<< 2015/01 >>
01 02 03
04 05 06 07 08 09 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

RSS

千人万首メモ 孝明天皇2015年01月07日

京都御苑近衛邸跡の糸桜

孝明天皇 こうめいてんのう 天保二(1831)~慶応二(1866)

仁孝天皇の第四皇子。明治天皇の父。母は正親町実光女、雅子。諱は統仁おさひと。幼名は熙宮ひろのみや

天保十一年(1840)三月十四日、立太子。弘化三年(1846)、父仁孝天皇の崩御により践祚。攘夷を強く支持しつつも倒幕には反対し、公武合体を推進した。異母妹和宮の徳川家茂への降嫁を容認する。慶応二年(1866)十二月二十五日、病により崩御。三十六歳。

立春

はるの立つかしこ所の鈴の音に神代しられて仰ぐそらかな(列聖珠藻)

「新年の祭りをする賢所で侍女が鳴らす鈴の音に、神代もこうであったかと知られて、春の立つ空を仰ぐことよ」。

佐佐木信綱編『列聖珠藻』より。元治元年(1864)の作という。

「かしこ所」は八咫鏡を祀った所で、宮中祭祀の中心の一つ。新年の祭などで、天皇が賢所の内陣にて拝礼する際、内侍や巫女などが鈴を鳴らしたものらしい。そうした古式をゆかしみ、神代の立春を仰いだのであろう。

安政二年きさらぎなかの四日、かねて約し置きたる近衛の亭に行きむかひ、名にしおふ糸ざくらを見て

見れどあかぬ風をすがたの糸ざくら花のいろ香は長々し日も(孝明天皇紀)

「風をさながら姿として靡く糸桜よ。花の色香は長々と続き、長々と続く春の日にあっても、いくら見ても見飽きないことよ」。

『孝明天皇紀』より。安政二年(1855)二月十四日、五首のうち第二首。「近衛の亭」は京都御苑内に跡地を留め、周辺の糸桜(枝垂桜)はなお毎春美しい花を咲かせている(上の写真参照)。

「長々し」は「色香は長々し」「長々し日」と前後にかかる。「長々し」はまた「糸」の縁語。結句は初句に戻って「長々し日も見れどあかぬ」と円環する。

たやすからざる世に、武士の忠誠のこころをよろこびてよめる

もののふと心あはしていはほをもつらぬきてまし世々のおもひで(孝明天皇紀)

「武士と心を合わせて、巌をも貫いてしまおう。代々の思い出として」。

『孝明天皇紀』より。文久三年(1863)十月九日、「守護職松平容保かたもりに宸筆の御製を賜ふ」とある二首の、後の方。前の歌は「和らぐもたけき心も相生のまつの落葉のあらず栄へむ」。

京都守護職として新撰組などを用い京都の治安維持に当っていた容保への厚い信頼の感じられる歌。『孝明天皇紀』同日の記事には天皇の宸翰も載せ、「堂上以下、疎暴ノ論、不正之所置、増長ニ付キ、痛心堪ヘ難シ。下内命之処、速カニ領掌シ、憂患・掃攘、朕ノ存念貫徹之段、全ク其方忠誠深シ。感悦之餘リ、右壱箱、遣ハス者也(原文は変則的な漢文)」とある。

題不知

ほことりて守れ宮人ここのへのみはしのさくら風そよぐなり

「戈を手に取って守れ、宮人たちよ。ここ禁中の御階の桜が風にざわざわと音を立てている」。

『日本精神文化大系』第一巻の歴代御製集より。典拠も制作年も未詳。久坂玄瑞の備忘録「錬胆健体」に「今上帝御製」として見え、文久年間(1861~1864)頃、志士の間に知られていたことがわかる。

「ここのへ」は九重で皇居の異称であるが、「此所の辺」の意も読み取った。「みはしのさくら」は紫宸殿の南階下の東に植えられた山桜。儀式の際には左近衛府の官人が傍らに立ったので、左近の桜とも呼ばれる。

(2015年1月25日改訂)

-----------------------------------

遅くなりましたが、謹んで新年のご挨拶を申し上げます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

『孝明天皇紀』は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーにて全220巻が閲覧可能です。

http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87%E7%B4%80

千人万首 烏丸光広 旅2014年10月13日

名所湖

浪の音も猶あらましくすはの海や嵐の空の暮れ初むるより

「波の音も一層荒々しくするようになった、諏訪の湖よ。嵐吹く空が暮れ始めてからというもの」。

御神おみ渡りで名高い諏訪湖は氷った湖面を詠まれることの多かった歌枕で、嵐や波の音を詠んだ前例を知らない。さしたる景趣は感じられないものの、「あらまし」「あらし」「そら」「くれそむる」とラ行音・サ行音を絡めるように進める韻律法で、に残る歌となった。初句・第三句の字余りも、一首の奏でる音楽の重要なアクセントになっていよう。慶長千首。

「すは」の「す」には動詞「」の意が掛かる。

富士

雲かすみながめながめて富士のねはただ大空につもる雪かな

「富士を隠す雲霞を眺め眺めして、ついに現れたその嶺は、ただ大空に積る雪であったことよ」。

慶長八年(1603)以後たびたび江戸に下向した光広は、富士山を実見して詠んだとおぼしい歌を『黄葉和歌集』に二十首残している。雄大な山容に対する感動が瑞々しく、富士山文学史に名を刻まれるべき雄編であろう。掲出歌はその二首目で、冒頭の「立ちまよふ霞も山のなかばにてふじこそ春の高ねなりけれ」等と共に早春を想わせる富士の有様である。

同前

白妙の雪にあまぎる富士のねをつつみかねたる五月雨の雲

「真っ白な雪のために曇っている富士の嶺を、五月雨を降らせる雲が包みかねていることよ」。

夏の歌から採った。富士の嶺は五月雨を降らせる雲の上に突き出ているのだが、雪でよく見えないと言うのであろう。山麓の梅雨と山頂の吹雪とは面白い対照である。「つつみかねたる」の語が富士の雄大さを引き立てている。

「あまぎる」は「あまる」で、本来は霧や降雪などで空が曇っているさまを言う語。

同前

年へても忘れぬ山のおもかげを更に忘れて向かふ富士かな

「何年経っても忘れない山の面影であるが、今またその面影を忘れて向き合う富士であることよ」。

富士二十首を締めくくる歌。最後に見た時から何年も慕い続けてきた、記憶の中の富士。ところが再び富士山を眼前にした瞬間、その面影は忘れ去られて、ただただ今の姿に見とれてしまう。勅使などに随行して数年置きに江戸へ下向し、東海道から仰ぐ富士に親しんできた光広の実感であろう。

余録
富士のねをみるみる行けば時しらぬ雪にぞ花の春をわするる
立ちおほふ霞にあまる富士のねにおもひをかはす山ざくらかな
ひえの山廿ばかりはかさぬとも都の秋に雪やみざらむ
もろこしになにか及ばん日の本とおもへば不二の山も有りけり

(2014年12月30日加筆訂正)

千人万首 烏丸光広 恋2014年09月23日

彼岸花 鎌倉覚園寺辺にて

寄夕恋

形見とも思ほへなくに来し時と夕べの雲ぞ面影に立つ(慶長千首)

「忘れ形見だとも思えないのに、あの人が来た時刻というと、夕方の雲がありありと見える気がすることよ」。
恋人と最後に逢った時、空には印象的な美しい夕雲がかかっていた。訪問が絶えた今でも、同じ刻限になると、その時の雲が心にはっきりと想い浮かぶ、と言う。それが忘れ形見だとも思えないのに。いや、思いたくないのであろうか。
『古今集』墨滅歌「こし時と恋ひつつをれば夕暮の面影にのみ見えわたるかな」(物名・一一〇三、貫之)から詞と設定を借りて、雲を形見とするやや常套的な趣向を絡めた形であるが、「面影」を恋人のそれから雲のそれへと移したところにも工夫はある。「思ほへなくに」の否定がまた切ない。
慶長千首の恋二百首はすべて寄題。「寄夕恋」は鎌倉初期から見える。

寄松恋

ならはしと松にはかぜの音信おとづれをしらずや人はゆふぐれの空(黄葉集)

「ただの慣わし事と思って、あの人は気づいてくれないのか。松には風が訪れて音を立てる、夕暮の空よ」。
松風の寂しい音が響く夕暮時、恋人もこの響きを聞いているだろうに、訪問を待つ者の心には思い至らないのか、いくら待っても来てはくれない。
「おとづれ」の原義は「音連れ」という。これと「松」「待つ」の掛詞を風に関わらせた趣向は古くからあるもので、特に新古今の頃には例が多い。光広は語の配置、句と句のつなぎに心を尽し、詞が滑らぬよう抑えて、曲折豊かに歌い上げている。

恋の歌の中に

まぼろしのうき世の中に人恋ふる心ばかりのまことなるらん(黄葉集)

「幻のようにはかない浮世にあって、人を恋する心ばかりが真実なのであろう」。
一転、率直な述懐の恋歌。「心ばかりの」は「心ばかりが」の意。「や」でなく「の」と言い切ってくれたのが嬉しい。
「まこと」は「真事」であり「真言」。夢まぼろしでない、ありのままの事実であり、また嘘いつわりのない情、誠意。
黄葉集巻六恋部巻末。因みに千六百余首を収めるこの集にあって、恋の歌は百三十余首という少なさである。

余録

  寄雲恋
ひと筋のおもひよいかに時の間の立ゐにかはる雲をみるにも

更新のお知らせ2014年09月09日

ミズヒキの花

「千人万首」松永貞徳をアップしました。過日このブログに書いたものと内容はほぼ同じですが、形式は注釈書風に改めました。

しばらく定家の本にかかりきりだったので、随分久しぶりの更新となってしまいました。またこつこつと続けて参りますので、よろしくお願い致します。

千人万首 烏丸光広 冬2014年07月28日

比良山

田氷

ゆだねまき水せきいれし小山田の落穂をとぢて氷ゐにけり(黄葉集)

「神聖な種を蒔き、水を堰き入れた小山田――今はそこに落穂を閉じ込めて氷が張っているのだった」。

夏日同詠五十首和歌。春の種まき、夏の水入れ、秋の収穫・落穂拾い…忙しい農作業も終った冬の田のありさまである。田園風景に寄せて季節の移りゆきを詠んだ歌と言えば『古今集』の「きのふこそ早苗とりしかいつのまに稲葉そよぎて秋風の吹く」(秋上・一七二、読人不知)が真っ先に思い浮かべられるが、秋から夏を振り返った古今歌に対し、光広は冬田の景から春夏秋の推移に思いを馳せている。「田氷」は鎌倉初期から見える題。

「ゆだねまき」は「斎種ゆだね蒔き」。『万葉集』に「湯種蒔」とあるのを踏襲したのである。「落穂」は収穫のあとに落ち散った稲などの穂。

院聖廟御法楽に、嶺初雪

玉すだれ捲けばおましに入る山の峰にぞわきて初雪の色(黄葉集)

「玉簾を巻き上げると、御座所に山が入り込んでくるようだ。峰に積もった初雪の色が際立っていて」。

これも道真公の廟に奉納する和歌の会で詠まれた作。「嶺雪」は鎌倉時代から見える題。

「おまし」は貴人の御座所や御敷物のことで、「玉すだれ」を「捲」くのは侍者なのであろう。「おましに入る山」とは思い切った表現で、芭蕉の名句「山も庭も動き入るるや夏座敷」が思い出される。もとよりこの句のような動感あふれる迫力はない。あくまでも貴族的な優美さを心にかけつつ、当時としては極めて新鮮な冴えた表現を達成している。

(2014年8月2日改稿)

千人万首 烏丸光広 秋2014年07月20日

星夕曝書

けふはまづ星に手向けてともしびもややかかげてん文月ふみづきの空

「七夕の今日はまず、二星に歌を手向けて、灯火もますます掻き立てて明るくしよう。文月の空の下で」。

七夕の儀式(乞功奠)をゆかしく詠んだ歌。

「星に手向けて」とは、梶の葉なり短冊なりに歌を書き、二星に手向けることを言うのであろう。題の「曝書」は本来書物を風や光に曝して乾かすことを言うが(漢土では七夕における風習であったらしい)、光広の歌では「星に(歌を)手向けて」でこの趣意を満たそうとしたのであろう。

「灯火をかかげる」とは、灯心を掻き出して灯火を明るくすること(「かかげる」は「掻き上げる」の転)。乞巧奠では清涼殿の東庭に九本の燈台を立てたといい(江家次第)、そうした儀式に因んでの謂であろう。

慶長六年(1601)の七夕公宴での作で、漢詩と和歌を競作する会であったが、光広は詩歌両方を詠んだという。

「星夕曝書」は前例未見の題。『通勝集』には同じ時の詠が収められており、題「七夕曝書」とある。

高梨素子氏の『松永貞徳と烏丸光広』(笠間書院)では第四句「ややかかげみん」とあり、この場合「見んふみ」と結句に繋がることになる。ここでは『新編国歌大観』に拠った。

秋夕

おき添へて昔にもあらぬ袖の露こぞにことしの秋の夕暮

「去年もそうであったが、昔とはまるで違った袖の露が置き添える今年の秋の夕暮よ」。

寛永十年(1633)十月の石清水法楽一夜百首。作者五十五歳。老境を迎えての秋夕の感慨をしみじみと歌い上げている。大胆な語の配置には自在の境地が偲ばれる。

「昔にもあらぬ」は『新古今集』の式子内親王詠「それながら昔にもあらぬ秋風にいとどながめをしづのをだまき」(秋上・三六八)に先蹤のある句。「袖の露」はもとより涙を暗示する。

「こぞにことしの」は「去年に続いて今年の」ほどの意であろう。

「秋の夕暮」は『後拾遺集』頃から盛んに詠まれるようになった主題であるが、歌題「秋夕」は『六百番歌合』での出題を嚆矢とする。

嶺月

おしなべて月の光になりにけり雲もやはたの峰の松風

「空はあまねく月の光に満たされた。八幡の山の峰の松風が雲もらって」。

大胆に言い切った上三句が爽快。下二句は一転凝縮的表現に技巧を凝らしている。「雲もやはた」は「雲も遣(らふ)」「八幡」と掛けて言うのであろう。「八幡の峰」は石清水八幡宮の鎮座する男山。

題「嶺月」は鎌倉初期頃から盛んに詠まれてきた。

暁霧

明星あかほしの光ばかりはなほ見えて秋の夜寒きうす霧の山

「秋の寒い夜が明けようとして、山は薄霧に包まれているが、明けの明星の光ばかりはなお見える」。

「暁霧」は鎌倉時代から見える題。晩秋の冷え冷えとした暁、霧に透けて輝く金星の光が印象的な歌で、題に縛られない作者の自由な態度はここにも見える。題意は一応満たしているのであるが、「霧」が主役ではなくなってしまっているのである。

寛永十四年(1637)の「院御着到百首」、作者五十九歳。死去前年の作である。

(2014年7月29日改稿)

千人万首 烏丸光広 夏2014年07月17日

山五月雨

かげふかき青葉づたひに滝ほそくおちぬ山なき五月雨の比(黄葉集)

「陰深く繁った青葉をつたって滝が細く落ちる。そんな滝の見えぬ山はない五月雨の頃であるよ」。

木々の葉繁みから途切れず落ちる雫を「滝」と言って意表を衝く。しかしこの新鮮な比喩によって、降りやまぬ梅雨の季節の山の有様がありありと面白く想像されよう。「おちぬ山なき」という否定を重ねた表現は現代の読者には馴染みにくいけれど、王朝和歌ではこうした婉曲的な表現が好まれたのである。 題「山五月雨」は建保三年(一二一五)の『洞院摂政家百首』に出題された前例がある。

院聖廟御法楽に、夕立過

ほのくらき雲のたえまにもれ出でて朝日に似たる夕立の空(黄葉集)

「天を覆うほの暗い雲から白雨が降る――あたかも雲の切れ間から漏れ出る朝日にも似た、夕立の降る空よ」。

夕立の降るさまを遠望している。「朝日」というのは今言う「天使のはしご」、雲間から漏れる光のすじであろう。遠くで降る白雨がその「朝日」に似ていると言うのである。これまた意想外の見立てによって、夕立が新しい相貌を以て想像される。

いつとも不明であるが、菅原道真の廟に奉納する和歌の会で詠まれた作。当時はこの種の法楽和歌会が盛んに催されていた。「夕立過」は室町時代以降に見える題で、通り雨としての夕立が本意になろうが、光広は「過」の題意にはさほど拘っていないようである。

水無瀬殿御法楽に、蝉声無隙

ほのかにも森の木の間の朝づく日入日を送る蝉のこゑかな(黄葉集)

「森の木の間からほのかに漏れる朝日を迎えるように、また入日を送るように、朝にも夕にもひまなく聞こえるほのかな蝉の声であるよ」。

朝夕に鳴くと言うからにはこの「蝉」は蜩なのであろう。その声を、森の木の間に射す朝日を迎え、夕日を送って鳴くと聞いた。蜩が鳴く薄暗い森という場所の、そして朝夕という時間の、いずれもその特徴をよく活かした詠みぶりである。題意をきちんと満たしているかというと、それは別問題。「蜩」詠としては、とても面白く感じる。

「ほのかにも」は「漏る」などの語を略して「朝づく日入日」に掛かり、かつ「送る蝉の声」にも掛かるのであろう。「朝づく日入日を送る」は「朝日を迎え、入日を送る」ということ。読者の推理に頼んだ、思い切った、しかし論理的な省略法で、定家を始め新古今時代の歌人のよく用いた手法である。

「水無瀬殿御法楽」は後鳥羽院の霊に奉納する和歌の会。「蝉声無隙」は他例未見の題。

千人万首 烏丸光広 春2014年07月12日

烏丸光広自筆詠草。「むさしのの月 さそなみむ山のはしらぬむさし野に秋はも中の有明の月」
烏丸光広 からすまるみつひろ 天正七~寛永十五(1579-1638)

藤原北家内麿の末裔。日野資康すけやすの子豊光が分家し、以来烏丸を称した。准大臣従一位光宣の子。子に光賢がいる。

天正九年(1581)従五位下に叙され、侍従・右少弁・左少弁・蔵人などを経て、慶長四年(1599)蔵人頭に任ぜられる。同十一年には参議に就いたが、同十四年(1609)の猪熊事件(侍従猪熊教利による女官密通事件)に連座して勅勘をこうむり、官を解かれ蟄居を命ぜられた。のち許され、慶長十八年には権大納言に至る(最終官位は正二位)。寛永十五年(1638)七月十三日薨。六十歳。

後陽成院・後水尾院の二代にわたり宮廷文化人として活躍した。和歌は細川幽斎に学び、古今伝授を受ける。二条派和歌の宗匠として三代将軍家光の歌道指南役などを務めた。嫡孫資慶により編纂された家集『黄葉和歌集』がある。歌学書には幽斎の説を口述筆記した『耳底記』のほか、『古今集聞書』『新古今和歌集抄』『百人一首抄』などがある。他の著書に紀行『あづまの道の記』、随筆『目覚草』など。書・墨画など諸芸に優れ、儒学や禅理にも通じた。

上の画像は烏丸光広自筆詠草。「むさしのの月 さそなみむ山のはしらぬむさし野に秋はも中の有明の月」

残雪

えかへる空待ちいでて春ふるや雲のあなたに残る白雪(黄葉集)

「再び寒くなる空を待って、春に降り出したのか。雲の彼方にまだ白雪が残っていたことよ」。

「残雪」は堀河百首題で、早春の野山に消え残る雪を詠むことが多かった。雪の残る場所を「雲のあなた」に見るとは意表を衝く。寛永十四年(1637)の院御着到百首。百日間、毎日一首ずつ詠むという趣向の百首歌で、後水尾院に奉られた。

第二・三句は「空待ちて春(に)降り出づや」ということであろう。語法にかなり無理はあるが、詞の響きを優先してのことである。

朝鶯

うちかすむ春の軒端の朝日影のどかにうつるうぐひすの声(黄葉集)

「春の朝、軒端に射す日影はひどく霞んでいる。その光の中を、鶯の声がのどかに移動している」。

慶長十年(1605)九月、宮中歌会で詠まれた『慶長千首』の一首で、『黄葉和歌集』の春の部にも採られている。三十六人の歌人が丸一日で計千首を詠むという催しであった。光広は二十七歳の若さでこれに参加した。

「朝鶯」は鎌倉初期頃から見える題。枝移りしながら鳴く習性のある鶯の声を、いかにも春めいた穏やかな朝日の中に響かせた。朝日を眺める場所を「軒端」と特定したことで、移動する鶯の声が実感を伴って想像される。「う」音と「の」音の繰り返しなど、韻律上の工夫も凝らされている。

春雁離々

なごりまでしたふつばさは雲に消え霞にきえて帰る雁がね(黄葉集)

「見えなくなった後の余韻まで慕おうと、北へ帰ってゆく雁の群をながめる――その翅はあるいは雲に消え、あるいは霞に消えてゆく」。

「春離々りり」は実隆の『雪玉集』の永正六年(1509)の内裏着到百首に見え、その後公条きんえだ・幽斎と歌い継がれてきた題。雁が離ればなれに帰ってゆくさまを詠む。

雲や霞に消えてゆく雁を詠んだ歌は古来多く、「春霞かすみていにし雁がねは…」(古今集・秋・二一〇、読人不知)、「ながむれば霞める空のうき雲とひとつになりぬ帰る雁がね」(千載集・春上・三七、良経)などが作者の念頭にあった歌にちがいない。もともと紛れやすい「雲」と「霞」に消えてゆくと言って、いかにも茫漠とした春の空が想われ、雁影の景に縹渺たる余韻を添えて一首を閉じている。心情を先に言い、景を後に描く構成法が効いている。「したふ」対象を「翅」に絞ったのも巧いところであろう。

花面影

咲く花の面影みせて春風もにほふばかりの峰の白雲(慶長千首)

「峰の白雲を眺めれば、桜の咲くありさまがいかにも見えるような気がして、そちらから吹く春風もかぐわしいばかりだ」。

「花面影」は鎌倉後期頃から見える歌題。ただちに俊成の名歌「面影に花の姿を先立てて幾重こえきぬ峰の白雲」(新勅撰集・春上・五七)が連想される題であるが、光広もやはりこの歌のほのぼのと華やかな風姿を慕いつつ詠んだにちがいない。結句を同じくする「峰の白雲」に山桜の面影を見ることも共通するが、花を尋ねゆく人の立場で詠んだ俊成の歌に対し、光広は峰を遠望する人の身になって詠んだ。花の面影を見せ、春風を吹き寄せるとして、「峰の白雲」は人の前に聳立する。優美にしてたけの高さも具えた歌であろう。

千人万首 松永貞徳 雑2014年07月04日

みどり子をみて

みどりのめざめて後も驚くは夢ともしらぬ夢やみつらん

「赤ん坊が目覚めた後もびっくりしているのは、夢だとも知らない夢を見たのだろうか」。

「みどり子」は生まれて間もない赤ん坊、また三、四歳頃までの幼児をも言ったらしい。この場合、そばで親しく観察していた詠みぶりなので、おそらくは自分の子であろう。「貞徳の長男昌三は文禄元年(一五九二)、貞徳二十二歳のときに誕生しており、貞徳は若い父親であった。我が子を観察したものであろうか。ともあれ、江戸時代の男性が幼児をよんだこのような歌は珍しいと思われる」(高梨素子「松永貞徳と烏丸光弘」)。

家庭生活の何気ない一場面、赤子などのふとした表情に心を動かされて歌を詠むというのは、当時(近世初頭)にあっては相当に新しい創作の姿勢であった。江戸も末期の、例えば大隈言道の歌風を早くも予告するかのようである。もっとも、もっぱら題詠に力を入れた貞徳にあっては稀な偶成の作であって、こうした方面に重きは置いていなかったのである。

「夢ともしらぬ夢」は、夢だとも認識できない夢。

祝言

君と臣みがくこと葉の玉くしげ身をあはせたる代こそ治まれ

「君主と臣下とが、互いに和歌のことばを玉のように磨き合う――こうして君臣が身を合わせた御代こそ平和に治まるのである」。

『逍遊集』巻末歌。「歌ちからなくよわき花風ばかりにては、国家おだやかならず。…世の乱るるも治まるも、皆歌の風にて知る事あり」(戴恩記)などとした貞徳の政教主義的な和歌観が端的に表われた一首であろう。

「身をあはせたる」とは、『古今集』仮名序の「かの御時に、おほきみつのくらゐかきのもとの人丸なむ、うたのひじりなりける。これは君もひともといふなるべし」による。宮廷歌人たる人麻呂が、応詔和歌によって天皇の心を体現したとして、君臣一体にかなう古例として賞揚した詞である。貞徳はこれを承け、互いに和歌の詞を玉のように磨くことが君臣の道をととのえ、国家の用に立つことだとして、和歌による治国平天下を言祝いだのであった。

「こと葉の玉くしげ」は「こと葉の玉」「玉くしげ」と掛けて言う。「玉くしげ」は「身」の枕詞。「みがく」は「玉」の縁語。

 

余録

  立春
朝日さす雪もつららもとくとくと春はきにけり軒の玉水

  花下忘帰
をののえの朽木の杣の花にねんたとひ七世の孫に逢ふとも

  閑庭月
心さへすみ行く庭のやり水に月の氷のおとをきくかな

  春恋
春といへどのどかならずも物ぞ思ふ絶えて桜のなき世なりとも

  題不知
いとけなき心ちこそすれたらちねと添ひ寝の夢のさめてかなしき

  親の夢に見えられける時、つねに我が親もみるといはれし事を思ひ出でて
たらちねのそのたらちねを夢にみて恋ひしたはれし折ぞ恋しき

  和泉式部の寺にて月次の和歌会有りければ、おもひつづけて
くらきよりくらき心のことのはをあはれとや思ふ山のはの月

千人万首 松永貞徳 秋2014年07月01日

早秋朝山

さらしなや秋しもきその朝ぼらけ心にいづる山のはの月

「更科の里にまさに秋が来た。木曽路の朝ぼらけに姨捨山を眺めれば、心のうちには山の端の月が現れ出る」。

「秋しもきその」は「秋しも来」「木曽の」と掛けて言う。早朝、木曽路を通って更科の里に至り着いた旅人の身になっての詠。月で名高い姨捨山の稜線を眺めれば、はや心にはありありと明月を見るようだ、と言う。サ行音を多く用いた上二句の調べが爽やかで、信州の「早秋」の気も偲ばれよう。

八月十五夜百五十首

衣手も皆しろ妙になりにけり今夜こよひやたれも月の宮人

通釈は不要であろう。「月の宮人」は、海彼の怪異譚などに語られた月宮(月の都)の宮人。『竹取物語』のクライマックス・シーンに「大空より人、雲に乗りて下り来て、土より五尺ばかり上がりたる程に、立ち列ねたり。…立てる人どもは、装束の清らなること、物にも似ず」などとあるように、月の宮人は月光の色さながらの浄衣を着るとされた。

中秋名月を主題に詠んだ百五十首連作より。老年の作であることは、「思ふとも恋ふとも逢はん今夜こよひかは我が世の後の秋の月影」などによって知られる。