌が作られた。土御門院の御製はこの句を題として詠まれたものである。
【影響を受けた和歌の例】
わが苑を宿とはしめよ鶯の古巣は春の雲につけてき(藤原俊成『風雅集』)
啼きとむる花かとぞ思ふ鶯のかへる古巣の谷の白雲(藤原家隆『新続古今集』)
鶯のかへる古巣やたづぬらん雲にあまねき春雨の空(藤原定家『拾遺愚草』)
鶯もまだいでやらぬ春の雲ことしともいはず山風ぞ吹く(同上)
古巣うづむ雲のあるじとなりぬらん馴れし都をいづる鶯(藤原良経『秋篠月清集』)
白雲をおのが巣守りとちぎりてや都の花にうつる鶯(土御門院『土御門院御集』)
啼き出でむ空をや待たむ鶯の雲につけてし旧巣なりせば(三条西実隆『雪玉集』)
和歌歳時記:沈丁花 (ぢんちやうげ) Sweet daphne ― 2010年03月04日
夜道を歩いてゐて、沈丁花の香りに驚かされることの多い時節になつた。梅は風でも吹かないと匂ひが届かないけれど、この花の香り高さには風も不要だ。
ヂンチヤウゲ科の常緑灌木。最初の一字を濁らず「ちんちやうげ」とも言ふ。大陸から渡来したのは室町時代・江戸時代両説あるやうだ。漢名は瑞香。
花は外側が紅紫色で、内側が白い。全体が白い花もあり、
紅い蕾の間にぽつりぽつり白花がひらき始めた頃の色合は殊に美しい。尤も、その頃はまださほど強い芳香は漂はせない。
この花を詠んだ歌は、江戸時代以前には見あたらない。近代以降は盛んに詠まれ、佳詠も少なくないだらう。
『常磐木』 佐佐木信綱
若き日の夢はうかびく沈丁花やみのさ庭に香のただよへば
大正十一年(1922)、歌人五十歳の作。「夢はうかびく(浮かび来)」に対して「沈」む花、美しい字面も巧みに活かした、優婉な歌だ。
『橙黄』 葛原妙子
沈丁の瓶を障子の外に置き春浅きねむり
邃 くあらしめよ
匂ひに過敏な人、あるいは眠りの浅い人には、沈丁花の香りは睡眠を妨げるほどなのだらうか。しかし遠ざけたくはない、だから「障子の外に」置く。昭和二十五年(1950)刊、第一歌集より。
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『山河』 金子薫園
沈丁花雨しめやかにいたる夜の重き空気のなかににほへり
『路上』 若山牧水
沈丁花青くかをれりすさみゆく若きいのちのなつかしきゆふべ
『無憂華』 九条武子
『朝雲』 岡麓
沈丁花白きつぼみはうす色の黄ばみさびしくおもほゆるかも
『短歌行』 山中智恵子
そのはじめしられぬことのはるけさに
百人一首 なぜこの人・なぜこの一首:第7番安倍仲麿 ― 2010年03月05日
あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
【なぜこの人】
安倍仲麿は遣唐留学生として入唐し、唐朝に永く仕えて長安に骨を埋めた人。その経歴は今更ここに記すまでもないでしょう。最も有名な遣唐使の一人であり、また、大陸文化に憧れ、それを学びつつ日本文化の土台を築いた天平という時代を象徴する人物の一人とも言えましょう。その意味でも『百人秀歌』での大伴家持との合せは頷かれるところです。
王維や李白といった唐の詩人と交友を持ち、自身の詩才も相当のもので、唐代の詩文の粋を集めた大アンソロジー『文苑英華』に漢詩を採られているほどです。しかし和歌はと言えば、古今集に伝わり百人一首に採られた「あまの原」の一首しか残されていません。
弱年にして日本を離れ、青春期も壮年期も大唐帝国の空の下に送った仲麿にとって、おのれの感懐を託するのは漢詩であって、和歌ではなかったのでしょう。しかし、辛うじて一首の和歌が日本に伝わり、それがほかならぬ望郷の心を詠んだ歌であった――そのことを思えば、ひとしお貴い歌に感じられます。
さて仲麿は百人一首によって非常に有名な歌人になったわけですけれども、そもそも「歌人」という名を冠することのできる人ではありません。彼は決して著名歌人なのではなく、たまたま歌を残した(あるいはその人の作として歌が伝わった)歴史上の著名人物、なのです。
そうした人を撰び入れているところに、百人一首という秀歌撰の非常にユニークな性格を見ることができます。歌と、それを詠んだ人の一生というものが、切っても切れない、一つのものとなっている、そんな《一首》がある――たとえ大傑作ではないとしても。そうした歌の尊さを、晩年の定家は考えていたのではないでしょうか。百人それぞれの、かけがえのない一首――それゆえの「百人一首」。
【なぜこの一首】
前節で「たとえ大傑作ではないとしても」などと言ってしまいましたが、平安時代、「あまの原」の歌はまさに「大傑作」の扱いを受けていました。古今集羈旅部の巻頭を飾ったこの歌は、その後紀貫之が改めて精撰した『新撰和歌』にも採られ、さらに藤原公任の『新撰髄脳』『深窓秘抄』『金玉集』といった歌学書や詞華集に秀歌として引かれました。また『和漢朗詠集』にも採られて一層人々の愛誦するところとなったのです。
あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
古今集の詞書は「もろこしにて月を見てよみける」。この簡潔な説明と「安倍仲麿」という作者名だけで、一首の背景はじゅうぶん推し量れるでしょう。歌のあとに添えた左注、「…明州といふ所の海辺にて、かの国の人、うまのはなむけしけり」云々は、私には蛇足、というより不正確な憶説に思えます(後人の書き加えと見る説に賛成します)。場所は唐土のどこでもよい。ある晩、振り仰いで見た夜空に、月が輝いている。ああ、故郷春日の三笠山から昇った月、あの月と同じ月なのだ。
「出でし」の「し」は記憶の助動詞と呼ばれ、話手がかつての経験・認識などをいま回想していることを表します。この「し」によって、唐の夜空に輝く現実の月に、故国で見た思い出の中の月が重なるのです。一首の余情はそこから生れます。詞つきは一見万葉風ですが、流麗な調べと共に、まぎれもない古今集の歌です。
平明な表現のうちに深い余韻を湛えており、そうした歌を好んだ藤原公任が高く評価したのも肯けます。定家はもう少し複雑な作風、微妙な風情を好みましたが、物語的な背景が余情を添える歌にも好みを持っていたので、おそらく愛誦していたのではないでしょうか。自身の秀歌撰では『五代簡要』『定家八代抄』『秀歌大躰』に採り、また「さしのぼる三笠の山の峰からに又たぐひなくさやかなる月」と仲麿歌の影響の窺える歌を残しています。
さて家持・仲麿と、夜空を見上げる歌が続きました。これにつき早く契沖が「右二首ともに天象をよみ歌のほども似つきたるべし」と指摘しています(『百人一首改観抄』)。『百人秀歌』における定家の構想が明らかに感じられる組合せです。安東次男は家持の歌を張継の「楓橋夜泊」の詩を踏まえたものとした上で、この二首の対比を次のように説いています(『百首通見』)。
詩心のふるさとを唐土の空にまでさぐる霜夜の歌と、それに配するに異郷唐土にあって日本の月をしのぶ歌、ということになろうが、この二つの望郷を天空で交叉させる雄大な構想は、百首の中でもとりわけ心きいた合せ様である。
百人一首 なぜこの人・なぜこの一首:第8番喜撰法師 ― 2010年03月07日
わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり
【なぜこの人】
成書としての百人一首は、宮廷を中心とした和歌の歴史を辿る形をとっています。当然百人の顔ぶれは皇族・廷臣・女官の三者でおおかた占められることになりますが、それ以外にも重要な歌人群が存在します。坊主めくりのゲームでは嫌がられる人たちです。
歌で名を揚げた僧侶――《歌僧》は和歌史において無視できない一つの大きな流れを成し、定家の生きた時代には西行・寂蓮といった大歌人が現れました。隠者を主要な担い手とする中世の文学がすでに始まっていたのです。喜撰法師は言わばその源流をなす歌人と言えましょう。
宇治山の僧、喜撰。伝不詳の人物で、古今集仮名序を書いた紀貫之も「よめる歌、多く聞こえねば、かれこれを通はして、よく知らず」と困った様子です。それでも六歌仙として取り上げたのは、当時喜撰が既に名立たる伝説的歌人だったからです。その名声ゆえか、平安時代最初の歌学書として重んじられた『倭歌作式』の作者に擬せられ、この書を別名『喜撰式』と称します。
喜撰の偶像化をさらに推し進めたのが宇治という土地柄です。
宇治は平安貴族たちの清遊の地であると共に、平等院に象徴される浄土経の聖地でもありました。しかも源氏物語宇治十帖の舞台となって、名所歌枕としての声価もうなぎのぼり。定家の時代、喜撰のネーム・バリューはいかばかり高まっていたことでしょう。
宇治山の喜撰が跡などいふ所にて、人々歌よみける
嵐吹く昔の
庵 の跡たえて月のみぞすむ宇治の山もと
寂蓮の家集より。宇治山の喜撰の庵跡を歌人たちが訪ね、皆で歌を詠んだというのです。喜撰が後世の歌人たちに慕われていたことを示す、ほんの一例です。因みに、喜撰山と呼ばれる山には今も喜撰の住んだ洞窟が残っているそうです。
確実な作歌は一首しか伝わりません。この喜撰法師や安倍仲麿のように、たった一首の歌によって和歌の歴史に名を刻んだ人のことを思うと、定家は百人一首の構想を立てた後で仲麿や喜撰を撰んだと言うよりも、彼らのような存在が定家に百人"一首"という構想を思い付かせたのでないか――そんなふうに思えてきます。
【なぜこの一首】
古今集の真名序は喜撰について「其詞華麗而、首尾停滞、如望秋月遇暁雲(其の詞華麗にして、首尾停滞、秋月を望みて暁雲に遇へるが如し)」と評しています。「其詞華麗」とは、修辞の巧みさと、華やかなばかりにリズミカルな調べを賞賛した語でしょう。
わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり
「我が庵は、都の巽。しかぞ住む。」二句・三句切れが歯切れの良いリズムを生んでいます。さて「しかぞ住む」とはどう住むことかと読み進めれば、そのことは言わず、「世をうぢ山と人は言ふなり」と世人の噂に話題を転じて一首を閉じてしまう。このはぐらかされたような感じを、古今集序文の執筆者は「首尾停滞」とか「秋の月を見るに、曉の雲にあへるがごとし」とか言ったのでしょう。しかしこの飄々とした歌いぶりこそが、喜撰の歌の魅力なのです。
「世をうぢ山と人はいふ」と伝え聞いた事柄について、作者は肯定も否定もせず、世間(の噂)に対して超然たる態度を示しています。「しかぞ住む」とは要するに、そのように俗世に対して
しかし「世をうぢ(憂し)山」の句には自分自身に対する苦い皮肉が含まれるようにも聞こえ、単純なライト・ヴァースには終らない、一癖ある歌です。「老来、中風で手足の不自由を嘆くことのひどかった定家の姿が、そこに見えるような気がする」との指摘(安東次男『百首通見』)は鋭い。『百人秀歌』で小野小町(「…我が身世にふる…」)と合せていることを考えれば尚更です。いずれも厭世観の漂う歌ですが、小町の歌では老いた我が身を、喜撰の歌では遁世した我が身を、「他人ごとのように」(安東次男前掲書)眺めている歌という点で似通っています。
ところで定家は七十二歳になる天福元年(1233)冬に出家、法名「明静」を称しています。定家にとって「世を憂ぢ山」の歌はいにしえの名歌である以上に、つよい親近感をおぼえる一首だったのではないでしょうか。
なお、定家はこの歌を『五代簡要』『定家八代抄』『秀歌大躰』に採り、また「春日野やまもるみ山のしるしとて都の西も鹿ぞすみける」「わが庵は峯の笹原しかぞかる月にはなるな秋の夕露」などと本歌取りしています。
*
さて、最後に、この歌の配置について少し考察してみましょう。『百人秀歌』では第14番、小野小町の次に置かれている喜撰は、百人一首では第8番、仲麿の次に置かれています。この違いは何故生じたのでしょうか。
仲麿の次に喜撰を置いた理由について、たとえば『改観抄』の契沖は「宇治山をよめるをもて上の三笠山に類せられたるにや」と推察していますが、私の考えは全く異なります。百人一首の配列原理は次の二点にあると考えるからです。
- 和歌の歴史の流れを辿れるように、時代順に並べる。
- 和歌の多彩な変化を味わえるように、なるべく同季節・同趣向の歌は並べない。
但し、集中四十三首の多くを占める恋歌については、2の「同趣向の歌は並べない」が適用されず、同じ難波を用いた歌が続いたり(19番伊勢・20番元良親王)、同じ歌合に同じ題で出詠された歌が続いたり(40番平兼盛・41番壬生忠岑)しています(この理由については後述します)。
百人一首と『百人秀歌』の配列比較表を再び掲げてみましょう。今度は二十番目まで。
百人一首 | 百人秀歌 | |
1番 | 天智天皇 秋(露) | 左に同じ 秋(露) |
2番 | 持統天皇 夏(衣) | 〃 夏(衣) |
3番 | 柿本人麿 恋(鳥) | 〃 恋(鳥) |
4番 | 山辺赤人 冬(雪) | 〃 冬(雪) |
5番 | 猿丸大夫 秋(鹿) | 中納言家持 冬(霜) |
6番 | 中納言家持 冬(霜) | 安倍仲麿 旅(月) |
7番 | 安倍仲麿 旅(月) | 参議篁 旅(舟) |
8番 | 喜撰法師 雑(山) | 猿丸大夫 秋(鹿) |
9番 | 小野小町 春(花) | 中納言行平 別(松) |
10番 | 蝉丸 雑(関) | 在原業平朝臣 秋(紅葉) |
11番 | 参議篁 旅(舟) | 藤原敏行朝臣 恋(波) |
12番 | 僧正遍昭 雑(節会) | 陽成院 恋(川) |
13番 | 陽成院 恋(川) | 小野小町 春(花) |
14番 | 河原左大臣 恋(染) | 喜撰法師 雑(山) |
15番 | 光孝天皇 春(若菜) | 僧正遍昭 雑(節会) |
16番 | 中納言行平 別(松) | 蝉丸 雑(関) |
17番 | 在原業平朝臣 秋(紅葉) | 河原左大臣 恋(染) |
18番 | 藤原敏行朝臣 恋(波) | 光孝天皇 春(若菜) |
19番 | 伊勢 恋(葦) | 左に同じ 恋(葦) |
20番 | 元良親王 恋(澪標) | 〃 恋(澪標) |
ここでは仮に、『百人秀歌』が先に出来、それを改訂して今の百人一首が出来上がった、とする国文学界の有力説を基に考察を進めたいと思います。この説に今のところ不都合な点は見出せないからです。逆に、百人一首が先に出来たとか、両方が同時に出来たとかいった考え方には、両者の配列を比較する上で、合理性を見出せません。
さて番外編その一で書いたように、『百人秀歌』では赤人・家持と「白」を詠んだ冬歌が続いていたことを嫌って、百人一首の編者は時代不詳の人物である猿丸大夫を赤人・家持の間に割り込ませたと考えられます。『百人秀歌』ではさらに6番安倍仲麿・7番参議篁と旅歌が連続し、しかも仲麿(西暦698年生)と篁(802年生)では時代に百年以上の開きがあります。この二人を何とか引き離したい――百人一首の編者はそう考えて、さらに配置の転換を考えたでしょう。そこで再び時代不詳の人物が利用されます。伝説的歌人、喜撰法師・小野小町・蝉丸の三人をまとめて仲麿の後に移し、その次に篁を置いたのです。
猿丸大夫が前へ移ったために、篁の後には中納言行平(818年生)が来ますが、僧正遍昭(816年生)の方が行平より前の人なので、篁の次へ移します。遍昭の後には、行平が仕えた陽成院と光孝天皇、また行平とほぼ同世代であるが身分の高い河原左大臣を置き、行平・業平の兄弟は当然この順序のまま。業平の次に来るのは、業平の妹婿であった藤原敏行が適当ですから、この順番も『百人秀歌』を踏襲します。次に来る伊勢(870年代生)・元良親王(890年生)は時代順の原則に抵触しないので『百人秀歌』の位置のままに残されたのでしょう。
こう考えれば、少なくとも二十番までの百人一首と『百人秀歌』の配列の違いを説明できます。
(2010年3月12日、2011年8月20日加筆訂正)
白氏文集卷十四 南秦雪 ― 2010年03月11日
往歳曾爲西邑吏
慣從駱口到南秦
三時雲冷多飛雪
二月山寒少有春
我思舊事猶惆悵 我は旧事を思ひて
君作初行定苦辛 君は
仍賴愁猿寒不叫
若聞猿叫更愁人
【通釈】往年、私は西邑の官吏となり、
駱口から南秦への道を通い慣れたものだ。
春夏秋の三時も雲は冷え冷えとして、雪を舞わせることが多く、
二月になっても山は寒々として、春らしい季節は短い。
私はその頃のことを思い出して、さらに嘆き悲しむ。
あなたは初めての旅で、さぞかし苦労していることだろう。
しかし幸いなことに、寒すぎて猿が悲しげに叫ぶことはない。
もし猿が叫ぶのを聞けば、ひとしお君を悲しませるだろう。
【語釈】◇西邑 長安西郊の盩厔県。白居易は元和元年(806)その県尉となり、翌年まで滞在した。◇駱口 蜀へ向かう南山路の入口にある駅。
【補記】元和四年(809)三月、元稹が監察御史として蜀の東川に派遣された時三十二首の詩を詠み、白居易はそのうち十二首に和して酬いた。その第二首。下に引いた枕草子の歌は、当詩の頷聯を踏まえる。下句は藤原公任が第四句の「少有春」を「少し春ある」と訓んで翻案したものであり、これに清少納言が付けた上句は第三句の「雲冷多飛雪」を翻案したものである。
【影響を受けた和歌の例】
空寒み花にまがへてちる雪にすこし春ある心ちこそすれ(清少納言・藤原公任『枕草子』)
うづみ火にすこし春ある心ちして夜ぶかき冬をなぐさむるかな(藤原俊成『風雅集』)
白氏文集卷十四 嘉陵夜有懐二首 ― 2010年03月13日
露濕牆花春意深 露は
西廊月上半床陰
憐君獨臥無言語 憐れむ 君が独り
唯我知君此夜心
其二
不明不暗朧朧月 明ならず暗ならず
不暖不寒慢慢風 暖ならず寒ならず
獨臥空床好天氣 独り
平明閒事到心中 平明
【通釈】露は垣根の花を潤して、春のあわれが深い。
西の渡殿に月が昇り、寝床の半ばを照らしている。
悲しく思う、君が独り言葉も無く床に臥していることを。
ただ私だけが、君の今夜の心を知っている。
其の二
明るくもなく、暗くもない、おぼろな月。
暑くもなく、寒くもない、ゆるやなか風。
私は独り寝床に臥して、天気は穏やか。
明け方、つまらぬ事ばかり心に浮かんで来る。
【語釈】◇平明 夜明け。◇間事 無駄な心配事を言うのであろう。
【補記】元和四年(809)三月、元稹が監察御史として蜀の東川に派遣された時三十二首の詩を詠み、白居易はそのうち十二首に和して酬いた。その第八・九首。那波本白氏文集では其の二の初句は「不明不闇朦朧月」とする。ここでは『全唐詩』などに拠り、我が国でより流通している本文を採った。『千載佳句』巻上「春夜」、『新撰朗詠集』巻上「春夜」、いずれも「其二」の初二句を「不明不暗朧朧月、非暖非寒漫漫風」として引く。
【影響を受けた和歌の例】
大江千里・藤原隆房の歌はいずれも句題和歌である。また讃岐以下の歌は、直接的には千里の「照りもせず」歌の本歌取りであり、白氏の詩は間接的に影響を与えていると言うべきであろう。
照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ
暑からず寒くもあらずよきほどに吹き来る風はやまずもあらなむ(大江千里『句題和歌』)
くまもなくさえぬものゆゑ春の夜の月しもなぞやおぼろけならぬ(藤原隆房『朗詠百首』)
てりもせず雲もかからぬ春の夜の月は庭こそしづかなりけれ(讃岐『千五百番歌合』)
大空は梅のにほひにかすみつつ曇りもはてぬ春の夜の月(藤原定家『新古今集』)
吉野山てりもせぬ夜の月かげにこずゑの花は雪とちりつつ(後鳥羽院『千五百番歌合』)
志賀の浦のおぼろ月夜の名残とてくもりもはてぬ曙の空(同上『元久詩歌合』)
てりもせぬ月のつくまも見ゆばかりあたら夜ごとに霞む空かな(藤原信実『洞院摂政家百首』)
てりもせずおぼろ月夜のこち風にくもりはてたる春雨ぞふる(藤原為家『夫木和歌抄』)
照りもせずかすめばかすむ月ゆゑは曇りもはてじ人の俤(順徳院『紫禁和歌集』)
月ぞ猶くもりもはてぬ山の端はあるかなきかに霞む夕べに(頓阿『草庵集』)
かすみつつ曇りもはてずながき日に朧月夜を待ちくらしぬる(飛鳥井雅親『続亜槐集』)
吉野山咲きものこらぬ花の上にくもりもはてずあり明の月(松永貞徳『逍遥集』)
てりもせぬ春の月夜の山桜花のおぼろぞしく物もなき(本居宣長『鈴屋集』)
てりもせぬおぼろ月夜のをぐら山されどもあかず花かげにして(香川景樹『桂園一枝拾遺』)
雲の記録20100314 ― 2010年03月14日
和歌歳時記:早蕨 さわらび Bracken shoot ― 2010年03月15日
啓蟄も過ぎたうららかな日、山に入つてみると、道端の崖地に早蕨が萌え出てゐた。茎の生毛が春の光に輝いて美しい。
『万葉集』 志貴皇子の
懽 の御歌一首
石 ばしる垂水 のうへの早蕨の萌え出づる春になりにけるかも
「
蕨は山、野、谷、至るところに見られる羊歯植物。萌え出て間もないものを「さわらび」「うちわらび」「したわらび」「かぎわらび」などと言ひ、また初物を「初わらび」と言つた。
さわらびは「早蕨」と書くのが普通になつてゐるが、元来「さ」に「早」の意は無い。田に移し変へる頃の苗を「さ苗」と言ひ、神を降す神聖な場所を「さ庭」と呼ぶやうに、この「さ」は聖なるものに讃美や畏敬の心をこめて冠した接頭語のやうだ。
やがて1メートル近くまで伸びる葉の生命力を小さな芽のうちに詰め込んだ若い蕨は、春の聖なる食物でもあつた。平安時代、貴族たちも蕨狩を楽しんだことが数多の和歌によつて知られる。
『堀河百首』 早蕨 祐子内親王家紀伊
まだきにぞ摘みに来にけるはるばると今もえ出づる野べのさわらび
遥々と摘みにやつて来たところが、野辺の蕨は今しも萌え出たばかりであつた、といふ歌。「まだきにぞ」に蕨摘みを待ちきれない心が籠もり、また「はるばると」には「春」が重ねられて、いよいよ盛春を迎へる心の躍動が感じられる。
早蕨が萌え出る頃には菫の花や菜の花も咲き始め、鶯は里に出て鳴き、桜の花芽もふくらんでゐる。早蕨はその赤子のやうな小さなこぶしのうちに、すべての春の喜びを握り締めてゐるかのやうだ。
**************
『源氏物語・早蕨』 中の君
この春はたれにか見せむなき人のかたみにつめる峰のさわらび
『夫木和歌抄』 小式部内侍
さわらびのもえ出づる春の夕暮は霞のうへに煙立ちけり
『金葉集』(奈良にて人々百首歌よみ侍りけるに早蕨をよめる) 永縁
山里は野辺のさわらびもえいづる折にのみこそ人はとひけれ
『堀河百首』(早蕨) 源俊頼
春くれど折る人もなき早蕨はいつかほどろとならむとすらん
『堀河百首』(早蕨) 藤原公実
春日野の草葉は焼くと見えなくに下もえわたる春の早蕨
『夫木和歌抄』(早蕨) 源仲正
鍬たてて掘り求めせしうちわらび春はおほ野にもえ出でにけり
『源三位頼政集』(折蕨遇友) *源頼政
めづらしき人にも遇ひぬ早蕨の折らまく我も野辺に来にけり
『山家集』(早蕨) 西行法師
なほざりに焼き捨てし野のさわらびは折る人なくてほどろとやなる
『壬二集』(早蕨) 藤原家隆
つま木には野辺のさわらび折りそへて春の夕にかへる山人
『拾遺愚草』(早蕨) 藤原定家
いはそそぐ清水も春の声たてて打ちてや出づる谷の早蕨
『遠島百首』 後鳥羽院
もえ出づる峰のさわらび雪きえて折すぎにける春ぞ知らるる
『新千載集』(題しらず) 亀山院
焼きすてし煙の末の立ちかへり春はもえ出づる野べの早蕨
『尭孝法印集』(早蕨未遍) 尭孝
雪きゆる垂水のうへはもえ
『春夢草』(早蕨) 肖柏
『雪玉集』(暮采山上蕨) 三条西実隆
なれにける山路はかへる程もあらじ夕日に折らん嶺のさわらび
『晩花集』(わらび) *下河辺長流
おもふ人すむとはなしに早蕨のをりなつかしき山のべの里
『巴人集』 四方赤良
早蕨のにぎりこぶしをふりあげて山の横つらはる風ぞ吹く
『草径集』(春夢) 大隈言道
まどろめば野をちかづけて枕べにあるここちする菫さわらび
『ともしび』 斎藤茂吉
あづさゆみ春ふけがたになりぬればみじかき蕨朝な
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