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百人一首なぜこの人・なぜこの一首 第14番:河原左大臣2010年10月13日

河原左大臣

陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり(たれ)ゆゑに乱れそめにし我ならなくに

【なぜこの人】

百人一首に選ばれた平安時代前期の歌人の顔ぶれを眺めわたすと、いかにも個性的な面々を列ねています。小町・業平といった伝説に彩られた大歌人がいるかと思えば、喜撰・蟬丸といった謎めいた隠者もあり、また小野篁や陽成院のような劇的な人生を送った癖の強い人物たちもいて、実に魅力的なキャラクターが揃っているのです。河原左大臣もまた、その意味では少しも引けを取らない存在でしょう。

河原(かわらの)左大臣(ひだりのおおいもうちぎみ)(みなもとの)(とおる)。嵯峨天皇の皇子として生れましたが、臣籍に下って源姓を賜わりました。後世繁栄する嵯峨源氏の祖の一人です。子孫には歌人の安法法師や鬼退治で名高い渡辺綱などがいます。

生年は弘仁十三年(822)で、在原業平より三歳年長です。六歌仙と同時代人になるわけですが、伊勢物語にも引用された名高い歌を残しながら歌仙に選ばれなかったのは、ひとえに彼の身分が高すぎたためでしょう。と言うのも、貫之は古今集仮名序で「つかさ、くらゐ、たかき人をば、たやすきやうなれば入れず」と、官位の高い歌人を評価の対象から外すと宣言しているのです。

「河原左大臣」の「河原」とは、賀茂川の六条河原に建てた大邸宅「河原院」の名に因みます。河原院のことは早く古今集に見え、融の死後、紀貫之がこの邸を訪れて残した哀傷歌は名高いものです。

河原の左の大臣(おほいまうちぎみ)の身まかりてののち、かの家にまかりてありけるに、塩竈(しほがま)といふ所のさまをつくれりけるを見てよめる

君まさで煙たえにし塩竈のうらさびしくも見え渡るかな

「塩竈」は今の宮城県塩竈市。その海辺は古来塩焼の名所として知られました。融はこのエキゾチックな歌枕に憧れるあまり、自邸の庭に大きな池を掘り、海水を毎日大量に運び入れては塩焼を楽しんだと言います。侘しい漁村の鄙びた風俗を愛する心は、後世の茶の湯や俳諧に通ずる美意識と言えましょう。まことに源融こそは平安風流貴公子の(さきがけ)であり、光源氏のモデルと見なされたのも当然です。源氏物語を和歌の聖典として仰いだ定家の時代、歌人たちにとって河原左大臣の存在感はいっそう重みを増していたことでしょう。新古今歌人たちは競うように彼の歌を本歌取りしましたが、ことに愛されたのがほかならぬ「しのぶもぢずり」の歌でした。

【なぜこの一首】

陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり(たれ)ゆゑに乱れそめにし我ならなくに

光琳かるた 河原左大臣 上句
光琳かるた 河原左大臣 上句
この歌は古く伊勢物語にも引用されているほどで、作られた当初から評判を呼んだようです。「みちのくのしのぶもぢずり」という、実体はよく分からぬながら、何となくエキゾチックで野趣の感じられる摺り染めの名を借りて、乱れる恋心を印象深く歌い上げています。陸奥の歌枕に憧れた風流人に似つかわしいという意味でも、河原左大臣の代表作にこれ以上ふさわしい歌はありません。

「しのぶもぢすり」までは「乱れ」を導く序詞としてのはたらきを持ちますが、その間に「誰ゆゑに」という句を割り込ませ、一首に曲折を与えています。しかも結句を「我ならなくに」と逆接で閉じ、恋しい人への怨みを余情として響かせます。まさに「もぢずり」よろしく捩じれたような歌いぶりが魅力的な一首ですが、「乱れ()め」に「乱れ()め」を掛けたのも洒落ています。

小倉百首以外の秀歌撰では『五代簡要』『定家八代抄』に採られたくらいで、定家が特別高く評価した形跡はないのですが、定家の歌にこの歌の影響が明らかな作は多く、そのうち少なくとも四首は本格的な本歌取りと言えるものです。

春日野のかすみの衣山風にしのぶもぢずり乱れてぞゆく
袖ぬらすしのぶもぢずり誰が為に乱れてもろき宮城野の露
逢ふことはしのぶの衣あはれなど稀なる色に乱れそめけむ
みちのくのしのぶもぢずり乱れつつ色にを恋ひむ思ひそめてき

光琳かるた 河原左大臣 下句
光琳かるた 河原左大臣 下句
定家がこれほど多く本歌取りを試みている歌を他に探してみると、小町「花の色は…」遍昭「天つ風…」業平「ちはやぶる…」源宗于「山里は…」、そして(百人一首には採られませんでしたが)紀貫之「むすぶ手の…」くらいしかありません。本歌取りとは本歌に対するオマージュでもありますから、作者の愛着の深さを計るバロメーターになります。

なお、定家自身が書写した古今集(伊達本)では第四句が「みだれむと思ふ」になっており、『百人秀歌』でも「みだれむとおもふ」なので、定家はこちらの形を良しとしたかもしれません。しかし、上に挙げた定家の本歌取りには「乱れそめけむ」「思ひそめてき」とあるように、「みだれそめにし」の本文にも親しんでいたことが窺えます。伊勢物語の写本も多く「みだれそめにし」とあるので、百人一首の最終編集者が最終的に「みだれそめにし」の方を選択した可能性がないとも言い切れません。ここでは取りあえず人口に膾炙した「みだれそめにし」を採用しました。

【なぜこの位置】

系図 桓武天皇の子孫と百人一首歌人
桓武天皇の子孫と百人一首歌人の系図
百人一首では河原左大臣は陽成院と光孝天皇という二人の天皇に挟まれていますが、これはなかなか気の利いた配置と言うべきでしょう。と言うのも、『大鏡』によると、陽成天皇の退位後、次の天皇に誰を擁立するかという議論になった時、融は発言して「いかがは。ちかき皇胤をたづねば、融らも侍るは」と、自らを皇位継承者に擬したと言うのです。摂政であった藤原基経は直ちに反論して「皇胤なれど、姓給ひてただ人にてつかへて、位につきたる例やある」(天皇の血統と言っても、賜姓されて臣下として天皇に仕えた人が、即位した例などあろうか)と述べ、融の自己推薦はたちまち揉み消されてしまいました。そして基経の推薦で即位したのが光孝天皇だったのです。

因みに、光孝天皇が在位四年にして病に倒れると、基経は臣籍降下していた光孝の皇子、源定省(さだみ)を推挙して親王に復し、立太子・践祚させました。宇多天皇です。『大鏡』の記事が事実とすれば、基経はあっさり前言を撤回したわけで、融はまんまと欺かれた恰好です。

今生に恨みを残したか、融は死後も亡霊として河原院に住み続けました。『江談抄』によれば、河原院に渡御した宇多天皇の前に融の幽霊があらわれ、御息所を賜われと迫ったと言います。似たような話は『今昔物語』『古本説話集』などにも見え、河原院は名庭から一転、霊鬼の棲処として知られるようになり、以後急速に荒廃してしまったようです。

ところが融の六代孫である歌人安法法師が移り住むようになると、河原院は歌人の集いの場となり、歌合や歌会がたびたび開かれるようになりました。百人一首の恵慶法師の歌(第47番)も河原院で詠まれたものです。風雅の庭が復活すると共に、融の霊もようやく癒されたことでしょう。

(2010年10月16日加筆訂正)