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百人一首 なぜこの人・なぜこの一首:第十五番光孝天皇2011年05月22日

光琳かるた 光孝天皇

【なぜこの一首】

前節では『大鏡』の一エピソードにしか触れられませんでしたが、光孝天皇にまつわる逸話には他にも面白いものがあります。定家と同時代に成った説話集『古事談』によると、陽成天皇の譲位が決まった時、皇太子が定まっていなかったため、基経は親王たちの様子を見て廻りましたが、皆が大騒ぎをする中、時康親王はただひとり「やぶれたる御簾(みす)の内に、(へり)破れたる畳に御坐(おはしま)して、本鳥(もとどり)二俣(ふたまた)に取りて、傾動(きやうどう)の気無く御坐(おはしま)し」たと言います。悠揚迫らず、帝位を承ける用意だけは整えていたわけで、これを見て基経は時康親王を即位させようと決意したというのです。また、家で自炊していた昔を忘れず、即位後も清涼殿で煮炊きをしたので、壁が煤けてしまい、その一間を「黒戸」と言うようになったという『徒然草』の逸話はよく知られたものでしょう。国守を歴任し一品に叙された時康親王が経済的に困窮していたとは考えにくいのですが、あるいは大勢の家族を養うために(『皇胤紹運録』によれば子女は45人!)苦労していたのでしょうか。いや、そういう問題ではなく、これらは王を理想化するための説話類型に過ぎないのかもしれません。ともあれ、清廉な人柄を思い合わせ、貧苦のエピソードもどこか微笑ましく感じられる天皇です。

百人一首に採られた歌にも、そうした伝説の中の天皇の面影が偲ばれはしないでしょうか。古今集から詞書とともに引用しましょう。

仁和のみかど、みこにおましましける時に、人に若菜たまひける御歌

君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ

「仁和のみかど」すなわち光孝天皇が、即位前、まだ親王であった時、誰かに若菜を贈った時に詠んだというのです(おそらく若菜に添えた(ふみ)に書いた歌でしょう)。若菜摘みは初春の恒例行事で、「君」の一年の息災を祈る心を籠めた歌です。
「君がため」の「君」が誰を指すのか、古来諸説ありますが、歌そのものを鑑賞する上では無用の詮索でしょう。難しい詞や言い回しはひとつもなく、きわめて簡素な表現のうちに、早春の野の爽やかな気、洗練された物腰、そして何より優しい心情が偲ばれる一首です。

万葉集には類想の歌がいくつか見えますが、二首だけ引いてみましょう。

君がため浮沼(うきぬ)の池に菱摘むと我が()めし袖濡れにけるかも

君がため山田の沢にゑぐ摘むと雪消(ゆきげ)の水に()の裾濡れぬ

いずれも作者不明。人に物を贈る際の歌として、「君がため、私は何々を採った、苦労も厭わずに」というふうな古い類型があったことが知られます。光孝天皇の作は、このパターンを踏襲しつつ、素朴な万葉集の歌とは全く別次元にまで抜け出ています。
「裳の裾濡れぬ」「濡れにけるかも」と、完了した事実としてかくかくであったと詠む万葉歌に対し、光孝天皇の作は「若菜つむ…雪はふりつつ」と、現在のこととして詠んでいるところにまず大きな違いがあります。つまり、光孝天皇の歌は虚構として受け取るしかないつくりになっているのです。もとより、自ら若菜摘みをしたことが事実かどうかは、この際問題ではありません。
具体的な地名や植物名を出してリアリティを固め、事実としてこうであったと詠むのは、一面では読み手に対する押しつけにほかなりません。読者の想像はそれによって限定されてしまうからです。光孝天皇の歌は、個別性や事実性を消し去ることで、代りに典型性を手に入れています。人のためを思って物を贈る、その心情が、一つの作品として純化されているのです。引用した万葉歌には素朴な実感はあっても、光孝天皇の歌のようなのびやかさも、ゆったりとした(まるで時間が止まったような)美しさも感じることはできません。

たとえ「よみ人しらず」だったとしても秀逸と遇された歌にちがいありません。しかし、長かった雌伏の時代、恵まれなかった親王が人を思い、祈りを籠めるように若菜を摘む歌として読めば、一首の景情に何ともうるわしい趣が添わないでしょうか。個人性を脱した歌が、作者の存在を思うことによって、また輝きを放つのです。これは、例えば、一見平凡な歌でも斎藤茂吉の歌と知って読めば面白い、といった次元の話とは、全く違います。王朝和歌復興の魁となった天皇の、また藤原氏と固い絆を結んだ天皇の御製として、この上なくめでたい歌と定家は考えたことでしょう。彼はこの歌を『定家十体』の「麗様」に採り、また『定家八代抄』『詠歌大概』『秀歌大躰』といった秀歌撰にも採っています。

なお、既に諸家によって指摘されていることですが、天智天皇(第1番)と下句がよく似ている(「わが衣手は露にぬれつつ」「わが衣手に雪はふりつつ」)のは、面白い符合です。天智・光孝いずれも、兄弟であった天皇の直系が途絶えたため、自らの血統に皇位が巡って来たという意味では、相似た皇統の始祖だからです。近い時代の天皇としては、陽成院(第13番)との対比が面白く、人柄ばかりでなく歌のもたらす印象も明暗・陰陽の好対照をなすように思われます。また『百人秀歌』での河原左大臣(第14番)との合せは、一首に恋歌の風情を添えて艶を増すでしょう。歌と歌のさまざまの(つい)、人と人のさまざまの(つい)が綾なすのも、小倉百首を読む愉しみです。

(2011年5月23日、24日、25日加筆訂正)