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藤川百首について2014年06月13日

「うたのわ」に登録してから三か月ほど経った。おかげで少しずつ歌作りの習慣を取り戻せている。

「うたのわ」の良さはまず、多くの取れ立ての歌が読めることだろう。月刊誌は言うに及ばず、新聞歌壇でさえ掲載歌は時節とタイムラグを生ぜざるを得ない。「旬」ということを特に尊ぶ私達の感性からすると、季節や時事を詠んださまざまの人の歌を、その時々にで読める楽しみは大きいのではないだろうか。

もちろん初心者の方も多いようなので、新聞や雑誌のように粒揃いとはとても行かないが、種々雑多な賑やかさもまた楽しいものだ。

さて旅や遠出の機会が少なく、単調な毎日を繰り返している私は、なかなか歌を作る機縁もないので、題詠を思い立った。浅草大将さんという以前から「うたのわ」で愛読していた歌人さんが藤川(河)百首を詠まれていたのを思い出し、私も挑戦してみることにした。

冒頭の一首に「関の藤川」が詠まれていることからこの名がある。元仁元年(1224)、定家六十三歳の作と推定されている。春・秋・恋・雑各二十首、夏・冬各十首、題は全て四字の結題。

春二十首
関路早春 湖上朝霞 霞隔遠樹 羇中聞鶯 隣家竹鶯 田辺若菜 野外残雪 山路梅花 梅薫夜風 水辺古柳 雨中待花 野花留人 遠望山花 暁庭落花 故郷夕花 河上春月 深夜帰雁 藤花随風 橋辺款冬 船中暮春
夏十首
卯花隠路 初聞郭公 山家郭公 池朝昌蒲 閑居蚊火 盧橘驚夢 杜五月雨 野夕夏草 澗底蛍火 行路夕立
秋二十首
初秋朝風 潤月七夕 野亭夕萩 江辺暁荻 山家初雁 海上待月 松間夜月 深山見月 草露映月 関路惜月 鹿声夜友 田家擣衣 古渡秋霧 秋風満野 籬下聞虫 紅葉写水 山中紅葉 露底槿花 川辺菊花 独惜暮秋
冬十首
初冬時雨 霜埋落葉 屋上聞霰 古寺初雪 庭雪厭人 海辺松雪 水郷寒蘆 湖上千鳥 寒夜水鳥 歳暮澗氷
恋二十首
初尋縁恋 聞声忍恋 忍親眼恋 祈不逢恋 旅宿逢恋 兼厭暁恋 帰無書恋 遇不会恋 契経年恋 疑真偽恋 返事増恋 被厭賤恋 途中契恋 従門帰恋 忘住所恋 依恋祈身 隔遠路恋 借人名恋 絶不知恋 互恨絶恋
雑二十首
暁更寝覚 薄暮松風 雨中緑竹 浪洗石苔 高山待月 山中滝水 河水流清 春秋野遊 関路行客 山家夕嵐 山家人稀 海路眺望 月羇中友 旅宿夜雨 海辺暁雲 寄夢無常 寄草述懐 寄木述懐 逐日懐旧 社頭祝言

比較的時間のある日、三十分なら三十分と決めて、五首を速詠している。四字題で制約が多いので、かえって速詠には向いているのだ。定家も速詠したに違いなく、作品の質は他の百首に比べると劣る。それゆえ家集には入れなかったのだろう(『拾遺愚草』には後世他人が増補したものと考えられている)。

劣ると言っても、定家は定家だ。たとえば「卯花隠路」の題で詠んだ歌は、

卯の花の枝もたわわの露を見よとはれし道の昔語りは

「卯の花の枝もたわわに置いた露を見なさい。かつて人が訪れた道の昔話を知りたいのであれば」の意。その裏には「かつては道を通る人の袖に触れて露がこぼれたが、今は人も来ないので露がたくさん置いている」という心を隠している。承久の乱の三年後、華やかなりし宮廷歌壇は崩潰し、定家は従二位の高位に至ったものの、参議を辞して閑居していた。そんな老境の心模様も読めようか。表現は簡潔なまでに凝縮されており、婉曲な作歌法も堂に入った見事さだ。定家は「一字百首」という百首歌につき「三時詠之」と記し、一首あたり四分もかけない速さで詠んでいたことが知られる。この百首歌も同じくらいだろうか。やはり天才と言うしかないのだろう。

私は実際のところ三十分で五首さえなかなか詠みきれない。どうにか詠めても、成句とか慣用的表現にばかり頼ってしまって、我ながら情けないが、致し方ない。定家のあとに自分の歌を載せるのもどうかと思うが、

忍親眼恋

しづたまき数にもあらずの中の珠なる人を思ふくるしさ

初二句は卑しい身分を歎く和歌の常套表現で、「掌の中の珠なる人」は申すまでもなく最愛の子の喩えとされる「掌中の珠」という成語から思いついたものだ(これは古典和歌には使われなかった表現)。数分で詠むとなると、だいたいこんな歌しか私には作れないのである。

さてここからは宣伝になりますが、定家の「藤川百首」は今夏出版予定の『拾遺愚草全釈五 員外』に収録されております。

お知らせ2014年06月13日

このブログのコメントはどうしてもチェックするのを忘れてしまうのです。メール通知機能がなく、コメントがあってもほとんどがスパム投稿なので、いちいちチェックするのに嫌気がさしてしまったのだと思います。ワールドカップも始まったことで、当面コメントは受付しない設定とさせて頂きました。なにとぞご諒解下さい。

なお水垣への連絡は、左にあるメールアドレスへお願い致します。

千人万首 三条西実隆2014年06月21日

不逢恋 春日社法楽内

えにしありて思ひやそめしとばかりに慰めてのみ待つ契りかな(雪玉集1874)

「前世からの因縁があって恋し始めたのだろうかと、そう思うことばかりに慰めを見出して、あの人と契りを交わす日を待つことよ」。

「逢ハヌ恋」、まだ一度も逢瀬を遂げていない恋の心を詠む。現世の恋は前世からの因縁に拠り、それが成就するか否かも前世によって既に定められていると考えられた。自分が特定の人を恋したということは、それなりの因縁があるはずだから、そのことに期待をかけようとの心である。

春日社に奉納した和歌、制作年未詳。

恋についての当時の常識的な考え方を歌にしたばかりと言えば言えようが、句切れなく曲折を尽くし、因縁にすがる心情に切なるものが感じられる。

逢恋 文明十三十二廿点取

なほざりに思ふなよ夢逢ひみるは一よふた夜の契りならじを(雪玉集1882)

「逢瀬は夢と言っても、その夢を決していい加減に思いなさるな。二人の契りは一夜二夜ばかりの儚いものではありますまいに」。

初二句は「夢をなほざりに思ふなよ」で、恋人への呼びかけと読んだ。「思ふなよ夢」は「思ふなよゆめ」に懸けているのであろう。初めて遂げた逢い引きの後、情事をはかない夢にたぐえることに抗い、契りの深さを恋人に、そして自らに言い聞かせようとするかのようである。文明十三年(1481)十二月の作。

不憑恋

たれにまたうつし心のひとさかり見えてかなしき月草の色(雪玉集6948)

「あの人は誰にまた心を移すことか。一時だけの盛りが見えて切ない月草の色よ」。

タノマヌ恋」。深い仲にはなったが、相手は恋の噂の絶えない人。一途に期待はすまいと自制する気持を月草の儚い色に託して詠んでいる。

「うつし心」は「移し心」で、変わりやすい心のこと。「うつし」は写し染めに用いた「月草」の縁語。「月草」は露草の古名。「月草に衣は摺らむ朝露に濡れてののちはうつろひぬとも」(巻七・一三五一、作者未詳)などに見られるように、その美しい青色は染色に用いられたが、色は褪せやすいので、人の心のうつろいやすさの象徴とされてしまったのである。

千人万首 足代弘訓2014年06月23日

テッセン
足代弘訓 あじろひろのり 天明四~安政三(1784-1856) 号:寛居ゆたい 通称:式部・権太夫

伊勢外宮の祠官、足代弘早の子。伊勢神宮の権禰宜となり、正四位上に叙せられる。

十七歳の時、荒木田久老に入門して万葉集等を学んだが、間もなく久老が没すると、本居春庭本居大平に師事して国学を学んだ。その後上京して有職故実などを学び、さらに江戸に出て狩谷棭斎・塙保己一など多くの学者・文人と交流した。諸学に通じ、寛居の塾には多くの門弟を抱えた。また天保大飢饉における窮民の救済や、伊勢神宮祠官の弊習を打破する運動にも奔走したという。

和歌は手すさびになすばかりであったというが、家集『海士の囀』を残す(続日本歌学全書第三巻に抄録)。以下は同集より抜萃した。

咲くを待ち萌ゆるをいそぎ鶯も柳につたひ梅になくらむ

「花が咲くのを待ち、若葉が萌えることに心く。春浅い季節、人はそんな気持で過ごしているが、鶯もまた同じような思いで、せわしなく柳の枝を伝い移り、梅の枝に鳴いているのだろう」。

上二句と下二句をそれぞれ対句風にした面白い構成である。「鶯」と言うのは、人に対してであろう。いそがしく枝移りして鳴くこの鳥の習性を、春告げ鳥という本意に巧みに活かしている。

夏鳥

めぐりきてまた山雀やまがらのくぐるかな風車咲く宿の垣間を

「一巡りして来て、また山雀が潛ってゆくよ。風車の花が咲く我が宿の垣の隙間を」。

「夏鳥」は鎌倉時代以降に見える歌題で、やはり時鳥を詠んだ例が多い。山雀はそもそも和歌ではほとんど取り上げられなかった題材である。「風車」は山に生える蔓草の仲間で、花は鉄線やクレマチスに似て大きく、色は紫か白。この花を詠んだ和歌は、新編国歌大観を検索すると井上文雄の『調鶴集』の一首がヒットするのみ。こうした題材の珍しさにまず興を惹かれるが、山雀と言い風車と言って里遠い山を感じさせ、また「垣間」には庵の荒れたさまも想われよう。敏捷な小鳥の愛らしい習性を飽かず眺めているのは、山家に寂しく暮らす人なのであろう。

「めぐり」は「風車」の縁語。

沢月

浅沢の水のゆくへも知られけりひとすぢ白き月のひかりに

「浅い沢水の流れてゆく先も知られるのだった。水面にひとすじ映じた、白い月の光によって」。

「沢月」は鎌倉時代も末になってから見られる歌題。しばらく沢に溜っていた水も、水草の間をまたいずこへか流れてゆく。月の光に白く映じたその細い一すじが、秋らしい情趣を引いて。

冬駅

駅路うまやぢの冬ぞさびしき旅人を門もる犬も待ちがほにして

「駅路の冬こそは寂しい。門番をする犬も、旅人の訪れを待ち顔で」。

「冬駅」題は前例未見であるが、「駅路雪」などは以前からしばしば和歌の題とされてきた。歌はありふれた景で、現代の人には興も惹かれまいが、犬馬といった家畜の擬人化などは古歌に見られない表現で、近世という時代の刻印は確かにあるのである。

「駅路」は、旅人を宿泊させたり、人馬の乗り替えをするための設備がある路。江戸時代には宿場町として栄えた。


余録

  月前落花
夕ぐれにふる薄雪のここちして朧月夜にちるさくらかな

  雲雀

富士の嶺のいづこまでとか霞たつ裾野の雲雀声あがるらむ

  ひひなの画に
八とせ子のひひなあそびも行末の妹背の仲の語らひにして

  春人事
海人の子は梅の花貝桜貝ひろふや春のすさびなるらむ

  虫
露かふを夕しめりとや思ふらん虫籠の虫の鳴き出でにけり

  秋風寒
となりにもはなひる声の聞こゆなり俄にかはる風の寒さに

  述懐
老いにける身を歎くかな黒船の相模の海によると聞くにも

千人万首 松永貞徳 春2014年06月27日

松永貞徳 まつながていとく 元亀二~承応二(1571-1653) 号:逍遙軒ほか

連歌師松永永種の次男。父方の祖父は摂津高槻城主入江政重、母は下冷泉家の出で藤原惺窩の親族という。

少年時より九条稙通たねみちに近侍して和歌・古典・有職などを学び、十五歳頃から里村紹巴のもとで連歌の修業に励んだ。まもなく太閤秀吉の右筆を勤め、細川幽斎を知って門下に入った。家康に実権が移って後は京都に住んで私塾を開き、新興の庶民層に対して古典の啓蒙に努めた。やがて俳諧が盛んになるとその指導者としても活躍し、貞門俳諧の祖となる。歌人としては木下長嘯子と並称される地下じげ歌壇の大家で、北村季吟・加藤磐斎・宮川松堅・望月長好ら多くの門人を育てた。承応二年十一月十五日死去。八十三歳。家集『逍遊集』に三千余首を収める。他の著書に俳論書『新増犬筑波集』『俳諧御傘』、注釈書『九六古新註』『堀河百首肝要抄』などがある。

初春待花

声の綾けさ織りそめし鶯にとはばやいつと花の錦を

「美しい声の綾を今朝織り始めた鶯に、問いたいものだ。花の錦はいつ見られるのかと」。

「声の綾」は『後撰集』の「秋くれば野もせに虫の織りみだる声の綾をばたれか着るらむ」(秋上・二六二、元義)に由来し、虫の声を複雑な綾織りに喩えた語であるが、貞徳はこれを鶯の声の美しい節回しに転用した。「綾」を花の「錦」と関係づけて題の「待花」の心につなげ、華やかな技巧を見せている。

題「初春待花」は建仁元年(1201)の『仙洞句題五十首』に初見。

山花

花車このもとごとにとどろきて春は山路ぞ都なりける

「花見の車がどの木の下にも轟いて、春は山路こそが都のように華やかで賑やかなのだった」。

貴族たちが牛車で繰り出す花の名山のありさまであろうか。誇張的な空想詠ではあるが、古歌には詠まれなかった景趣であり、放胆な詠みぶりには作者本来の個性が出ていよう。「花車」は先例未見の語。下の句は「手折りもて行きかふ人の気色まで花のにほひは都なりけり」(拾遺愚草・藤原定家)あるいは「難波江は霞たなびくことこそあれ春のさくらは都なりけり」(能因法師集)などを思わせる語勢である。

「山花」は平安末期頃から見られる歌題。

三月尽

恋路にはひかふる袖もあるものをうき暁の春のきぬぎぬ

「恋の別れ道では引き留める袖もあるものなのに、春との暁の別れは引き留めようもなく、つらいことである」。

腰の句に「あるものを」と置き、先に程度の軽い例を挙げ、後に程度の甚だしいものを挙げて、後者を強調する。そうした手法は先例が多く、たとえば百人一首にも採られた「うらみわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなん名こそをしけれ」(後拾遺集・相模)などが代表的なものであろう。貞徳はこの文体を用いて後朝の別れと春との別れを対比したのである。下二句を曲折豊かに言いなして体言止めとし、別れの憂さにも艶な余韻を纏わせている。

「ひかふる」は「引き合ふる」の約で、袖などをひっぱり相手を引き留める動作を言う語。定家の歌に「面影のひかふる方にかへり見る都の山は月ほそくして」と遣った例がある。

「三月尽」は古くからある歌題で、和漢朗詠集に立題され、堀河百首題でもある。春との別れを惜しむ心が本意となる。

千人万首 松永貞徳 夏2014年06月28日

郭公一声

みる月のひかりのみかは時鳥きくも千里のひとこゑの空

「千里に広がるのは、眺める月の光だけであろうか。聞く時鳥の一声も、夜空を千里にわたって響くかのようだ」の意であろうか。

「千里」は十五夜の月を詠んだ名句「秦甸しんでんの一千余里 凛凛りんりんとして氷き」(和漢朗詠集・二四〇)に拠ろう。周囲千余里を氷を敷き詰めたように月の光が照らすさま。月光の限りない広がりとたぐえることで、時鳥の一声が夜空に遥かに響きわたる。典拠の力を借りて誇張的な趣向を詠みおおせた形である。

上二句の文体は定家の「有明の光のみかは秋の夜の月はこの世に猶のこりけり」(拾遺愚草)に学んだようである。

「郭公一声」は鎌倉中期から見られる題。同題で詠んだ「一声の行へしらねば立出でてながむる四方の山ほととぎす」も捨て難い。

水上夏月

むすぶ手にくだくる月もやがてまたまどかになれる水のおもかな

「掬い取った掌の上で砕ける月の光も、水面ですぐにまた円くなっていることよ」の意。

前歌などは貞徳の歌ではやや異質な部類に入り、おおよそこのように平明な歌の方が多いのである。目の付け方に俳諧的なところが感じられる一首として取り上げた。

「水上月」は平安末期から見られる題。夏の季感は「むすぶ手」のみに掛かっている。

(2014.6.29改訂)