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定家絶唱「かきやりしその黒髪の…」2013年07月18日

かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふすほどは面影ぞたつ

かきやりしそのくろかみのすちことにうちふすほとはおもかけそたつ(下2507)

 「独り横になる折には、あの人の面影が鮮やかに立ち現われる。我が手で掻きやったその黒髪が、ひとすじごとにくっきり見えるかのように」との意。

 『拾遺愚草』下巻、「恋歌よみける中に」の詞書で括られた四首の第二首。「黒髪」という当時最も尊ばれた女人の美の精彩を極めたかのような一首である。迫真的な官能性という点では、新古今時代の数多の秀歌にも一頭地を抜いていよう。しかし「かきやりし」「黒髪」「うちふす」という印象的な語は、全て和泉式部の本歌にある語である。

のみだれもしらずばまづ人ぞ恋しき(後拾遺集・恋三・七五五)

 それどころか、一首の要となる「髪のすぢごとに」さえ(遣い方は異なるものの)同じ和泉式部の歌に先蹤のある詞なのである。

かきなでておほししなりはてぬるを見るぞ悲しき(和泉式部集・四九〇)

 仏門に入った子(おそらく帥の宮との間の子)が、剃った髪の切れ端を贈って来たのに対して詠んだ歌で、「髪のすぢごとに」の「ごとに」は「ごとに」「ことに」の掛詞と思われるが、定家はこれを髪の精細な美の表現に転じ、全く新しい生命を吹き込んでいる。

 すなわち定家の作は愛読した女流歌人の「髪」をめぐる二首を一旦ばらばらの素材に分解した上で再構成した(定家の天才はそれを無意識のうちに一瞬で成し遂げたかもしれないが)ものであり、本歌の妖艶に触発されてこその新たな妖艶美の造型であった。

 本歌取りの手法としては、本歌の「かきやりし人(男)」の身になって、女に返したとも読める作りである。本歌を解体・再構築した上で唱和した、特異な本歌取りと言えよう。『新古今集』に採られ、撰者名注記(有家)があるので、建仁三年(1203)以前の作であろう。

 「かきやりし」、掻きやるように撫でた。本歌による。「黒髪のすぢごとに」、黒髪の一すじ一すじごとに。「すぢごとにとは、くはしくこまかにといふ意」(美濃廼家苞)。

 「うちふすほどは」、横になる折は。「うちふす」は「ふす」を強めた言い方で、ふっと横になる、ばったりと臥すなど、唐突さや勢いの強さといった感を伴う遣い方。これも本歌による語。

 『新古今集』に入撰(恋五・一三九〇)。定家自ら『百番自歌合』に採る(恋・一四四)