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千人万首メモ 孝明天皇2015年01月07日

京都御苑近衛邸跡の糸桜

孝明天皇 こうめいてんのう 天保二(1831)~慶応二(1866)

仁孝天皇の第四皇子。明治天皇の父。母は正親町実光女、雅子。諱は統仁おさひと。幼名は熙宮ひろのみや

天保十一年(1840)三月十四日、立太子。弘化三年(1846)、父仁孝天皇の崩御により践祚。攘夷を強く支持しつつも倒幕には反対し、公武合体を推進した。異母妹和宮の徳川家茂への降嫁を容認する。慶応二年(1866)十二月二十五日、病により崩御。三十六歳。

立春

はるの立つかしこ所の鈴の音に神代しられて仰ぐそらかな(列聖珠藻)

「新年の祭りをする賢所で侍女が鳴らす鈴の音に、神代もこうであったかと知られて、春の立つ空を仰ぐことよ」。

佐佐木信綱編『列聖珠藻』より。元治元年(1864)の作という。

「かしこ所」は八咫鏡を祀った所で、宮中祭祀の中心の一つ。新年の祭などで、天皇が賢所の内陣にて拝礼する際、内侍や巫女などが鈴を鳴らしたものらしい。そうした古式をゆかしみ、神代の立春を仰いだのであろう。

安政二年きさらぎなかの四日、かねて約し置きたる近衛の亭に行きむかひ、名にしおふ糸ざくらを見て

見れどあかぬ風をすがたの糸ざくら花のいろ香は長々し日も(孝明天皇紀)

「風をさながら姿として靡く糸桜よ。花の色香は長々と続き、長々と続く春の日にあっても、いくら見ても見飽きないことよ」。

『孝明天皇紀』より。安政二年(1855)二月十四日、五首のうち第二首。「近衛の亭」は京都御苑内に跡地を留め、周辺の糸桜(枝垂桜)はなお毎春美しい花を咲かせている(上の写真参照)。

「長々し」は「色香は長々し」「長々し日」と前後にかかる。「長々し」はまた「糸」の縁語。結句は初句に戻って「長々し日も見れどあかぬ」と円環する。

たやすからざる世に、武士の忠誠のこころをよろこびてよめる

もののふと心あはしていはほをもつらぬきてまし世々のおもひで(孝明天皇紀)

「武士と心を合わせて、巌をも貫いてしまおう。代々の思い出として」。

『孝明天皇紀』より。文久三年(1863)十月九日、「守護職松平容保かたもりに宸筆の御製を賜ふ」とある二首の、後の方。前の歌は「和らぐもたけき心も相生のまつの落葉のあらず栄へむ」。

京都守護職として新撰組などを用い京都の治安維持に当っていた容保への厚い信頼の感じられる歌。『孝明天皇紀』同日の記事には天皇の宸翰も載せ、「堂上以下、疎暴ノ論、不正之所置、増長ニ付キ、痛心堪ヘ難シ。下内命之処、速カニ領掌シ、憂患・掃攘、朕ノ存念貫徹之段、全ク其方忠誠深シ。感悦之餘リ、右壱箱、遣ハス者也(原文は変則的な漢文)」とある。

題不知

ほことりて守れ宮人ここのへのみはしのさくら風そよぐなり

「戈を手に取って守れ、宮人たちよ。ここ禁中の御階の桜が風にざわざわと音を立てている」。

『日本精神文化大系』第一巻の歴代御製集より。典拠も制作年も未詳。久坂玄瑞の備忘録「錬胆健体」に「今上帝御製」として見え、文久年間(1861~1864)頃、志士の間に知られていたことがわかる。

「ここのへ」は九重で皇居の異称であるが、「此所の辺」の意も読み取った。「みはしのさくら」は紫宸殿の南階下の東に植えられた山桜。儀式の際には左近衛府の官人が傍らに立ったので、左近の桜とも呼ばれる。

(2015年1月25日改訂)

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遅くなりましたが、謹んで新年のご挨拶を申し上げます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

『孝明天皇紀』は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーにて全220巻が閲覧可能です。

http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87%E7%B4%80