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千人万首 松永貞徳 春2014年06月27日

松永貞徳 まつながていとく 元亀二~承応二(1571-1653) 号:逍遙軒ほか

連歌師松永永種の次男。父方の祖父は摂津高槻城主入江政重、母は下冷泉家の出で藤原惺窩の親族という。

少年時より九条稙通たねみちに近侍して和歌・古典・有職などを学び、十五歳頃から里村紹巴のもとで連歌の修業に励んだ。まもなく太閤秀吉の右筆を勤め、細川幽斎を知って門下に入った。家康に実権が移って後は京都に住んで私塾を開き、新興の庶民層に対して古典の啓蒙に努めた。やがて俳諧が盛んになるとその指導者としても活躍し、貞門俳諧の祖となる。歌人としては木下長嘯子と並称される地下じげ歌壇の大家で、北村季吟・加藤磐斎・宮川松堅・望月長好ら多くの門人を育てた。承応二年十一月十五日死去。八十三歳。家集『逍遊集』に三千余首を収める。他の著書に俳論書『新増犬筑波集』『俳諧御傘』、注釈書『九六古新註』『堀河百首肝要抄』などがある。

初春待花

声の綾けさ織りそめし鶯にとはばやいつと花の錦を

「美しい声の綾を今朝織り始めた鶯に、問いたいものだ。花の錦はいつ見られるのかと」。

「声の綾」は『後撰集』の「秋くれば野もせに虫の織りみだる声の綾をばたれか着るらむ」(秋上・二六二、元義)に由来し、虫の声を複雑な綾織りに喩えた語であるが、貞徳はこれを鶯の声の美しい節回しに転用した。「綾」を花の「錦」と関係づけて題の「待花」の心につなげ、華やかな技巧を見せている。

題「初春待花」は建仁元年(1201)の『仙洞句題五十首』に初見。

山花

花車このもとごとにとどろきて春は山路ぞ都なりける

「花見の車がどの木の下にも轟いて、春は山路こそが都のように華やかで賑やかなのだった」。

貴族たちが牛車で繰り出す花の名山のありさまであろうか。誇張的な空想詠ではあるが、古歌には詠まれなかった景趣であり、放胆な詠みぶりには作者本来の個性が出ていよう。「花車」は先例未見の語。下の句は「手折りもて行きかふ人の気色まで花のにほひは都なりけり」(拾遺愚草・藤原定家)あるいは「難波江は霞たなびくことこそあれ春のさくらは都なりけり」(能因法師集)などを思わせる語勢である。

「山花」は平安末期頃から見られる歌題。

三月尽

恋路にはひかふる袖もあるものをうき暁の春のきぬぎぬ

「恋の別れ道では引き留める袖もあるものなのに、春との暁の別れは引き留めようもなく、つらいことである」。

腰の句に「あるものを」と置き、先に程度の軽い例を挙げ、後に程度の甚だしいものを挙げて、後者を強調する。そうした手法は先例が多く、たとえば百人一首にも採られた「うらみわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなん名こそをしけれ」(後拾遺集・相模)などが代表的なものであろう。貞徳はこの文体を用いて後朝の別れと春との別れを対比したのである。下二句を曲折豊かに言いなして体言止めとし、別れの憂さにも艶な余韻を纏わせている。

「ひかふる」は「引き合ふる」の約で、袖などをひっぱり相手を引き留める動作を言う語。定家の歌に「面影のひかふる方にかへり見る都の山は月ほそくして」と遣った例がある。

「三月尽」は古くからある歌題で、和漢朗詠集に立題され、堀河百首題でもある。春との別れを惜しむ心が本意となる。