千人万首メモ 日下部高豊 ― 2016年02月04日
日下部高豊 くさかべたかとよ 宝永元年か~明和四(1704?-1767) 通称:今荘貞右衛門
寛保二年(1742)、賀茂真淵に入門。最初期の県門歌人の一人である。明和四年(1767)、六十四歳で死去(六十六歳とも)。生涯独身であったらしい。死後に源道別が編した家集『山の幸』(一名『高豊をぢ集』。続歌学全書第二編収録)がある。『八十浦之玉』には三首入集。
春の始のうた
梓弓春たつらしも武蔵野の小手さし原に霞たなびく(八十浦之玉)
「小手さし原」(小手指原)は武蔵国入間郡、今の埼玉県所沢市西部にあった野で、古戦場として名高い。「小手指」の名は日本武尊が東征の際この地で籠手をかざしたことに由来するという。枕詞「梓弓」が効く所以である。このように戦への連想のはたらく地名が、おだやかな春の到来を言祝ぐ心をひときわ高めていると言えるだろう。
なお初二句は万葉集にもありそうな上代調であるが、実際には中世に始めて見えるもので、「梓弓はるたつらしももののふの矢野の神山かすみたなびく」(玉葉集・西園寺実兼)が初例のようである。
春興
千早ぶる神田の杜に春くれば朝ぎよめするうぐひすの声(山の幸)
「神田の杜」は神田明神であろう。天下に名を馳せる古社であるが、古歌に詠まれた例は他を知らない。因みに千代田区の「神田」の地名は、もと伊勢神宮の神田があったことに由来するという。
「朝ぎよめ」は多く宮中の朝の清掃のこととして詠まれた(「殿守の伴のみやつこ心あらばこの春ばかり朝ぎよめすな」拾遺集・源公忠)。清らかな早朝の神社の気を、ひとしお浄めるように鳴く鶯の初音。
月多遠情
箱崎の松をならせる秋風に見しふるさとの月ぞもれくる(山の幸)
「箱崎」は筑前の歌枕。箱崎八幡宮はかつて美しい松林の中にあった。はるばる九州を旅する旅人の身になり、秋風が鳴らす松籟を背景として、故郷の月を思慕している。「木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり」(古今集・読人不知)も遠く偲ばれる。
余録
社
さいくさやさゆりの花もとりかざり斎きぞ祭る神の御前に
月前雲
くまもなく照りそふよりは白雲に秋風そよぐ月のよろしさ
千人万首メモ 宜野湾朝保 雑 ― 2015年08月15日
写真は維新慶賀使の正使伊江王子(向かって右)と副使宜野湾朝保(同左)。
海路日暮
行く舟の和田の岬をめぐるまは波にいざよへ夕月の影
「進んでゆく船が和田の岬を巡る間は、夕月の影よ、波にたゆたっていておくれ」。
「和田の岬」は今の神戸港の南西端をなす岬。畿内と西国を往来する際には、必ず近くを通過する岬である。
海路で迎えた日没。夕月も太陽を追うように海の彼方へ沈もうとするが、岬を巡れば畿内の港は近い。もうしばらく波間に光を漂わせて、航路を照らしてくれ。
題詠ではあるが、官人としてたびたび内地に派遣され、船旅を多く経験した作者にとっては親しい題材であったろう。
扁舟暮帰
夕餉焚く煙や沖に見えつらん帰るさいそぐ海人の釣舟
「家で夕飯を炊く煙が沖にまで見えたのだろうか。帰路を急ぐ海人の釣舟よ」。
「扁舟暮帰」は中世から見える歌題。「扁舟」は底の平たい小舟で、漢詩では捕われのない自由気ままな身の譬えなどとされた。いかにも漢詩の風韻が匂う四字題であるが、朝保の歌に漢心は感じられない。どこの港にも見られるであろう日常の、懐かしい風景である。
水石契久
動きなき御世を心の岩が根にかけて絶えせぬ滝の白糸
「微動だにせぬ大君のご治世を我らの心の堅固な支えとして、滝の白糸が大岩に水を注ぐように、絶えず忠心をお寄せ申し上げよう」。
明治五年(1872)、維新慶賀の一行の副使として上京した朝保は、多大な歓迎を受けたが、吹上御所の歌会に陪席した折、兼題「水石契久(水石ノ契リ久シ)」に応じた一首を披露した。庭園の岩が根に「動き無き御世」を託し、大岩と滝水の因縁に日本・琉球の長久の結びつきを言祝いだ一首である。大海のかなた辺土からの使者が、かくまで巧緻にして意味深長な和歌を詠出してみせたことに、内地人の陪席者の驚きは如何ばかりであったろう。
いわゆる「琉球処分」の受容を象徴するような一首として名高い。この果断ゆえに伊波普猷は朝保を「琉球の五偉人」の一人に数え上げたのである。
題は『散木奇歌集』に初見、以後たびたび出題されたものである。
寄月述懐
おもしろき月になりても敷島の道の外には行くかたもなし
「興の惹かれる月夜になったけれども、さて私はどこへ行こうか。和歌の道のほかには行く場所もない」。
月に寄せた述懐歌。古来の歌題である。早い晩年、三司官を辞して邸内に悟性亭を結び、和歌や書画に没頭していた(没頭するほかなかった)頃の作と思われる。政治家としては今なお毀誉褒貶甚だしい朝保であるが、内地と琉球の架け橋としての生涯を全うしたとは言えるであろう。
千人万首メモ 宜野湾朝保 恋 ― 2015年08月14日
歳暮恋
年なみの流れの末に漕ぎ出でし恋の小舟ぞ行くへ知られぬ
「波が絶えず寄せるように年が寄る、歳月の流れの末に、今更漕ぎ出したわが恋の小舟。行方も知られぬことよ」。
「歳暮恋」は平安末頃から見える歌題。年の暮に際しての(或いはそれに絡めての)恋の心を詠む。朝保は「年波」の「波」の縁から発想したものと思われる。あてどのない恋の道を、波のまにまに漂う小舟に寓するというのは昔からある趣向であるが、「歳暮」を人生の暮ともして、老いらくの恋の頼りなさ、心細さが哀れだ。同題の歌に「この年もはや暮れはてて老いななん恋の心もおとろへぬべく」。
恋歌余録
寄月恋
あはれとや月も見るらん宵々に我が影ばかり我にそひつつ
千人万首メモ 宜野湾朝保 秋 ― 2015年08月13日
九月十三夜
めでそめし世も長月の月みればおくれたるこそ光なりけれ
「(秋の初めに)賞美し始めた時からも長い時が経った長月の月――その月を見ていると、遅くなった月こそが最も賞美される光なのだった」。
秋の真っ盛りである八月十五夜に対し、晩秋の月として賞美された九月十三夜を詠む。眺め眺めしてついに末を迎えた秋の月、名残惜しさがその光をひときわ美しくする。陰暦九月の異称「長月」の名を活かし、巧みに歌い上げている。朝保の大方の歌は、このように知巧に重きを置いたものなのであるが、これは情も籠った有心の秀詠であろう。結句は定家の「…秋こそ月の光なりけれ」(新勅撰集)を思わせる。
『沖縄集』より。なぜか『松風集』には漏れた歌。
秋歌余録
会友見月
まどゐして月にうたへる声きけば共にみちたる心なりけり
旅宿虫
夢路より行きて聞くこそあはれなれ吾がふるさとの松虫のこゑ
雨後紅葉
立ち出でて雨の晴間に見つるかなきのふは染めぬ嶺のもみぢ葉
千人万首メモ 宜野湾朝保 夏 ― 2015年08月12日
首夏雨
昨日今日みづ枝涼しく降る雨は花のなごりをそそぐなりけり
「昨日今日と、瑞々しい枝も涼しげに降る雨――それは春の花のなごりを洗い流すのであった」。
「そそぐ」は「濯ぐ」、洗い落とす意。
「首夏雨」は室町時代以後に見られる歌題。春から夏に移って間もない頃の雨である。朝保の歌は生気溢れる涼感に結びつけると共に、春の花(桜)に対する名残惜しさを除き去る雨として捉えている。
因みに沖縄では陰暦三月頃が初夏に当たるが、この季節を言い表すものに「うりずん」という語がある。「潤い初め」のことといい、乾季を過ぎて暖かくなり、若葉が茂り花が咲き、大地の潤ってゆくさまを表す言葉だそうだ。朝保の歌は、あくまで伝統的な和歌の範疇のうちで、多少の新味を添えようと詠まれたものと思われるが、どこか南島らしい風土の感性が感じられてしまうのである。
馬上郭公
ほととぎす雲井はるかにおひ行かん我がのる駒は龍ならねども
「時鳥を、雲の上遥かまで追ってゆこう。私の乗る馬は竜のように天翔ることはできないけれども」。
気宇の大きさが感じられる歌だ。「馬上郭公」は為忠家後度百首に初見の題で、すなわち平安後期からある歌題。自撰の『沖縄集』に収録されており、自信作だったのだろう。
梅雨晴
さみだれの雨ににごりし大空の海もみどりに成りにけるかな
「雨のせいで濁った海のようだった大空も、梅雨があけて、紺碧になったことであるよ」。
「梅雨晴」あるいは「五月雨晴」は中世以後に見える歌題。印象鮮明な歌いぶりで、師の景樹の美風を継ぐものだ。
小さな島々だけれど、海と空は果てしなく大きな琉球。南島人の心のスケールの大きさが感じられる。
同題に「さみだれの日数を出でて世の中のひろく成りたる心ちこそすれ」。さすがに朝保には夏の佳詠が多い。
千人万首メモ 宜野湾朝保 春 ― 2015年08月11日
宜野湾朝保 ぎのわんちょうほ 文政六~明治九(1823-1876) 唐名:向有恒 号:松風斎
文政六年三月五日、沖縄首里赤平村に生まれる。父は尚育王時代の三司官、宜野湾親方朝昆(唐名向廷楷)。十三歳の時、父が没し宜野湾間切を襲領する。接貢船修甫奉行・異国船御用係・学校奉行・系図奉行などを歴任し、この間たびたび清国・内地へ使者として派遣された。
三十六歳になる安政五年(1858)、薩摩に赴いた際には八田知紀らの知遇を得た。帰国後、別業を営み、悠然亭と号し、和歌を講じた。門人は数百人に及んだという。
文久二年(1862)、三司官となり、尚泰王を助けて信任を得る。維新後の明治五年(1872)、伊江王子の副使として東京に赴き、正使を助けて中山王を藩王に封ずるとの朝命を遵奉した(いわゆる琉球処分の始まり)。しかしその後清国への進貢を絶つなどの条項が琉球国内で反発を呼び、朝保の時論は容れられず、職を退いた。以後、悟性亭を邸内に結び、書画を友とする暮らしを送った。明治八年(1875)、尚泰王の次男尚寅が宜野湾間切を賜り宜野湾王子を称したため、宜野湾の名を避け宜湾と改めた(普通「ぎわん」と読まれるが、前姓と同じく「ぎのわん」と読むべきだとの説もある)。明治九年(1876)、五十四歳で死去。
香川景樹の流れを汲む桂園派に属する歌人。明治九年、琉球人の和歌集『沖縄集』二編を編む。門下の歌人護得久朝置の編になる家集『松風集』が明治二十三年に刊行された。他に著作は多かったというが殆どは散佚して伝わらず、『上京日記』等を存するのみである。
「容貌傀偉、性質豁達、幼にして大度の聞あり。壮年に及で学和漢を兼ね、又能く和漢の語に通じ、略英語を解す」(松風集所収の略伝)。
春
年内立春
幾夜ねて年をとるかと稚子がをよび折るまに春は来にけり
「あと幾夜寝ると年を取るのかと、幼な子が指を折るうちに春はやって来てしまった」の意。
「をよび」は指。「を」は親愛の情を示す接頭語。
旧年中に立春となった際の心を詠む。古今集冒頭歌があまりに有名であるため難題とされた「年内立春」の主題を、意想外の可憐な趣向で詠んでいる。作者には大人の風格とともに天真なところがあった。因みに同題で詠んだ歌「うなゐ子が年のはじめの花衣たちぬはぬまに春風ぞ吹く」も新鮮。
花
花ちらす風なかりせばあこがれし心はここに帰らざらまし
「もし花を散らす風がなかったなら、離れていった心魂はこの私の体に帰って来なかっただろう」の意。
「あこがれ」は古くは「あくがれ」。ものが本来あるべき場所から離れてゆくことを言う。
桜の美しさに惹かれて身体から遊離してしまった魂が、花が散った後、ようやく戻って来た。もし風が吹かなければ、そのまま魂はさ迷い続けていただろう。花をめぐり心身について内省し、西行を思わせるところがある。
千人万首メモ 孝明天皇 ― 2015年01月07日
孝明天皇 こうめいてんのう 天保二(1831)~慶応二(1866)
仁孝天皇の第四皇子。明治天皇の父。母は正親町実光女、雅子。諱は統仁。幼名は熙宮。
天保十一年(1840)三月十四日、立太子。弘化三年(1846)、父仁孝天皇の崩御により践祚。攘夷を強く支持しつつも倒幕には反対し、公武合体を推進した。異母妹和宮の徳川家茂への降嫁を容認する。慶応二年(1866)十二月二十五日、病により崩御。三十六歳。
立春
はるの立つかしこ所の鈴の音に神代しられて仰ぐそらかな(列聖珠藻)
「新年の祭りをする賢所で侍女が鳴らす鈴の音に、神代もこうであったかと知られて、春の立つ空を仰ぐことよ」。
佐佐木信綱編『列聖珠藻』より。元治元年(1864)の作という。
「かしこ所」は八咫鏡を祀った所で、宮中祭祀の中心の一つ。新年の祭などで、天皇が賢所の内陣にて拝礼する際、内侍や巫女などが鈴を鳴らしたものらしい。そうした古式をゆかしみ、神代の立春を仰いだのであろう。
安政二年きさらぎなかの四日、かねて約し置きたる近衛の亭に行きむかひ、名にしおふ糸ざくらを見て
見れどあかぬ風をすがたの糸ざくら花のいろ香は長々し日も(孝明天皇紀)
「風をさながら姿として靡く糸桜よ。花の色香は長々と続き、長々と続く春の日にあっても、いくら見ても見飽きないことよ」。
『孝明天皇紀』より。安政二年(1855)二月十四日、五首のうち第二首。「近衛の亭」は京都御苑内に跡地を留め、周辺の糸桜(枝垂桜)はなお毎春美しい花を咲かせている(上の写真参照)。
「長々し」は「色香は長々し」「長々し日」と前後にかかる。「長々し」はまた「糸」の縁語。結句は初句に戻って「長々し日も見れどあかぬ」と円環する。
たやすからざる世に、武士の忠誠のこころをよろこびてよめる
もののふと心あはして巌をもつらぬきてまし世々のおもひで(孝明天皇紀)
「武士と心を合わせて、巌をも貫いてしまおう。代々の思い出として」。
『孝明天皇紀』より。文久三年(1863)十月九日、「守護職松平容保に宸筆の御製を賜ふ」とある二首の、後の方。前の歌は「和らぐもたけき心も相生のまつの落葉のあらず栄へむ」。
京都守護職として新撰組などを用い京都の治安維持に当っていた容保への厚い信頼の感じられる歌。『孝明天皇紀』同日の記事には天皇の宸翰も載せ、「堂上以下、疎暴ノ論、不正之所置、増長ニ付キ、痛心堪ヘ難シ。下内命之処、速カニ領掌シ、憂患・掃攘、朕ノ存念貫徹之段、全ク其方忠誠深シ。感悦之餘リ、右壱箱、遣ハス者也(原文は変則的な漢文)」とある。
題不知
戈とりて守れ宮人ここのへのみはしのさくら風そよぐなり
「戈を手に取って守れ、宮人たちよ。ここ禁中の御階の桜が風にざわざわと音を立てている」。
『日本精神文化大系』第一巻の歴代御製集より。典拠も制作年も未詳。久坂玄瑞の備忘録「錬胆健体」に「今上帝御製」として見え、文久年間(1861~1864)頃、志士の間に知られていたことがわかる。
「ここのへ」は九重で皇居の異称であるが、「此所の辺」の意も読み取った。「みはしのさくら」は紫宸殿の南階下の東に植えられた山桜。儀式の際には左近衛府の官人が傍らに立ったので、左近の桜とも呼ばれる。
(2015年1月25日改訂)
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遅くなりましたが、謹んで新年のご挨拶を申し上げます。本年もどうぞよろしくお願い致します。
『孝明天皇紀』は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーにて全220巻が閲覧可能です。
http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87%E7%B4%80
千人万首 烏丸光広 旅 ― 2014年10月13日
名所湖
浪の音も猶あらましくすはの海や嵐の空の暮れ初むるより
「波の音も一層荒々しくするようになった、諏訪の湖よ。嵐吹く空が暮れ始めてからというもの」。
御神渡りで名高い諏訪湖は氷った湖面を詠まれることの多かった歌枕で、嵐や波の音を詠んだ前例を知らない。さしたる景趣は感じられないものの、「あらまし」「あらし」「そら」「くれそむる」とラ行音・サ行音を絡めるように進める韻律法で、耳に残る歌となった。初句・第三句の字余りも、一首の奏でる音楽の重要なアクセントになっていよう。慶長千首。
「すは」の「す」には動詞「為」の意が掛かる。
富士
雲かすみながめながめて富士のねはただ大空につもる雪かな
「富士を隠す雲霞を眺め眺めして、ついに現れたその嶺は、ただ大空に積る雪であったことよ」。
慶長八年(1603)以後たびたび江戸に下向した光広は、富士山を実見して詠んだとおぼしい歌を『黄葉和歌集』に二十首残している。雄大な山容に対する感動が瑞々しく、富士山文学史に名を刻まれるべき雄編であろう。掲出歌はその二首目で、冒頭の「立ちまよふ霞も山のなかばにてふじこそ春の高ねなりけれ」等と共に早春を想わせる富士の有様である。
同前
白妙の雪にあまぎる富士のねをつつみかねたる五月雨の雲
「真っ白な雪のために曇っている富士の嶺を、五月雨を降らせる雲が包みかねていることよ」。
夏の歌から採った。富士の嶺は五月雨を降らせる雲の上に突き出ているのだが、雪でよく見えないと言うのであろう。山麓の梅雨と山頂の吹雪とは面白い対照である。「つつみかねたる」の語が富士の雄大さを引き立てている。
「あまぎる」は「天霧る」で、本来は霧や降雪などで空が曇っているさまを言う語。
同前
年へても忘れぬ山のおもかげを更に忘れて向かふ富士かな
「何年経っても忘れない山の面影であるが、今またその面影を忘れて向き合う富士であることよ」。
富士二十首を締めくくる歌。最後に見た時から何年も慕い続けてきた、記憶の中の富士。ところが再び富士山を眼前にした瞬間、その面影は忘れ去られて、ただただ今の姿に見とれてしまう。勅使などに随行して数年置きに江戸へ下向し、東海道から仰ぐ富士に親しんできた光広の実感であろう。
余録
富士のねをみるみる行けば時しらぬ雪にぞ花の春をわするる
立ちおほふ霞にあまる富士のねにおもひをかはす山ざくらかな
ひえの山廿ばかりはかさぬとも都の秋に雪やみざらむ
もろこしになにか及ばん日の本とおもへば不二の山も有りけり
(2014年12月30日加筆訂正)
千人万首 烏丸光広 恋 ― 2014年09月23日
寄夕恋
形見とも思ほへなくに来し時と夕べの雲ぞ面影に立つ(慶長千首)
「忘れ形見だとも思えないのに、あの人が来た時刻というと、夕方の雲がありありと見える気がすることよ」。
恋人と最後に逢った時、空には印象的な美しい夕雲がかかっていた。訪問が絶えた今でも、同じ刻限になると、その時の雲が心にはっきりと想い浮かぶ、と言う。それが忘れ形見だとも思えないのに。いや、思いたくないのであろうか。
『古今集』墨滅歌「こし時と恋ひつつをれば夕暮の面影にのみ見えわたるかな」(物名・一一〇三、貫之)から詞と設定を借りて、雲を形見とするやや常套的な趣向を絡めた形であるが、「面影」を恋人のそれから雲のそれへと移したところにも工夫はある。「思ほへなくに」の否定がまた切ない。
慶長千首の恋二百首はすべて寄題。「寄夕恋」は鎌倉初期から見える。
寄松恋
ならはしと松にはかぜの音信をしらずや人はゆふぐれの空(黄葉集)
「ただの慣わし事と思って、あの人は気づいてくれないのか。松には風が訪れて音を立てる、夕暮の空よ」。
松風の寂しい音が響く夕暮時、恋人もこの響きを聞いているだろうに、訪問を待つ者の心には思い至らないのか、いくら待っても来てはくれない。
「おとづれ」の原義は「音連れ」という。これと「松」「待つ」の掛詞を風に関わらせた趣向は古くからあるもので、特に新古今の頃には例が多い。光広は語の配置、句と句のつなぎに心を尽し、詞が滑らぬよう抑えて、曲折豊かに歌い上げている。
恋の歌の中に
まぼろしのうき世の中に人恋ふる心ばかりのまことなるらん(黄葉集)
「幻のようにはかない浮世にあって、人を恋する心ばかりが真実なのであろう」。
一転、率直な述懐の恋歌。「心ばかりの」は「心ばかりが」の意。「や」でなく「の」と言い切ってくれたのが嬉しい。
「まこと」は「真事」であり「真言」。夢まぼろしでない、ありのままの事実であり、また嘘いつわりのない情、誠意。
黄葉集巻六恋部巻末。因みに千六百余首を収めるこの集にあって、恋の歌は百三十余首という少なさである。
余録
寄雲恋
ひと筋のおもひよいかに時の間の立ゐにかはる雲をみるにも
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