百人一首 なぜこの人・なぜこの一首:第3番柿本人麿 ― 2010年01月21日
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし
【なぜこの人】
柿本人麿は古来、至高の歌人として、また和歌の神として尊ばれてきました。既に奈良時代の大伴家持は和歌の学びの道を「山柿之門」と称していますが(万葉集巻十七)、「山」が誰を指すか諸説あるものの、「柿」が人麿を指すことを疑う理由はありません。平安時代に入ると、紀貫之が「うたのひじり」と呼んで人麿の評価を決定づけます。
いにしへより、かく伝たはるうちにも、ならの御時よりぞ、ひろまりにける。かのおほむ世や、歌の心をしろしめしたりけむ。かのおほむ時に、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむ、歌のひじりなりける。これは、君も人も、身をあはせたりといふなるべし。秋のゆふべ、龍田河にながるる紅葉をば、みかどのおほむ目に、錦と見たまひ、春のあした、吉野の山の桜は、人まろが心には、雲かとのみなむおぼえける(古今集仮名序)。
官位を「おほきみつのくらゐ(正三位)」としたり、不審な部分も多いのですが、君臣一体を体現する宮廷歌人として人麿を見ていたところ、正鵠を得ています。
平安も末近くなると、人麿の図像を祭り歌を献ずる「人麿
人麿がかくも崇められたのは、その作品の偉大さはもとより、宮廷の文藝として和歌を堂々樹立した
貫之が人麿・赤人を称揚し、大伴旅人や山上憶良に触れなかったのは、前者が宮廷で活躍した「おおやけ」の歌人である一方、後者は「わたくし」の歌人に過ぎなかったからです。定家の百人一首においてもその事情は変わりませんでした。
【なぜこの一首】
百人一首は代々の勅撰集から抜粋する方針で編まれているので、例えば「
平安時代、人麿の歌は、ほとんどが人麿以外の作者の歌から成る、
ともあれ古くから人麿随一の秀歌とみなされたのは、次の一首です。
ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ
これは古今集に「よみ人しらず」として載せ、左注に人麿作との伝承があったことを記しています。その後『古今和歌六帖』(西暦十世紀後半成立)が人麿の作とし、藤原公任の『和漢朗詠集』(西暦十一世紀初め成立)等でも人麿作とされて、人麿の代表作と見なされるようになりました。伝承の霧で神秘化されているゆえにこそ、王朝歌人たちはこの歌を歌聖の神品に祭り上げたのでしょう。もとより調べ麗しく雅びな歌ですが、新古今時代の美意識からすると平明穏和に過ぎ、定家の眼には歌聖の代表歌として物足りなく映ったでしょう。実際彼は『定家八代抄』に採ったくらいで、この歌を他の秀歌撰には選び入れていません。
一方「あしびきの…」歌は、もとは万葉集の作者不明歌ですが、『人丸集』に見え、第三勅撰集『拾遺集』に人麿の作として採られました。同じ頃、藤原公任は『三十六人撰』に人麿の秀逸としてこの歌を選び入れ、以後、俊成の『三十六人歌合』、後鳥羽院の『時代不同歌合』などにも引き継がれて、新古今時代には人麿の代表歌の一つとして定着しています。定家も『定家八代抄』『秀歌大躰』『近代秀歌(自筆本)』『詠歌大概』『八代集秀逸』などに選び入れていますし、「独りぬる山鳥の尾のしだり尾に霜おきまよふ床の月影」(新古今集)など本歌取りをたびたび試み、この歌に対する愛着を隠していません。
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む
「しだり尾の」までは「ながながし」を導く序詞ですが、山鳥の尾という空間的な長さを時間的な長さに転じたばかりでなく、雌雄峰を隔てて寝るという山鳥の習性を「ひとりかも寝む」の嘆きに結びつけて、なかなか複雑な効果をもたらす《
暗闇の中に長々と垂れる、横縞模様の入った赤銅色の尾羽のイメージ。それは、恋人の不在がもたらす苦悶と響き合う時、定家の好んだ妖艶の美を実現するでしょう。――などと言ってみても所詮後付けの理屈です。この歌をすぐれたものにしているのは、やはり何と言っても調べです。どうぞ早口でなく、ゆっくりと朗誦してみて下さい。「あしびきのーー、やまどりのをのー、しだりをのーー、ながながしよをー」……
"yamadorinowono sidariwono naganagasiyowo"とoo(オオ)音で脚韻を踏むのは指摘するまでもなく耳に快いのですが、そればかりではありません。第二句の「やま(yama)」のaa音は、第四句に「ながなが(naganaga)」と引き伸ばされますし、「どり」のoi音の余韻は結句の「ひとり」と響きを交わします。「びき」「どり」「しだり」「ながなが」という濁音の連鎖も一首の調子に陰翳を与えていましょう。
おそらく半ば無意識的に練り上げられたと思われるこのみごとな韻律は、恋人と引き離された長夜の孤独というテーマと、分かち難く一体となっていることが感じられます。定家は『毎月抄』で「心と詞とを兼ねたらむを良き歌と申すべし。心・詞の二つは鳥の左右のつばさの如くなるべきにこそ」云々と言っていますが、「あしびきの…」歌はまさに心(意味内容)と詞(表現)とが不可分となった、「良き歌」の要件を端的に示す作品と言えましょう。歌聖の代表作として示すのに、この上なく相応しい歌と定家は考えていたに違いありません。
最後に一つだけ付け加えれば、選歌のポイントとして、この歌が恋歌であったことも見逃せません。百人一首に恋歌は四十三首の多きを占め、定家自撰も恋の歌です。至聖の歌人の一首も当然和歌の華たる恋歌から採るべし。そんな思い入れが定家にあったのではないかと私は想像するのです。
(2010年2月20日加筆)
コメント
_ 三友亭主人gatayan ― 2010年01月22日 08時00分
_ 水垣 ― 2010年01月23日 15時41分
人丸=火止まる、人産まる、というわけで、防火や安産の神になったのは江戸時代のことだそうですが、そうした信仰も、大歌人の言霊のパワーあってこそなのでしょうね。
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平安朝の歌人達にとってはどうだったんでしょうね。
おそらくは万葉仮名で書かれた人麻呂の作品多くは、彼等のとって訓めないものであったに違いないでしょうし、人丸集にいたっては・・・との感が強いものですし・・・
彼等なりの人麻呂像があって、それに適合したものを「柿本人麻呂作」として受け取って、神格化していったのでしょうね。
神様は・・・よく分からないものであっても、それを信じることで神様になってゆくものですから。
だから人麻呂がのちのち防火の神様になっていったりもしたのでしょうね。