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百人一首 なぜこの人・なぜこの一首:第7番安倍仲麿2010年03月05日

安倍仲麿

あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

【なぜこの人】
安倍仲麿は遣唐留学生として入唐し、唐朝に永く仕えて長安に骨を埋めた人。その経歴は今更ここに記すまでもないでしょう。最も有名な遣唐使の一人であり、また、大陸文化に憧れ、それを学びつつ日本文化の土台を築いた天平という時代を象徴する人物の一人とも言えましょう。その意味でも『百人秀歌』での大伴家持との合せは頷かれるところです。
王維や李白といった唐の詩人と交友を持ち、自身の詩才も相当のもので、唐代の詩文の粋を集めた大アンソロジー『文苑英華』に漢詩を採られているほどです。しかし和歌はと言えば、古今集に伝わり百人一首に採られた「あまの原」の一首しか残されていません。
弱年にして日本を離れ、青春期も壮年期も大唐帝国の空の下に送った仲麿にとって、おのれの感懐を託するのは漢詩であって、和歌ではなかったのでしょう。しかし、辛うじて一首の和歌が日本に伝わり、それがほかならぬ望郷の心を詠んだ歌であった――そのことを思えば、ひとしお貴い歌に感じられます。

さて仲麿は百人一首によって非常に有名な歌人になったわけですけれども、そもそも「歌人」という名を冠することのできる人ではありません。彼は決して著名歌人なのではなく、たまたま歌を残した(あるいはその人の作として歌が伝わった)歴史上の著名人物、なのです。
そうした人を撰び入れているところに、百人一首という秀歌撰の非常にユニークな性格を見ることができます。歌と、それを詠んだ人の一生というものが、切っても切れない、一つのものとなっている、そんな《一首》がある――たとえ大傑作ではないとしても。そうした歌の尊さを、晩年の定家は考えていたのではないでしょうか。百人それぞれの、かけがえのない一首――それゆえの「百人一首」。

【なぜこの一首】
前節で「たとえ大傑作ではないとしても」などと言ってしまいましたが、平安時代、「あまの原」の歌はまさに「大傑作」の扱いを受けていました。古今集羈旅部の巻頭を飾ったこの歌は、その後紀貫之が改めて精撰した『新撰和歌』にも採られ、さらに藤原公任の『新撰髄脳』『深窓秘抄』『金玉集』といった歌学書や詞華集に秀歌として引かれました。また『和漢朗詠集』にも採られて一層人々の愛誦するところとなったのです。

あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

古今集の詞書は「もろこしにて月を見てよみける」。この簡潔な説明と「安倍仲麿」という作者名だけで、一首の背景はじゅうぶん推し量れるでしょう。歌のあとに添えた左注、「…明州といふ所の海辺にて、かの国の人、うまのはなむけしけり」云々は、私には蛇足、というより不正確な憶説に思えます(後人の書き加えと見る説に賛成します)。場所は唐土のどこでもよい。ある晩、振り仰いで見た夜空に、月が輝いている。ああ、故郷春日の三笠山から昇った月、あの月と同じ月なのだ。
「出でし」の「し」は記憶の助動詞と呼ばれ、話手がかつての経験・認識などをいま回想していることを表します。この「し」によって、唐の夜空に輝く現実の月に、故国で見た思い出の中の月が重なるのです。一首の余情はそこから生れます。詞つきは一見万葉風ですが、流麗な調べと共に、まぎれもない古今集の歌です。
平明な表現のうちに深い余韻を湛えており、そうした歌を好んだ藤原公任が高く評価したのも肯けます。定家はもう少し複雑な作風、微妙な風情を好みましたが、物語的な背景が余情を添える歌にも好みを持っていたので、おそらく愛誦していたのではないでしょうか。自身の秀歌撰では『五代簡要』『定家八代抄』『秀歌大躰』に採り、また「さしのぼる三笠の山の峰からに又たぐひなくさやかなる月」と仲麿歌の影響の窺える歌を残しています。

さて家持・仲麿と、夜空を見上げる歌が続きました。これにつき早く契沖が「右二首ともに天象をよみ歌のほども似つきたるべし」と指摘しています(『百人一首改観抄』)。『百人秀歌』における定家の構想が明らかに感じられる組合せです。安東次男は家持の歌を張継の「楓橋夜泊」の詩を踏まえたものとした上で、この二首の対比を次のように説いています(『百首通見』)。

詩心のふるさとを唐土の空にまでさぐる霜夜の歌と、それに配するに異郷唐土にあって日本の月をしのぶ歌、ということになろうが、この二つの望郷を天空で交叉させる雄大な構想は、百首の中でもとりわけ心きいた合せ様である。

コメント

_ 三友亭主人 ― 2010年03月08日 10時07分

なぜ・・・三笠山なのか・・・そんなことに興味を持った思い出があります。
その麓には春日大社の若宮が・・・遣唐使が派遣される際に、このお社でその送別の儀式が行われていたとか。
そんな事実を知ったとき、なんとなく仲麿の心情に迫ることが出来たように思いました。

_ 水垣 ― 2010年03月08日 15時15分

三笠山(御蓋山)は遣唐使にとって特別に思い入れの深い山だったわけですね。
もっとも、遣唐使に限らず、平城京に住んでいた人にとっては、月の出る山と言えば真っ先に三笠山が思い出されたのではないでしょうか。まろやかな山容から昇る月はさぞかし美しかったことでしょう。

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