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百人一首 なぜこの人・なぜこの一首 第10番 蝉丸2010年04月24日

蝉丸

これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関

【なぜこの人】
蟬丸も正体のはっきりしない人です。後撰集の詞書に「逢坂の関に庵室をつくりてすみ侍りけるに、ゆきかふ人を見て」とあり、山城・近江国境(今で言えば京都府と滋賀県の県境)にあった関所に仮住まいしていた隠者だったと知られます。もっとも、この詞書自体、既に伝説に拠ったものかも知れないのですが…。

百人一首画帖 蝉丸(作者不詳)
百人一首画帖 蟬丸(作者不詳)
定家の時代までの蟬丸伝説を調べてみると、逢坂の関の物乞いであったが琴を弾いて世人を感心させた(俊頼髄脳・古本説話集)、あるいは出家前の遍昭が和琴を習いに逢坂の蟬丸のもとに通った(無名抄)との伝がある一方、源博雅に秘伝の曲を授けた盲目の琵琶の名手であったとの説話(今昔物語など)もあります。遍昭は西暦9世紀の人、博雅は10世紀の人で、時代に百年も隔たりがあります。

ところで『俊頼髄脳』や『無名抄』などでは蟬丸の盲目について触れておらず、後撰集の詞書に「ゆきかふ人を見て」とあるからには、蟬丸を盲目の琵琶法師としたのは後世の付会だったかも知れません。但し定家は『定家八代抄』に蟬丸の歌を写す際、詞書を「逢坂の関に庵室をつくりて住み侍りけるころ」と改め、「ゆきかふ人を見て」を削っています。おそらく蟬丸盲人説に基づき、理屈に合わない部分を除いたのでしょう。論理的で神経質な一面のあった定家らしい所業ではあります。

蟬丸を盲目の琵琶の上手とする今昔物語の説話では、その風貌は超然たる風流生活を送る狷介孤高の藝術家といったところ。なかなか魅力的なキャラクターです。百人一首カルタでも、頭巾を被り琵琶を抱いて、その異様な風采で目立つ人ですね。こうした変り種の歌人がいることも、百人一首という歌集の魅力の一つではないでしょうか。

小倉色紙 蝉丸 東京国立博物館蔵
小倉色紙「これやこの…」
東京国立博物館蔵
因みに百人一首は古くは「小倉山庄色紙和歌」とも呼ばれ、定家自身の手になる色紙が「小倉色紙」として幾枚か伝わっています。延徳三年(1491)、三条西実隆が宗祇庵を訪ねた折、定家自筆の小倉色紙(「あしひきの山鳥の尾の…」)を見たことが『実隆公記』という日記に書かれていますが、その時実隆は藤原信実の絵を模写した土佐信之筆の人丸像もいっしょに見たと言います。もともと小倉百首の色紙は似絵(にせえ)と共に飾られていたようなのです。小倉百首の似絵に描かれた蟬丸はやはり琵琶を抱いていたのでしょうか。定家と同時代の名筆信実の絵が絶えて伝わらないのは返す返すも惜しまれます。

なお、蟬丸という名は「蟬歌」「蟬声」などと言う「蟬」と関係がありそうです。琵琶を伴奏に、しぼり出すような声で経文を唱えた盲僧の集団が早くからありました。「蟬丸」という名には、そうした組織の集団的人格が負わされたのかも知れません。であれば、時代を超えて活躍しても不思議はないでしょう。

やがて蟬丸は関の守り神として祭られ、また藝能の神として信仰されました。彼を一介の隠者から神へと押し上げたそもそもの源を尋ねれば、勅撰集に採られたたった一首の歌の力だったのです。

【なぜこの一首】
蟬丸の歌は勅撰集に四首採られていますが、後撰集の一首すなわち百人一首の歌以外は蟬丸説話の中に出て来る歌で、後世の創作あるいは付会と思われます。

これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関

まるで見栄を切って口上を述べ始めるかのような、高揚した初句。次いで、「行く/帰る」「知る/知らぬ」「別れ/逢ふ」と対語を連ね呼応させる軽妙な言葉遊びに身をゆだねてゆくうち、結句に至ってふいに人々が慌ただしく行き交う関路の雑踏がありありと見え、また聞こえてくるかのようです。そこには出会いと別れがあり、喜びと悲しみが交錯します。

光琳カルタ 蝉丸
光琳カルタ 蟬丸
中世の注釈書では仏教に言う会者定離(えしやじようり)や万物流転の心を読み取っており、定家も無常思想に重点を置いた読み方をしていた可能性はありますが、そうしたことは抜きにしても興趣の深い一首です。定家はこの歌を『五代簡要』『定家八代抄』『近代秀歌』『八代集秀逸』などの秀歌撰に撰び入れ、また「知る知らぬ逢坂山のかひもなし霞にすぐる関のよそめは」「山ざくら花の関もる逢坂はゆくもかへるも別れかねつつ」などと本歌取りしています。

【なぜこの人】ではあれこれと人物像について書きましたが、実は蟬丸の場合、人よりも歌で撰んだのではないかと私は思います。歌自体が優れているのはもちろん、『百人秀歌』での遍昭との合せは面白く、和琴の弟子(?)であった遍昭の歌とセットで撰んだのではないかとも思えてくるのです(『百人秀歌』での合せについては遍昭の章で述べます)。

なお、百人一首カルタでは普通第三句が「別れては」になっていますが、後撰集の善本や定家撰の秀歌撰では「別れつつ」とあるので、ここでは「つつ」の本文を採用しました。

コメント

_ ぱぐ ― 2010年04月24日 19時04分

水垣さん、こんばんは。
個人名で歌が詠まれる前の伝説の時代、の歌なんでしょうね。
人麻呂の名前の歌にもそういうのがけっこう多いんじゃなかったですか?

*崇徳院について、浦木さんご作成のテキスト紹介、
ありがとうございました。お気に入りに入れておきました。

_ 水垣 ― 2010年04月25日 09時13分

ぱぐさん、おはようございます。
「これやこの」は個人性の感じられない歌ですね。とても声調が良くて、いかにも口誦歌、口から口へ詠み継がれていった歌という感じがします。そう言えば人麻呂歌集歌にもそんなふうな歌が多いですね。

崇徳院について書かれるのを楽しみにしております。

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