佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』九州17 生の松原 ― 2017年03月10日
生の松原と元寇防塁
補録
生の松原
筑前国の歌枕。福岡市西区の姪浜から西に延びる海岸の松林。新羅遠征の際、神功皇后が無事を祈ってこの地に松の枝を挿し、その枝が生い育って林になったと伝わる(筑前国風土記)。松原は今も残り、また元寇防塁の遺跡がある。「いき」に「生き」「行き」の意を掛け、筑紫へ下る人への餞別の歌に詠まれるなどした。
老いぬれどなほ行先ぞ祈らるる千歳まつにもいきの松原
筑紫へまかりける人のもとにいひつかはしける
昔見しいきの松原こと問はば忘れぬ人もありとこたへよ
一条院御時、大弐佐理筑紫にはべりけるに、御手本かきに下しつかはしたりければ、おもふ心かきて奉らんとて、かきつくべき歌とてよませ侍りけるによめる
都へといきの松原いきかへり君が千歳にあはんとぞおもふ
音にきくいきの松原見つるより物思ひもなき心地こそすれ
大宰帥隆家くだりけるに、扇たまふとて
すずしさはいきの松原まさるともそふる扇の風な忘れそ
恋ひ死なで心づくしに今までもたのむればこそ生の松原
涼しさを風のたよりにこととはむ今いくかあらばいきの松原
立春 春立つ (和歌歳時記メモ) ― 2013年02月03日
立春は二十四節気の一つ。冬至と春分の中間点で、日本の多くの土地では厳しい寒さがようやく緩み始める時節に当たる。太陽暦では2月4日頃。旧暦では正月一日前後になる。
和語では「春立つ」という言い方があり、これを「季節が春になる」の意で用いたのは、おそらく漢語「立春」から影響を受けてのことだろう。もっとも、正月になり新年を迎えることも春の始まりであったから、常に節気としての立春を強く意識して「春立つ」という語を遣っていたわけでもないと思われる。古人にとっては、新年と立春と、二つの春の始まりがあったのだ。この二つが一日に重なることは稀で、大抵は何日かずれる。そこから生じる戸惑いを面白く詠んだのが『古今集』の巻頭歌なのだ。
旧年 に春立ちける日よめる 在原元方年の内に春は来にけりひととせを
去年 とや言はむ今年とや言はむ
「まだ新年が来ていないというのに、年内に春は来てしまったよ。この一年を昨年と言おうか、それとも今年と言おうか」。
因みに今年の立春は明日2月4日であるが、旧暦では前年の十二月二十四日になってしまう。「年の内に春は来にけり」というわけだ。
さて立春を詠んだ秀歌を探すなら、勅撰集の最初の頁を見るのが手っ取り早い。中でも傑作として名高いのが『拾遺集』の巻頭歌だ。
平定文が家歌合によみ侍りける 壬生忠岑
春たつといふばかりにやみ吉野の山もかすみて今朝はみゆらん
「吉野は雪が深く、春の訪れの遅い山というが、春になった今朝眺めると、ぼんやりと霞んで見える。暦の上で春になったというだけで、こんな風に見えるのだろうか。あの吉野山さえ霞んでいるということは、世は本当に春になったのだろうよ」。くどく訳してみると、こんなふうになろうか。平明だが、何度読んでも味わいの深い歌だ。
もとより立春は一年の最初の節目。季節が順当な気候のうちに進んでゆくことは、人の死活に関わる問題だから、春の始まりの日に春らしい兆しが感じられるのは、大変めでたいことだ。真っ当に暑い夏、真っ当に涼しい秋、真っ当に寒い冬。立春詠には、一年の穏やかな季節の巡りと、それがもたらす自然の豊かな恵みへの、人々の祈りが籠められている。
八重桜:和歌歳時記メモ ― 2012年04月22日
いにしへの奈良の都の八重桜けふここのへににほひぬるかな
家にありたき木は、松、桜。松は五葉もよし。花は一重なるよし。八重桜は奈良の都にのみありけるを、この頃ぞ、世に多くなり侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆一重にてこそあれ。八重桜は異様(ことやう)の物なり。いとこちたくねぢけたり。植ゑずともありなん。
宗良親王
なほのこれ青葉の下の八重桜ひとへづつこそ散らば散るとも
後花園院
花に花なびきかさねて八重桜しづえをわきてにほふ頃かな
窪田空穂
咲き垂るる八重ざくら花ゆらぎ出でいや照りつつも重くしづまる
齋藤史
血のそこまでたわたわ重き八重桜まぎれやうなきその花の鬱
和歌歳時記:牡丹 Tree-peony ― 2011年04月29日
牡丹は中国原産の落葉小低木。かの国では最も愛され貴ばれてきた、花の王だ。色と言ひ大きさと言ひ、また花弁の豊かさと言ひ、王の尊号も諾なるかなと思ふ。私はこの豪奢さに馴染めず、好きな花ではなかつたが、先年、園藝好きの中学生の姪つ子が庭の空きに苗を植ゑてくれた。我が家のむさ苦しい庭にはやはり不釣合だなと恥ぢる一方、毎年咲くのが楽しみになつてゐる。
この花は万葉集に見えないものの、古代には日本に入つてゐたらしい。平安時代から和歌に詠まれた「
『拾玉集』 夏 慈円
夏木立庭の野すぢの石のうへにみちて色こき深見草かな
『後水尾院御集』 牡丹
思へどもなほ飽かざりし桜だに忘るばかりの深見草かな
「君をわが思ふ心のふかみぐさ」など、「深し」との掛詞を用ゐた歌が多いのだが、かへつて心は浅く感じられる。上には、掛詞と無縁の歌を二首挙げてみた。
別名「
花開花落二十日 花開き花落つ
二十日
一城之人皆若狂 一城の人 皆狂へるが若 し
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室町時代以後は「ぼうたん」とよんだ歌も散見され、この頃から日本での賞翫も広まつたと言はれる。近世には数多くの和歌が見られるやうになるが、世に博した人気の高さに比べれば、この花を詠んだ歌の数は必ずしも多いとは言へず、秀歌といふほどの歌も見当たらない。どうもこの濃厚な感じが、和歌の体質には合はなかつたのだらうか。江戸中期、天才絵師でもあつた俳諧師によつて鮮やかに切り取られるまで、この花の本領を日本語の詩はつかまへきれなかつたやうに見える。
牡丹
散 て打かさなりぬ二三片
閻王 の口や牡丹を吐かんとす
ぼたん切 て気のおとろひしゆふべ哉 講談社『蕪村全集』第一巻より
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『蔵玉集』(名取草) 顕仲(姓不明)
折る人の心なしとや名取草花みる時は
『詞花集』(…牡丹をよませ給けるによみ侍りける) 藤原忠通
咲きしより散りはつるまで見しほどに花のもとにて二十日へにけり
『千載集』(夏に入りて恋まさるといへる心をよめる) 賀茂重保
人しれず思ふ心はふかみぐさ花咲きてこそ色に出でけれ
『新古今集』(詞書略) 藤原重家
形見とてみれば嘆きのふかみ草なに中々のにほひなるらむ
『拾玉集』(夏) 慈円
ふかみ草やへのにほひの窓のうちにぬれて色こき夕だちの空
『壬二集』(建保四年百首 夏) 藤原家隆
むらさきの露さへ野辺のふかみ草たがすみすてし庭のまがきぞ
『草根集』(牡丹) 正徹
ともに見んことわりあれやもろこしの獅子をえがけばぼうたんの花
『後十輪院内府集』(牡丹) 中院通村
ふかみ草あかずやけふも紅の花のともし火よるもなほみん
『梶の葉』(牡丹を見侍りて) 祇園梶子
われのみかあはれ胡蝶も花の色にうつすこころの深見草かな
『うけらが花』(牡丹をよめる) 加藤千蔭
みし春の千千の色香をひともとにとりあつめたる深見草かな
『琴後集』(白牡丹の絵に) 村田春海
月雪のきよき心を一花のにほひにこむる深見草かな
『草径集』(牡丹残花) 大隈言道
おほかたは散り果てぬれど
『志濃夫廼舎歌集』(牡丹) 橘曙覧
置きあまる露の匂ひも深見草花おもりかに立ちぞふりまふ
『調鶴集』(牡丹) 井上文雄
唐めきし黒木赤木のませゆひて植うべき花はぼうたんの花
『竹乃里歌』正岡子規
くれなゐの光をはなつから草の牡丹の花は花のおほきみ
『舞姫』与謝野晶子
くれなゐの牡丹おちたる
『白き山』斎藤茂吉
近よりてわれは
『一路』木下利玄
牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ
和歌歳時記:葛紅葉 Autumn tints of kudzu ― 2010年12月05日
色づいたとて、誰が葛の葉に目を留めるだらう。しかし古来歌人たちはしばしば歌に詠んで来たし、今も「
『万葉集』巻十 作者未詳
雁 が音 の寒く鳴きしゆ水茎 の岡の葛葉 は色付きにけり
「雁がひえびえとした声で鳴いてからといふもの、岡の葛の葉の色づきが目立つやうになつた」。
岡の斜面を覆ひ尽くすやうに蔓延つた葛の葉が、いちめん秋の陽射しを受けて黄に輝くさまは、なかなかの壮観だらう。尤も上の歌を詠んだ万葉歌人は、黄葉の美しさを愛でたといふより、季節のうつろひにしみじみとした感慨をおぼえてゐるやうだ。家畜の飼料になる葛の葉を、古人は日ごろ気をつけて見守つてゐたにちがひない。
『古今集』 神の社のあたりをまかりける時に、
斎垣 のうちの紅葉を見てよめる 紀貫之ちはやぶる神の
斎垣 にはふ葛 も秋にはあへずうつろひにけり
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神社の神聖な垣根に這ふ葛であれば、神の力によつて常緑でありさうなものなのに、秋といふ自然の力には抵抗できずに色を変へてしまつた、といふ。
やはり葛といふ植物に古人が特殊な関心を寄せてゐたことが窺はれる歌だ。根は生薬となり、粉にして料理に用ゐられ、また蔓は布や行李などの日用品に利用された葛は、捨てるところのない有用植物、神の恵みの植物であつた。
『新古今集』 千五百番歌合に 顕昭法師
みづくきの岡の葛葉も色づきて今朝うらがなし秋のはつ風
上掲の万葉集の歌を本歌取りした一首。葛の葉は裏が白く、風に翻るとよく目立つが、その「うら」から「うらがなし」に転じた。ひややかな初秋の風が心の
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『万葉集』(寄黄葉) 作者不明
我がやどの葛は日にけにに色づきぬ来まさぬ君は何こころぞも
『千載集』(野風の心をよめる) 藤原基俊
秋にあへずさこそは葛の色づかめあなうらめしの風のけしきや
『拾遺愚草』(内裏名所百首 水茎岡) 藤原定家
みづくきの岡の真葛を海人のすむ里のしるべと秋風ぞ吹く
『秋篠月清集』(西洞隠士百首 秋) 九条良経
霜まよふ庭の葛はら色かへてうらみなれたる風ぞはげしき
『新撰和歌六帖』(くず) 葉室光俊
うらぶれて物思ひをれば我が宿の垣ほの葛も色づきにけり
『伏見院御集』(秋) 伏見院
垣ほなる真葛が下葉色かれぬ夜さむもよほす秋風のころ
『草根集』(葛) 正徹
露霜もあらしに散りて行く秋をうらみたえたる葛の紅葉ば
和歌歳時記:枯葉 Withered leaf;dry leaf ― 2010年11月19日
万葉集・古今集に枯葉を詠んだ歌は一つも見つからず、和歌にたびたび取り上げられるやうになるのは平安時代も後期になつてからのことだ。
『堀河百首』 霰 永縁法師
冬の夜のねざめにきけば片岡の楢の枯葉に霰ふるなり
役目を果たし、生気を失つて、あとは土に還るばかりの葉――枯葉。いにしへの歌人が深く心に留めたのは、それが風や雨、あるいは霰と触れ合つて立てる、乾いた、寂しげな音だつた。
この歌はのち南北朝時代の勅撰集、風雅集に採られたが、同じ集には、やはり「音」に執しつつ違つた角度から枯葉を詠じた歌が見える。作者は鎌倉時代の人である。
『風雅集』 文保三年、後宇多院にたてまつりける百首歌の中に
芬陀利花院前関白内大臣吹く風のさそふともなき梢よりおつる枯葉の音ぞさびしき
この歌に賛意を表しつつ、一ひねり加へたのが、三条西実隆の『雪玉集』に収められた次の詠だ。
『雪玉集』 内裏御屏風色紙御歌 三条西実隆
おのづからおつる枯葉の下よりはさびしくもあらぬ木がらしの庭
「ひとりでに落ちる枯葉の下にゐるよりは、いつそ寂しく感じないですむ、木枯し吹く庭よ」といふ歌。烈風が枯葉と共に感傷も吹き飛ばしてくれる、といふわけか。字余りの第四句「さびしくもあらぬ」の味はひを何と言つたらよいのだらう。室町乱世を生きた実隆といふ大変ユニークな人物の息づかひが、ふと聞こえるやうな気がする。
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『更級日記』 菅原孝標女
秋をいかに思ひいづらむ冬ふかみ嵐にまどふ荻の枯葉は
『続後撰集』(久安百首歌に、霰) 藤原顕輔
さらぬだに寝ざめがちなる冬の夜を楢の枯葉に霰ふるなり
『新古今集』(題しらず) 西行法師
津の国の難波の春は夢なれや蘆の枯葉に風わたるなり
『玉葉集』(寒草を) 殷富門院大輔
虫のねのよわりはてぬる庭のおもに荻の枯葉の音ぞのこれる
『新続古今集』(家にて歌合し侍りける時、蔦を) 九条良経
宇津の山こえし昔の跡ふりて蔦の枯葉に秋風ぞ吹く
『遠島百首』(冬) 後鳥羽院
冬くれば庭のよもぎも下晴れて枯葉のうへに月ぞ冴えゆく
『風雅集』(百首歌たてまつりし時) 徽安門院一条
秋みしはそれとばかりの萩がえに霜の朽葉ぞ一葉のこれる
『心敬集』(水郷寒草) 心敬
世をわたるよすがも今はなには江や蘆の枯葉をになふわび人
和歌歳時記:白萩 White bush-clover ― 2010年09月28日
清澄な秋気を集めたやうに、白萩が咲きこぼれてゐる。宮城野萩の変種といふが、色が違ふだけで、風情は大きく異なる花だ。
新編国歌大観で検索してみると、白萩を詠んだ歌は十首にも満たない。最も古い例は、藤原俊成の『古来風躰抄』に万葉集の歌として載せる、
吾が待ちししらはぎ咲きぬ今だにもにほひに行かな
彼方人 に
になるが、これは万葉巻十「吾等待之 白芽子開奴 今谷毛 尓寳比尓徃奈 越方人邇」の「白芽子」を「しらはぎ」と訓んでのこと。「白」は五行思想では秋に相当する色なので、この歌の「白」は「あき」の当て字と見るのが現在の通説である。
そこでこれを除くと、正治元年(1199)に亡くなった平親宗(時忠や時子の弟)の『親宗集』に見える歌が最古の「白萩」詠になる。
三条姫宮の歌合に、雨中草花を
濡れ濡れも雨は降るとも見にゆかむ待ちし白萩花咲きぬらし
明らかに上掲の万葉歌の古訓を踏まへた歌だが、雨中に賞美する草花として白萩を選んだのは当時としては新鮮な趣向だ。
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正治二年(1200)の『正治後度百首』にも白萩の歌が見える。作者は賀茂
分けわぶる露は袂に慕ひきて色こそ見えね真野の白萩
真野の萩原を分けてゆくと、夥しい露が後を追ふやうについて来て、歩きづらい。白萩なので露の色は見えないが、といふ歌だらう。真野は近江とも陸奥とも言ふが、萩の名所とされ、白萩も生えてゐることが知られてゐたらしい。宝治二年(1248)の『宝治百首』にも「真野の白萩」を詠んだ歌は見える(下記引用歌)。
季保の歌は紅萩に対し白萩の無色であるところを趣とした歌であつたが、室町時代の次の歌になると、白萩は「白」といふ色を持つた花としてしつかりと把握されてゐる。
『拾塵和歌集』 崎萩 大内政弘
ひく潮にかへらで波ののこるかと州崎にさける白萩の花
「引く潮に帰つて行かずに波が残つたのか。そんな風に見えて、洲崎に咲いてゐる白萩の花よ」。白萩を白波に擬へた歌だが、なるほど白萩の靡くさまは寄せる波を思はせる。
江戸時代にもいくつか白萩の歌は見える。
『琴後集』 白萩のゑ 村田春海
夕月の影かとみしは白萩の露ににほへるしづえなりけり
白萩を描いた絵に寄せた画賛。白萩の花に置いたおびただしい露がほの白く映えてゐるのを、夕月の光の反映かと見間違へた、といふ歌。実は夕月はまだ出てをらず、花の白さが夕露によつてひとしほ澄みまさり、黄昏時の庭にほのぼのと明るんでゐたのだ。白萩独自の美しさも季感もよく捉へた歌だらう。
近代以後は白萩も好んで歌に詠まれるやうになり、従来の紅い萩を凌駕するいきほひのやうだ。
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『宝治百首』(萩露) 寂能
うつろはぬ真野の白萩下葉のみおのがちくさにそむる露かな
『衆妙集』(御庭の白萩ことしよりは色に咲きかはりけるを見て) 道澄
さらに絵もいかに及ばむ秋萩の白きを後の色になしても
(御かへし) 細川幽斎
一たびは色かはるとも萩がえの白きをのちと又やたのまむ
『亮々遺稿』(しら萩) 木下幸文
置くとしも花には見えぬ白露をかはる下葉の色にこそ知れ
『寒燈集』会津八一
うゑ おきて ひと は すぎ にし あきはぎ の はなぶさ しろく さき いで に けり
『鳥繭』 河野愛子
夜の萩白くおもたきみづからの光守れり誰か死ぬらむ
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