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百人一首 なぜこの人・なぜこの一首 第9番小野小町2010年03月24日

小野小町

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

【なぜこの人】
平安文学の著しい特色として女官たちの華々しい活躍を挙げるのは常識でしょう。和歌の世界でも後宮のサロンを中心にすぐれた女流が輩出しました。小野小町はその端緒を切りひらいた歌人と言えましょう。平安初期の六歌仙の紅一点。平安中期の三十六歌仙にも撰ばれています。

生年は西暦820~830年頃と推測され(片桐洋一『小野小町追跡』)、仁明天皇の更衣――天皇のお着替えに奉仕し、ご寝所にも侍した女官――であったと見る説が現在では有力です。当時、更衣を「町」と呼んでいたことが史料によってほぼ実証できるからです。姉妹そろって後宮に仕え、姉が「小野町(おののまち)」、妹が「小野小町」と呼ばれた、というわけです(小町に姉がいたことは、古今集の作者に「小町が姉」の名の見えることから知られます)。

佐竹本三十六歌仙絵 小野小町 紀貫之は古今集の仮名序で「小野小町は、いにしへの衣通姫(そとほりひめ)の流なり」としています。衣通姫は西暦5世紀の大王とされる允恭(いんぎょう)天皇の皇后の妹で、日本書紀によれば絶世の美女、その美しさは衣を透して輝く程でした。天皇に寵愛されますが、姉の嫉妬を受け、宮廷から遠ざけられてしまいます。「我がせこが来べき宵なりささがねの蜘蛛の行ひこよひしるしも」は天皇の来訪を予感して詠んだと伝わる歌。であれば貫之の言う「衣通姫の流」とは、後宮で生まれた閨怨歌の系統という程の意かと思われます。これに続けて曰く「あはれなるやうにて強からず。いはばよき(をうな)のなやめるところあるに似たり」。やや辛口ではありますが、小町の歌の嫋々とした調べと妖艶な風姿を的確に言い当てています。

貫之は小町より五十年ほど後の生れで、孫の世代にあたります。小町のことはよく聞き知っていたはずで、仮名序の短評には小町の実像を知るための重要な手がかりが隠されていたようです。
しかし小町の実像は次第に人々から忘れ去られ、逆に虚像ばかりが膨らんでゆきました。平安時代後半には『玉造小町子壮衰書』の主人公と混同され、勢家の驕慢な美女が老いて落ちぶれるという有り難くない伝説まで負わされてしまいました。挙げ句は陸奥(みちのく)で野垂れ死にし、眼窩に薄を生やした髑髏が「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」と旅人に歌い掛けたなどという話も、定家の時代には既に有名な小町伝説の一つだったのです。

実在した一人の閨秀歌人であった小町は、日本人の夢と幻想の中で生き続け、さまざまな物語を纏い付かせながら、いつしか美のはかなさ、生のはかなさを一身に体現する巨大な伝説的存在となっていました。

【なぜこの一首】
定家は鎌倉の将軍源実朝に贈った『近代秀歌』という書で和歌についての所懐を簡明に述べていますが、その中に紀貫之とその追随者を批判するくだりがあります。

むかし貫之、歌心たくみに、(たけ)及びがたく、(ことば)つよく、姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の(たい)をよまず。それよりこのかた、其の流れを承くる(ともがら)、ひとへに此の姿におもむく。

歌人たちが古今集を、そして撰者の紀貫之を崇拝するようになると、もっぱら技巧的で、調べの高い、趣向の面白い歌ばかりが好まれるようになり、情念が溢れるような妖しく美しい歌は詠まれなくなってしまった、と定家は言うのです。末世ともなればさらに歌の品は下り、格調さえ失われてしまった。そして次のように続けます。

今の世と成りて、この賎しき姿をいささか変へて、古き(ことば)を慕へる歌、あまた出で来たりて、花山僧正、在原中将、素性、小町が後、絶えたる歌のさま、わづかに見え聞ゆる時侍るを、物の心さとりしらぬ人は、あたらしきこと出で来て、歌の道かはりにたり、と申すも侍るべし。

定家を始めとする新古今歌人の歌風を、遍昭や在原業平、小野小町らの歌風の復活として歴史的に位置づけたのです。「絶えたる歌のさま」とはすなわち「余情妖艶の体」で、定家は最後に名を挙げていますが、ほかならぬ小町こそがこの体の代表者でした。妖艶とはまさに、貫之が小町を評した「よき女のなやめるところ」に求められるような美だからです。

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

古今集では春の部にあり、あくまでも桜のうつろいを惜しんだ歌として、老や恋にまつわる心情を読み取ることを否定する説もあります。しかし、一首を読み下せば、おのずと人生的な感慨を呼び起こされずにはいず、これを季節の歌に局限するのは無理な解釈に思えます。
長雨に降られて桜が衰えるまでをぼんやりと「いたづらに」過ごしてしまった、その悔恨のみを言うためには、「我が身世にふる」はいくら何でも大仰に過ぎる詞でしょう。桜の盛りはほんの数日なのです。この第四句で人生的な感慨の方が前面にせり出して来ざるを得ませんが、「()る」「降る」、「眺め(詠め)」「長雨(ながめ)」の掛詞に立ち止まり、繰り返し振り返るうち、女人のはかない世過ぎの風情に再び「花の色」が濃くにおってきます。こうして「うつりにけりな」の歎息を重い余韻として響かせながら、一首はしめやかに閉じられます。

伝説的存在としての小野小町に最も似つかわしいという意味でも、この歌は小町の決定的な代表作と言えましょう。いや、話は逆で、後世の小町壮衰伝説の淵源をなしたのがこの一首だった、と言うべきなのかも知れません。

なお定家はこの歌を『五代簡要』『定家八代抄』『近代秀歌(自筆本)』『詠歌大概』『八代集秀逸』にも撰び、また「たづね見る花のところも変はりけり身はいたづらのながめせしまに」「春よただ露のたまゆらながめしてなぐさむ花の色はうつりぬ」など、たびたび本歌取りを試みています。百人一首の歌の中でも格別に愛重の深い一首であったに違いありません。

(3月27日加筆訂正)

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