「うたのわ」に歌人登録 ― 2014年03月22日
一月ほど前、「うたのわ」に歌人登録しました。御存知の方も多いと思いますが、「鎌倉のウェブ屋」さんこと村式さんが運営する和歌のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)です。
村式さんは本社「ふくすけ」を北鎌倉の古民家にかまえるというユニークなITベンチャー企業です。
http://ville.jp/office2
「うたのわ」は登録歌数二〇万首、歌人はざっと勘定してみたところ二三〇〇名近いようです。中には当方の掲示板に投稿下さったお名前も見えて、以前から愛読していたのですが、私自身はなかなか登録に踏み切る気持にはなれませんでした。
和歌を詠む習慣をなくして数年が経ち、何とかしたいと思ううち、気楽に参加できる場として「うたのわ」への登録をやっと決心したという次第。
もとより登録歌人の作風はさまざまで、口語体・文語体・混淆体、現代風・近代風・古典風と、何でもありです。ちょっと意外なのは、文語体を用いた古風な歌が少なくないことで、これは「うたのわ」が「和歌」のコミュニケーションサイトと銘打っていることも関係しているのかも知れません。私の気に入っている一つの理由でもあります。
和歌には師匠なし。
歌は広く見、遠く聞く道にあらず。心より出でて、身づから悟るものなり
藤原定家の歌書にある詞です。
創作意欲を維持・向上させてくれるようなシステムであれば、投稿あるいは発表の場所は、どこでもかまわない。そう思います。
まだ週末くらいしか歌をつくる時間が作れない状態ですが、マイペースで長く続けてゆこうと思います。
定家絶唱「花にそむくる春のともし火」 ― 2014年03月27日
建保五年四月十四日、院にて庚申五首、春夜
山の端の月まつ空のにほふより花にそむくる春のともし火
山のはの月まつそらのにほふより花にそむくるはるのともし火(下2069)
「月の出を待つ山の端の空がほのかに明るむや否や、花に向けていた灯火を背後へ押しやる(こうして、月と花がおぼろに融け合う春夜の情趣を味わう準備をする)」との意。
「花の匂ふ時分、月を待心」(六家集抜書抄)。灯火を「花にそむくる」理由につき、例えば岩佐美代子氏『玉葉和歌集全注釈』(平成八)は「月光でこそ花を眺めたいため」と解するが、読み方として十分とは言えない。もし月を単なる花の照明役と見なすのであれば、「夜花」題の趣意には適っても「春夜」題には適うまい。この歌は花が主役なのではない。月が主役なのでもない。両つが照らし合う「春夜」が主役なのである。
「浅みどり花もひとつにかすみつつおぼろにみゆる春の夜の月」(新古今集・春上・五六、孝標女)、「…春の夜は月こそ花のにほひなりけれ」(新勅撰集・春下・七八、和泉式部)といった、花と月がほのぼのと融け合う景趣は当時好まれ、定家の殊に愛着するものであった。そんな春夜の風情をあわれむためにこそ、「ともし火」は邪魔とされたのである。
建保五年(一二一七)四月十四日、後鳥羽院の御所における庚申五首歌会出詠歌。定家五十六歳。同じ時の題は「夏暁」(2116)、「秋朝」(2289)、「冬夕」(2367)、「久恋」(2440)。同月十六日の『明月記』には大納言公経の言として当五首につき「今度の歌抜群の由、殊に叡感有り」と後鳥羽院の賞賛の言を伝えている。なお「春夜」は平安中期から見える題で、『和漢朗詠集』『新撰朗詠集』にも立題されている。
「空のにほふより」、山の端の空が(月の余光で)ほのぼのとした色に映えるとすぐに。「にほふ」は花に縁のある語で、やがて融け合う花月の情趣を予告もする、用意の深い語である。
「花にそむくる」、桜の花に対して背ける。『和漢朗詠集』に引く白詩の句「燭を背けては共に憐れむ深夜の月」(春夜・二七/白氏文集・巻十三 春中与廬四周諒華陽観同居)に拠る。
結句「春のともし火」は『韻歌百二十八首』で「ふかき夜を花と月とにあかしつつよそにぞ消ゆる春の釭」と遣ったことがある(中1510)。春夜の終りを詠んだ韻歌に対し、掲出歌はその始まりの時を詠み、美しい一対をなそう。
『玉葉集』に「建保五年四月庚申に春夜」として撰入(巻二・春下・二一一)。『続歌仙落書』『秋風和歌集』などにも見える。

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