千人万首 松永貞徳 秋 ― 2014年07月01日
秋
早秋朝山
さらしなや秋しもきその朝ぼらけ心にいづる山のはの月
「更科の里にまさに秋が来た。木曽路の朝ぼらけに姨捨山を眺めれば、心のうちには山の端の月が現れ出る」。
「秋しもきその」は「秋しも来」「木曽の」と掛けて言う。早朝、木曽路を通って更科の里に至り着いた旅人の身になっての詠。月で名高い姨捨山の稜線を眺めれば、はや心にはありありと明月を見るようだ、と言う。サ行音を多く用いた上二句の調べが爽やかで、信州の「早秋」の気も偲ばれよう。
八月十五夜百五十首
衣手も皆しろ妙になりにけり今夜やたれも月の宮人
通釈は不要であろう。「月の宮人」は、海彼の怪異譚などに語られた月宮(月の都)の宮人。『竹取物語』のクライマックス・シーンに「大空より人、雲に乗りて下り来て、土より五尺ばかり上がりたる程に、立ち列ねたり。…立てる人どもは、装束の清らなること、物にも似ず」などとあるように、月の宮人は月光の色さながらの浄衣を着るとされた。
中秋名月を主題に詠んだ百五十首連作より。老年の作であることは、「思ふとも恋ふとも逢はん今夜かは我が世の後の秋の月影」などによって知られる。
千人万首 松永貞徳 雑 ― 2014年07月04日
雑
みどり子をみて
みどり子のめざめて後も驚くは夢ともしらぬ夢やみつらん
「赤ん坊が目覚めた後もびっくりしているのは、夢だとも知らない夢を見たのだろうか」。
「みどり子」は生まれて間もない赤ん坊、また三、四歳頃までの幼児をも言ったらしい。この場合、そばで親しく観察していた詠みぶりなので、おそらくは自分の子であろう。「貞徳の長男昌三は文禄元年(一五九二)、貞徳二十二歳のときに誕生しており、貞徳は若い父親であった。我が子を観察したものであろうか。ともあれ、江戸時代の男性が幼児をよんだこのような歌は珍しいと思われる」(高梨素子「松永貞徳と烏丸光弘」)。
家庭生活の何気ない一場面、赤子などのふとした表情に心を動かされて歌を詠むというのは、当時(近世初頭)にあっては相当に新しい創作の姿勢であった。江戸も末期の、例えば大隈言道の歌風を早くも予告するかのようである。もっとも、もっぱら題詠に力を入れた貞徳にあっては稀な偶成の作であって、こうした方面に重きは置いていなかったのである。
「夢ともしらぬ夢」は、夢だとも認識できない夢。
祝言
君と臣みがくこと葉の玉くしげ身をあはせたる代こそ治まれ
「君主と臣下とが、互いに和歌のことばを玉のように磨き合う――こうして君臣が身を合わせた御代こそ平和に治まるのである」。
『逍遊集』巻末歌。「歌ちからなくよわき花風ばかりにては、国家おだやかならず。…世の乱るるも治まるも、皆歌の風にて知る事あり」(戴恩記)などとした貞徳の政教主義的な和歌観が端的に表われた一首であろう。
「身をあはせたる」とは、『古今集』仮名序の「かの御時に、おほきみつのくらゐかきのもとの人丸なむ、うたのひじりなりける。これは君もひとも身をあはせたりといふなるべし」による。宮廷歌人たる人麻呂が、応詔和歌によって天皇の心を体現したとして、君臣一体にかなう古例として賞揚した詞である。貞徳はこれを承け、互いに和歌の詞を玉のように磨くことが君臣の道をととのえ、国家の用に立つことだとして、和歌による治国平天下を言祝いだのであった。
「こと葉の玉くしげ」は「こと葉の玉」「玉くしげ」と掛けて言う。「玉くしげ」は「身」の枕詞。「みがく」は「玉」の縁語。
余録
立春
朝日さす雪もつららもとくとくと春はきにけり軒の玉水
花下忘帰
をののえの朽木の杣の花にねんたとひ七世の孫に逢ふとも
閑庭月
心さへすみ行く庭のやり水に月の氷のおとをきくかな
春恋
春といへどのどかならずも物ぞ思ふ絶えて桜のなき世なりとも
題不知
いとけなき心ちこそすれたらちねと添ひ寝の夢のさめてかなしき
親の夢に見えられける時、つねに我が親もみるといはれし事を思ひ出でて
たらちねのそのたらちねを夢にみて恋ひしたはれし折ぞ恋しき
和泉式部の寺にて月次の和歌会有りければ、おもひつづけて
くらきよりくらき心のことのはをあはれとや思ふ山のはの月
千人万首 烏丸光広 春 ― 2014年07月12日
藤原北家内麿の末裔。日野資康の子豊光が分家し、以来烏丸を称した。准大臣従一位光宣の子。子に光賢がいる。
天正九年(1581)従五位下に叙され、侍従・右少弁・左少弁・蔵人などを経て、慶長四年(1599)蔵人頭に任ぜられる。同十一年には参議に就いたが、同十四年(1609)の猪熊事件(侍従猪熊教利による女官密通事件)に連座して勅勘をこうむり、官を解かれ蟄居を命ぜられた。のち許され、慶長十八年には権大納言に至る(最終官位は正二位)。寛永十五年(1638)七月十三日薨。六十歳。
後陽成院・後水尾院の二代にわたり宮廷文化人として活躍した。和歌は細川幽斎に学び、古今伝授を受ける。二条派和歌の宗匠として三代将軍家光の歌道指南役などを務めた。嫡孫資慶により編纂された家集『黄葉和歌集』がある。歌学書には幽斎の説を口述筆記した『耳底記』のほか、『古今集聞書』『新古今和歌集抄』『百人一首抄』などがある。他の著書に紀行『あづまの道の記』、随筆『目覚草』など。書・墨画など諸芸に優れ、儒学や禅理にも通じた。
上の画像は烏丸光広自筆詠草。「むさしのの月 さそなみむ山のはしらぬむさし野に秋はも中の有明の月」
春
残雪
寒えかへる空待ちいでて春ふるや雲のあなたに残る白雪(黄葉集)
「再び寒くなる空を待って、春に降り出したのか。雲の彼方にまだ白雪が残っていたことよ」。
「残雪」は堀河百首題で、早春の野山に消え残る雪を詠むことが多かった。雪の残る場所を「雲のあなた」に見るとは意表を衝く。寛永十四年(1637)の院御着到百首。百日間、毎日一首ずつ詠むという趣向の百首歌で、後水尾院に奉られた。
第二・三句は「空待ちて春(に)降り出づや」ということであろう。語法にかなり無理はあるが、詞の響きを優先してのことである。
朝鶯
うちかすむ春の軒端の朝日影のどかにうつるうぐひすの声(黄葉集)
「春の朝、軒端に射す日影はひどく霞んでいる。その光の中を、鶯の声がのどかに移動している」。
慶長十年(1605)九月、宮中歌会で詠まれた『慶長千首』の一首で、『黄葉和歌集』の春の部にも採られている。三十六人の歌人が丸一日で計千首を詠むという催しであった。光広は二十七歳の若さでこれに参加した。
「朝ノ鶯」は鎌倉初期頃から見える題。枝移りしながら鳴く習性のある鶯の声を、いかにも春めいた穏やかな朝日の中に響かせた。朝日を眺める場所を「軒端」と特定したことで、移動する鶯の声が実感を伴って想像される。「う」音と「の」音の繰り返しなど、韻律上の工夫も凝らされている。
春雁離々
なごりまでしたふ翅は雲に消え霞にきえて帰る雁がね(黄葉集)
「見えなくなった後の余韻まで慕おうと、北へ帰ってゆく雁の群をながめる――その翅はあるいは雲に消え、あるいは霞に消えてゆく」。
「春ノ雁離々」は実隆の『雪玉集』の永正六年(1509)の内裏着到百首に見え、その後公条・幽斎と歌い継がれてきた題。雁が離ればなれに帰ってゆくさまを詠む。
雲や霞に消えてゆく雁を詠んだ歌は古来多く、「春霞かすみていにし雁がねは…」(古今集・秋・二一〇、読人不知)、「ながむれば霞める空のうき雲とひとつになりぬ帰る雁がね」(千載集・春上・三七、良経)などが作者の念頭にあった歌にちがいない。もともと紛れやすい「雲」と「霞」に消えてゆくと言って、いかにも茫漠とした春の空が想われ、雁影の景に縹渺たる余韻を添えて一首を閉じている。心情を先に言い、景を後に描く構成法が効いている。「したふ」対象を「翅」に絞ったのも巧いところであろう。
花面影
咲く花の面影みせて春風もにほふばかりの峰の白雲(慶長千首)
「峰の白雲を眺めれば、桜の咲くありさまがいかにも見えるような気がして、そちらから吹く春風もかぐわしいばかりだ」。
「花ノ面影」は鎌倉後期頃から見える歌題。ただちに俊成の名歌「面影に花の姿を先立てて幾重こえきぬ峰の白雲」(新勅撰集・春上・五七)が連想される題であるが、光広もやはりこの歌のほのぼのと華やかな風姿を慕いつつ詠んだにちがいない。結句を同じくする「峰の白雲」に山桜の面影を見ることも共通するが、花を尋ねゆく人の立場で詠んだ俊成の歌に対し、光広は峰を遠望する人の身になって詠んだ。花の面影を見せ、春風を吹き寄せるとして、「峰の白雲」は人の前に聳立する。優美にして丈の高さも具えた歌であろう。
ウェブサイトの古典テキストについて(想定外だったこと) ― 2014年07月14日
私のサイトには幾つか古典作品の電子テキストが置かれていて、誰にでも自由に利用してもらえれば幸いと思っていたのですが、電子出版が普及してきて、ちょっと考えざるを得ない問題が出て来ました。例えば私のサイトの「訓読万葉集」などを電子書籍に全文掲載したいとのメールが届くようになったのです。まさか私などの作成した電子テキストを商業的に利用したい人が現われるとは思ってもみなかったので、困惑してしまいました。校正のプロにも研究者にも目を通してもらっていないテキストばかりですから、誤りは相当数含んでいるはずなのです。責任もって校正してくれた上での出版であれば喜んで受け入れたいところですが、多くの売上げを見込めない電子書籍では到底無理な話でしょう。「フリー・データ」などと銘打って、厳密な校正もせずにウェブサイトに古典のテキストを載せるのも、思えば随分無責任なことだったなと省みられたことでした(私なりには十分慎重に校正したつもりなのですが)。
とりあえず「フリー・データ」の看板は下ろし、営利目的の利用はご遠慮頂きますとの但し書きを追加することにしました。もちろんウェブサイトなどでのご利用はこれまで通り自由になさって頂いて結構です。
「お知らせ」のページ・訓読万葉集の目次ページ
千人万首 烏丸光広 夏 ― 2014年07月17日
山五月雨
かげふかき青葉づたひに滝ほそくおちぬ山なき五月雨の比(黄葉集)
「陰深く繁った青葉をつたって滝が細く落ちる。そんな滝の見えぬ山はない五月雨の頃であるよ」。
木々の葉繁みから途切れず落ちる雫を「滝」と言って意表を衝く。しかしこの新鮮な比喩によって、降りやまぬ梅雨の季節の山の有様がありありと面白く想像されよう。「おちぬ山なき」という否定を重ねた表現は現代の読者には馴染みにくいけれど、王朝和歌ではこうした婉曲的な表現が好まれたのである。 題「山ノ五月雨」は建保三年(一二一五)の『洞院摂政家百首』に出題された前例がある。
院聖廟御法楽に、夕立過
ほのくらき雲のたえまにもれ出でて朝日に似たる夕立の空(黄葉集)
「天を覆うほの暗い雲から白雨が降る――あたかも雲の切れ間から漏れ出る朝日にも似た、夕立の降る空よ」。
夕立の降るさまを遠望している。「朝日」というのは今言う「天使のはしご」、雲間から漏れる光の条であろう。遠くで降る白雨がその「朝日」に似ていると言うのである。これまた意想外の見立てによって、夕立が新しい相貌を以て想像される。
いつとも不明であるが、菅原道真の廟に奉納する和歌の会で詠まれた作。当時はこの種の法楽和歌会が盛んに催されていた。「夕立過グ」は室町時代以降に見える題で、通り雨としての夕立が本意になろうが、光広は「過」の題意にはさほど拘っていないようである。
水無瀬殿御法楽に、蝉声無隙
ほのかにも森の木の間の朝づく日入日を送る蝉のこゑかな(黄葉集)
「森の木の間からほのかに漏れる朝日を迎えるように、また入日を送るように、朝にも夕にも隙なく聞こえるほのかな蝉の声であるよ」。
朝夕に鳴くと言うからにはこの「蝉」は蜩なのであろう。その声を、森の木の間に射す朝日を迎え、夕日を送って鳴くと聞いた。蜩が鳴く薄暗い森という場所の、そして朝夕という時間の、いずれもその特徴をよく活かした詠みぶりである。題意をきちんと満たしているかというと、それは別問題。「蜩」詠としては、とても面白く感じる。
「ほのかにも」は「漏る」などの語を略して「朝づく日入日」に掛かり、かつ「送る蝉の声」にも掛かるのであろう。「朝づく日入日を送る」は「朝日を迎え、入日を送る」ということ。読者の推理に頼んだ、思い切った、しかし論理的な省略法で、定家を始め新古今時代の歌人のよく用いた手法である。
「水無瀬殿御法楽」は後鳥羽院の霊に奉納する和歌の会。「蝉ノ声無シレ隙」は他例未見の題。
千人万首 烏丸光広 秋 ― 2014年07月20日
星夕曝書
けふはまづ星に手向けて灯もややかかげてん文月の空
「七夕の今日はまず、二星に歌を手向けて、灯火もますます掻き立てて明るくしよう。文月の空の下で」。
七夕の儀式(乞功奠)をゆかしく詠んだ歌。
「星に手向けて」とは、梶の葉なり短冊なりに歌を書き、二星に手向けることを言うのであろう。題の「曝書」は本来書物を風や光に曝して乾かすことを言うが(漢土では七夕における風習であったらしい)、光広の歌では「星に(歌を)手向けて」でこの趣意を満たそうとしたのであろう。
「灯火をかかげる」とは、灯心を掻き出して灯火を明るくすること(「かかげる」は「掻き上げる」の転)。乞巧奠では清涼殿の東庭に九本の燈台を立てたといい(江家次第)、そうした儀式に因んでの謂であろう。
慶長六年(1601)の七夕公宴での作で、漢詩と和歌を競作する会であったが、光広は詩歌両方を詠んだという。
「星夕曝書」は前例未見の題。『通勝集』には同じ時の詠が収められており、題「七夕曝書」とある。
高梨素子氏の『松永貞徳と烏丸光広』(笠間書院)では第四句「ややかかげみん」とあり、この場合「見ん書」と結句に繋がることになる。ここでは『新編国歌大観』に拠った。
秋夕
おき添へて昔にもあらぬ袖の露こぞにことしの秋の夕暮
「去年もそうであったが、昔とはまるで違った袖の露が置き添える今年の秋の夕暮よ」。
寛永十年(1633)十月の石清水法楽一夜百首。作者五十五歳。老境を迎えての秋夕の感慨をしみじみと歌い上げている。大胆な語の配置には自在の境地が偲ばれる。
「昔にもあらぬ」は『新古今集』の式子内親王詠「それながら昔にもあらぬ秋風にいとどながめをしづのをだまき」(秋上・三六八)に先蹤のある句。「袖の露」はもとより涙を暗示する。
「こぞにことしの」は「去年に続いて今年の」ほどの意であろう。
「秋の夕暮」は『後拾遺集』頃から盛んに詠まれるようになった主題であるが、歌題「秋夕」は『六百番歌合』での出題を嚆矢とする。
嶺月
おしなべて月の光になりにけり雲もやはたの峰の松風
「空はあまねく月の光に満たされた。八幡の山の峰の松風が雲も遣らって」。
大胆に言い切った上三句が爽快。下二句は一転凝縮的表現に技巧を凝らしている。「雲もやはた」は「雲も遣(らふ)」「八幡」と掛けて言うのであろう。「八幡の峰」は石清水八幡宮の鎮座する男山。
題「嶺ノ月」は鎌倉初期頃から盛んに詠まれてきた。
暁霧
明星の光ばかりはなほ見えて秋の夜寒きうす霧の山
「秋の寒い夜が明けようとして、山は薄霧に包まれているが、明けの明星の光ばかりはなお見える」。
「暁ノ霧」は鎌倉時代から見える題。晩秋の冷え冷えとした暁、霧に透けて輝く金星の光が印象的な歌で、題に縛られない作者の自由な態度はここにも見える。題意は一応満たしているのであるが、「霧」が主役ではなくなってしまっているのである。
寛永十四年(1637)の「院御着到百首」、作者五十九歳。死去前年の作である。
(2014年7月29日改稿)
千人万首 烏丸光広 冬 ― 2014年07月28日
冬
田氷
ゆだねまき水せきいれし小山田の落穂をとぢて氷ゐにけり(黄葉集)
「神聖な種を蒔き、水を堰き入れた小山田――今はそこに落穂を閉じ込めて氷が張っているのだった」。
夏日同詠五十首和歌。春の種まき、夏の水入れ、秋の収穫・落穂拾い…忙しい農作業も終った冬の田のありさまである。田園風景に寄せて季節の移りゆきを詠んだ歌と言えば『古今集』の「きのふこそ早苗とりしかいつのまに稲葉そよぎて秋風の吹く」(秋上・一七二、読人不知)が真っ先に思い浮かべられるが、秋から夏を振り返った古今歌に対し、光広は冬田の景から春夏秋の推移に思いを馳せている。「田ノ氷」は鎌倉初期から見える題。
「ゆだねまき」は「斎種蒔き」。『万葉集』に「湯種蒔」とあるのを踏襲したのである。「落穂」は収穫のあとに落ち散った稲などの穂。
院聖廟御法楽に、嶺初雪
玉すだれ捲けばおましに入る山の峰にぞわきて初雪の色(黄葉集)
「玉簾を巻き上げると、御座所に山が入り込んでくるようだ。峰に積もった初雪の色が際立っていて」。
これも道真公の廟に奉納する和歌の会で詠まれた作。「嶺ノ雪」は鎌倉時代から見える題。
「おまし」は貴人の御座所や御敷物のことで、「玉すだれ」を「捲」くのは侍者なのであろう。「おましに入る山」とは思い切った表現で、芭蕉の名句「山も庭も動き入るるや夏座敷」が思い出される。もとよりこの句のような動感あふれる迫力はない。あくまでも貴族的な優美さを心にかけつつ、当時としては極めて新鮮な冴えた表現を達成している。
(2014年8月2日改稿)
最近のコメント