和歌をどう誦むか。どう書くか。 ― 2011年02月23日
皆さんは和歌をどのような調子で読み上げておられるでしょうか。多くの方は黙読されていることと思いますが、黙読と言っても、リズムは取りながら読まれているに違いありません。
定家の歌を例に引きましょう。
花の香はかをるばかりを行方とて風よりつらき夕闇の空
和歌の5・7・5・7・7という音数律は、各句8音分のスペースがあるところへ、5音と7音を当てはめることにより、律動を生む形式です(つまり4拍子が基本にあります)。上に引いた定家の歌は、次のようなリズムで詠まれるべきことになります(「・」は休符を意味します)。
はなの香は・・・
かをる・ばかりを
ゆくへとて・・・
かぜよりつらき・
ゆふやみの・そら
句に従い語に従って休止・小休止(または最後の音の引き伸ばし)を挟むのです。 百人一首カルタの読み上げなども、ほぼこの原則に従っているようです。
ところで現在短歌はどのように誦まれているのでしょうか。
この|あじ|が・|いい|ねと|きみ|が・|いっ|たか|ら・|しち|がつ|むい|かは|・さ|らだ|きね|んび
おそらくこんな具合に読まれる方が多いのではないでしょうか。今詠まれ読まれしている短歌は、このように2拍子の軽快なリズムを刻み、同じ五・七音からなる音数律と言っても、和歌とは極めて異なる韻律原理が働いているようです。
なお、最後の句では頭が「・さ」となっていますが、これは都々逸のように、歌い出しに休符を置くことで「さら|だき|ねん|び」のようにリズムが語と乖離して崩れることを回避しているのです(坂野信彦『七五調の謎をとく』)。坂野氏の著書によれば、近現代の読者はこれを無意識のうちに行っているようですが、そうすることで、31音が最初から最後まで(句と句の間の休止を除き)ツービートのリズムを一貫できるわけです。
このような2拍子で定家の歌を読むとどうなるでしょうか。
はな|のか|は・|・か|をる|ばか|りを|ゆく|へと|て・|かぜ|より|つら|き・|ゆふ|やみ|のそ|ら・
こうすると、確かに2拍子のリズムに乗せて読めないことはありません。しかし、「・か|をる|ばか|りを」の都々逸調や、「ゆふ|やみ|のそ|ら・」の尻切れトンボのような終り方は、和歌の調べとは相容れないものです。最初に挙げた五行分かち書きの読み上げ方と、比較して見て下さい。
やはり坂野氏の著書などが明らかにしているように、和歌の韻律も起源は2拍子にあるのです。しかし長い歳月をかけて、2拍子でも4拍子でもない、独自の韻律に練り上げられました。明治時代に和歌が「革新」された時、5・7・5・7・7という音の数は引き継がれましたが、和歌本来の調べは捨てられ、次第に忘れられていったのです。
さてそこで、和歌の調べを愛する私としては、和歌は和歌本来の調べで味わいたいし、人にも味わってもらいたい。そうするにはどうすれば良いのかと、随分前から考えていたのですが、やはり最初に挙げた書き方のように、五行分かち書きが最も良いのではないかと思うようになりました。また、七音の句が三・四調(かをる・ばかりを)や五・二調(ゆふやみの・そら)になる場合、句の途中で小休止が出来ますので、そこには空白を置きます。こうすれば、和歌をツービートで読まれたり、都々逸調で読まれたりすることを避けられるのではないか。

休符の数を明確にするために、一字で二音以上をあらわす漢字は避けます。平仮名ばかりになっても、分かち書きならさほど読みにくくはないでしょう。
昔の人は、和歌が一行書きにされていても、和歌の誦詠法が身についていたので、自然と上に書いたような読み上げ方で読めたと思うのですが、現代の読者はそうはゆかないでしょう。私にしても、和歌を速読している時は、多分無意識の内にツービートや都々逸調で読んでしまっているような気がします。
何も、百人一首カルタの読み上げのように、各句ごとに長く引き伸ばして読まなくてもよいのです。音の空白――
一つの試みとして、自作の和歌(花莚百首題)を、上のような書き方で書き直してみました。拙い歌ですが、興味を持たれた方は御覧下さい。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/bbs/hm_h100_sp01.html
結句が三・四調か五・二調でまとまらない場合、和歌の誦詠法としては完結感がありませんので、結句を繰り返す仏足石歌体の形を取りました。
なお、こうした表記の仕方の場合、縦書でないと、全然感じが出ません。それと、句またがりのある場合は、その効果が消えてしまうという問題点があります(古歌では句またがりはごく稀ですが)。
(2011年2月25日加筆)
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