百人一首なぜこの人・なぜこの一首 第13番:陽成院2010年08月19日

陽成院

筑波嶺(つくばね)の峰より落つるみなの川こひぞつもりて淵となりける

【なぜこの人】

陽成院(ようぜいのいん)は第五十七代天皇。「院」というのは元来上皇の御所を言いましたが、これを譲位後の天皇の尊称に用いたものです。因みに百人一首に「院」を付けて呼ばれる天皇は、陽成院・三条院・崇徳院・後鳥羽院・順徳院の五人。不思議なことに、退位の事情なり退位後の人生なりに悲劇的な経緯のあった天皇ばかりです。

陽成院、(いみな)貞明(さだあきら)親王。貞観十年(868)、清和天皇と藤原高子(たかいこ)の間に生れ、父の譲位をうけて九歳で践祚しました。摂政は高子の兄、藤原基経。両親と伯父に篤く庇護された少年天皇でした。ところが十三の歳に父上皇が崩御すると、基経と高子の間で対立が高まり、不満を募らせた基経は政務をサボタージュ、朝政は混乱を来します。その頃、清涼殿で陽成天皇の()兄弟である(みなもとの)(すすむ)が「格殺」すなわち殴殺される事件が起こり、これがきっかけとなったのか、十七歳になる翌年の元慶八年(884)、退位に追い込まれました。代って立ったのが百人一首15番の光孝天皇です。長男の元良親王(20番)は退位後にもうけた子。この息子には先立たれてしまうのですが、陽成院は八十二歳の長寿を全うします。

格殺事件については正史の『日本三代実録』に書かれています。当該記事の全文を訓み下して引用しましょう。

散位従五位下源朝臣蔭の男益、殿上に侍して、猝然(そつぜん)として格殺せらる。禁省の事、秘して外人の知ること無し。益は帝の乳母従五位下紀朝臣全子の生む所なり。

「益」は「まさる」とも「ます」とも訓まれるようです。乳母の子というのは幼時の遊び相手で、実の兄弟のように親密であることが多かったのです。その益が、なぜ天皇の常の御所で殺されねばならなかったか。
事件の詳細について正史は口を閉ざしますが、それゆえにこそ陽成天皇に疑いの目が向けられずにはいません。同じ『三代実録』には天皇が馬を愛し禁中で秘かに飼ったり、内裏で闘鶏を行わせたりしたとの記事も見え、奔放な性格を窺わせます。

陽成院をめぐる悪評は時代を追ってエスカレートしたようで、九条兼実の日記には院につき「暴悪無双、自ら刀を抜き人を殺害す」云々とありますし、また慈円は『愚管抄』で「この陽成院、九歳にて位につきて八年十六までのあひだ、昔の武烈天皇のごとくなのめならずあさましくおはしましければ」狂気を理由に基経らが協議して退位させた、と舌鋒厳しく非難しています。当然基経の側に立つ藤原氏の間で陽成暴君説は揺るぎなく、定家も陽成院を稀代の悪帝と信じて疑わなかったでしょう。

そんな悪評高い天皇を、定家はなぜ百人のうちに撰んだのか――。いや、こうした問いの立て方は馬鹿げています。善人か悪人かは、歌人の評価に何ら拘わりをもちません。というより、業の深い人こそがしばしば良い歌人なのです。
もっとも、陽成院の歌として伝わるのは百人一首に取られたこの一首のみで、百人一首以前に歌人の名声があった人ではありません。退位後は何度か歌合を催していますが、詠者に名を連ねたのかどうかも不明で、御集の類があったとの伝もありません。
では、定家は《人》でなく《歌》で採ったのでしょうか。この問いは、次節に持ち越さねばなりません。

【なぜこの一首】

後撰集には次のような形で出ています。

つりどのの皇女(みこ)につかはしける   陽成院御製

筑波嶺の峰より落つるみなの川こひぞつもりて淵となりける

光琳カルタ 陽成院 上句
光琳カルタ 陽成院 下句
光琳カルタ 陽成院
「つりどのの皇女」は、光孝天皇の皇女、綏子(すいし)内親王。この恋は実り、のち綏子は陽成院の女御となります。
男女二峰を有し、古来歌垣で名高い筑波山。その峰に湧き出た清水が、やがて幾つもの流れを合せ、ついには麓に深い淵をなす。そうした自然のありさまに心を投影させて、思慕の深さを訴えた歌です。勢いよく流れる上句から、深く静まる下句へと、恋の心はおのずと伝わってくるのではないかと思いますが、解釈上問題点がある歌なので、以下、簡単に私見を述べさせて頂きましょう。

歌のつくりは柿本人麻呂の「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」と基本的に同じです。人麻呂の歌で「しだり尾の」までが「長々し」を導く序のはたらきをしていたように、陽成院の歌では「みなの川」までが「こひ」を導くはたらきをしています。
「みなの川」がなぜ「こひ」の導入部になるかと言うと、「みな」は「(みな)」(泥中に棲むタニシなど小巻貝の類)と同音なので、そこから「泥濘(こひぢ)」と音の重なる「(こひ)」を導くというわけです。現代語訳するなら、「筑波山の頂きから落ちて、麓を流れるみなの川、(みな)が棲むその川の泥水が積もり積もっていつか深い淵になるように、私の鬱屈する恋心も積もり積もって深く淀む淵となってしまった」。もとより「みなの川」を「男女の川」と書くのは、ずっと後世の当て字です。

恋人に思いを伝えるのに、こんな手の込んだつくりの歌を贈る必要があったのか、もっと素直に心を伝えれば良いではないかと、現代の読者なら思うかもしれません。しかし、当時の考え方は違います。三十一字という短い詩の中に、言葉をつくし心をつくすことが、すなわち相手に対する誠意のあかしだったのです。

それにしても暗冥としたムードを漂わせる、深い情念の感じられる歌で、奇怪にして悲劇的な巡り逢わせの天皇であった作者を思う時、そうした印象は更に深まります。この一首において、作者の境涯と詩心が一瞬激しく火花を散らしたかの観があります。喜撰法師や安倍仲麿のように、生涯一首の重みをもつ歌です。《人》で撰んだか《歌》で撰んだかというのは、無意味な問いでした。

ひとつ付け加えるなら、「くばの」「みねよりおる」「みなのがは」「こひぞもりて」と同音・類音を繰り返す響きの良さにも注意されたい。この一首もまた定家の言う「心と詞とを兼ねたらむ」「良き歌」にほかなりません。

ただし、この歌が定家以前に名歌の誉れを得たという形跡はありません。定家にしても、『定家八代抄』『五代簡要』という、勅撰集から多数抜萃した撰集に採っただけで、この歌を少数精鋭の秀歌撰に採ったのは小倉百首が最初だったのです。
しかし定家が以前からこの歌を好んでいたことは、「みなの河みねよりおつる桜花にほひの淵のえやはせかるる」「袖のうへも恋ぞつもりて淵となる人をばみねのよそのたぎつ瀬」と二度にわたって本歌取りしていることから推測されます(影響の見える歌は他にもあります)。
個人的には愛しながらも、やはり悪帝の歌ということで、秀歌の例に引くことに躊躇う気持があったのでしょうか。最晩年に至り、年来心に暖めていた秀逸として、ついに小倉百首で日の目を見た一首だった――そんなふうに私は空想してみるのです。

なお、百人一首カルタなどでは結句を「淵となりぬる」とするのが普通ですが、これは後世の改変であることが明らかで、本来は「淵となりける」でした。調べの上では粘着力のある「ぬる」も捨てがたい気はしますが、『百人秀歌』や定家筆『後撰集』などは「淵となりける」とし、定家の撰んだ歌としては「ける」の方を採らざるを得ないのです。

平安初期の天皇としての光孝天皇との対比や、『百人秀歌』での藤原敏行との合せも興味深いものですが、それぞれ後の章で取り上げたいと思います。

(2010年8月24日加筆訂正)