白氏文集卷十二 長恨歌(一)2010年08月28日

長恨歌(ちやうこんか) 白居易

漢皇重色思傾國  漢皇(かんくわう)色を重んじて傾国(けいこく)を思ふ
御宇多年求不得  御宇(ぎよう)多年求むれども得ず
楊家有女初長成  楊家(やうか)(ぢよ)有り 初めて長成(ちゃうせい)
養在深窗人未識  深窓(しんさう)(やしな)はれて人(いま)()らず
天生麗質難自棄  天生の麗質(れいしつ)(おのづか)()(がた)
一朝選在君王側  一朝(いつてう)選ばれて君王の(かたはら)()
廻眸一笑百媚生  (ひとみ)(めぐ)らして一笑(いつせう)すれば百媚(ひやくび)生じ
六宮粉黛無顏色  六宮(りくきゆう)粉黛(ふんたい)顔色(がんしよく)無し

【通釈】漢の皇帝は猟色が甚だしく、絶世の美女を欲した。
即位してより長年尋ね探したが、見つからない。
楊家に娘があり、ようやく成長したばかり。
邸の奥深く大切に育てられて、世の人はまだ知らない。
天成の美貌は自然と捨て置かれずにはいず、
ある日選ばれて帝の側に仕えることとなった。
瞳をめぐらして一たび微笑めば、艶情限りなく溢れ、
後宮の女たちの化粧顔も見すぼらしいばかり。

【補記】元和元年(806)、長安西郊の地方事務官であった白居易三十五歳の時の長編叙事詩、全百二十句。ここでは便宜上、幾つかの段落に分けた。第一段落は冒頭八句、楊貴妃が後宮に入るまでの序章。「漢皇」とは、唐の玄宗を漢の武帝に仮託しての謂。以下に引用した三首は全て「養在深窓(閨)人未識」の句を主題としたもの。

【影響を受けた和歌の例】
唐櫛笥(からくしげ)あけてし見れば窓深き玉の光を見る人ぞなき(藤原高遠『大弐高遠集』)
玉だれの(すだれ)もすかぬ(ねや)のうちに君ましけりと人にしらすな(源道済『道済集』)
知るらめや(しづ)がかふこの繭ごもり(かしこ)御衣(みぞ)に織りあへむとは(加藤千蔭『うけらが花』)

春寒賜浴華淸池  春寒くして(よく)を賜はる 華清(くわせい)の池
溫泉水滑洗凝脂  温泉(をんせん)(なめ)らかにして 凝脂(ぎようし)を洗ふ
侍兒扶起嬌無力  侍児(じじ)(たす)け起こせども(けう)として力無し
始是新承恩澤時  (まさ)しく()れ新たに恩沢(おんたく)()くる時
雲鬢花顏金歩搖  雲鬢(うんびん) 花顔(くわがん) 金歩揺(きんほえう)
芙蓉帳暖度春宵  芙蓉(ふよう)(とばり)は暖かくして春宵(しゆんせう)(わた)
春宵苦短日高起  春宵(しゆんせう)短きに苦しみ 日高くして()
從此君王不早朝  (これ)より君王早く(まつりごと)せず

【通釈】まだ春寒い日、華清の池で沐浴を賜わった。
なめらかな温泉の湯が、つややかな白い肌をすすぎ清める。
侍童が助け起こすけれど、なまめかしくもぐったりとしている。
まさにこの日が新たに情愛を受けた時であった。
雲なす豊かな鬢の毛、花のかんばせ、歩めば揺れる金のかんざし。
蓮の花を縫い取った帳のうちは暖かで、春の宵は過ぎてゆく。
春の夜の短さが恨めしく、起きるのは日も高くなってから。
この時以後、帝は早朝の(まつりごと)を執らなくなった。

【補記】第九句より第十六句まで。楊貴妃が玄宗皇帝と結ばれ、皇帝の溺愛を受けるようになるまでを叙す。高遠の歌は「春宵苦短日高起」の句題和歌。

【影響を受けた和歌の例】
朝日さす玉のうてなも暮れにけり人と寝る夜のあかぬなごりに(藤原高遠『大弐高遠集』)

承歡侍寢無閑暇  (くわん)()(しん)に侍して閑暇(かんか)無し
春從春遊夜專夜  春は春遊(しゆんゆう)に従ひ ()()(もつぱ)らにす
後宮佳麗三千人  後宮(こうきゆう)佳麗(かれい)三千人(さんぜんにん)
三千寵愛在一身  三千の寵愛(ちようあい)一身に()
金屋粧成嬌侍夜  金屋(きんをく)(よそほ)ひ成つて(けう)として()に侍し
玉樓宴罷醉和春  玉楼(ぎよくろう)(えん)()んで()ひて春に()
姉妹弟兄皆列土  姉妹(しまい)弟兄(ていけい)(くに)(れつ)
可憐光彩生門戸  憐れむ()し 光彩 門戸(もんこ)に生ず
遂令天下父母心  (つひ)に天下の父母(ふぼ)の心を()
不重生男重生女  (だん)を生むことを重んぜず (ぢよ)を生むことを重んぜしむ

【通釈】()は帝の歓びを受け、休みもなく寝所に(はべ)る。
春は春の遊びに従い、夜は一晩じゅう帝を独り占めする。
後宮の美女はあわせて三千人、
三千人分の寵愛がただ一人に集まっていた。
黄金づくりの御殿で化粧を済ますと、あでやかに夜のお勤めをし、
玉楼の宴が終れば、酒に酔って春の夜気に溶け込んでいる。
()の兄弟姉妹はつらねて領地を賜わり、
ああ、一族は光輝くような栄誉に包まれた。
遂には世の二親(ふたおや)をして、
男子より女子を生むことを尊ばしめた。

【補記】第十七句より第二十六句まで。楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛を一身に集め、一族が栄光に包まれるまでを叙す。高遠・道済の歌はいずれも「三千寵愛在一身」の句題和歌。

【影響を受けた和歌の例】
我ひとりと思ふ心も世の中のはかなき身こそうたがはれけれ(藤原高遠『大弐高遠集』)
ももしきの君が朝寝(あさい)の移り香はしみにけらしな妹が狭衣(源道済『道済集』)