定家絶唱「駒とめて袖うちはらふ陰もなし…」 ― 2013年04月15日
駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野のわたりの雪の夕暮
こまとめて袖うちはらふかけもなしさのゝわたりの雪のゆふくれ(正治967)
「馬を停めて、雪のかかった袖を打ち払いたいが、身を寄せる物陰もありはしない。渡し場があるはずの佐野のあたり、見わたすかぎり雪の降る夕暮どきよ」の意であろう。
本歌は「苦しくも降り来る雨かみわの崎狭野の渡りに家もあらなくに」(万葉集・巻三・二六五、長奥麻呂)。
主観性を強く出して旅情を歌った本歌を取って、定家はより客観的に、一幅の画のようにしつらえてみせた。本歌の雨を雪に替えたことも本歌取りの技法として賞賛されて来たところである。「本歌の雨を雪にとりかへてよめり。いへのなきところなれば、たちよるべきかげだになきと、雪の夕暮をかなしぶ也」(抄出聞書)。
一首の構想としては、十四年前の『二見浦百首』で詠んだ「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」(135)に近いものがある。「駒とめて袖うちはらふ陰」という印象あざやかな影像を「なし」と打ち消して上句を切り、下句で眼前の景を展開する。「花も紅葉も」ではそのコントラストがあざといまでに鮮烈であったが、掲出歌では上下句の与え合う影響はより微妙である。
上句は「陰もなし」と言って一面の雪野原の景趣を強めるはたらきをするが、もとよりそれだけではない。「佐野のわたりの雪の夕暮」と場所・天候・時間を静的に示す下句に対し、上句は動的でより具象的なイメージを喚起するために、読者の心には、打ち消されたはずの「駒とめて袖うちはらふ」雪中の旅人の像――寂しさの中にも王朝的・貴族的な艶のあるしぐさの影像がかえって強く印象づけられる。この遂げられなかった願望が俤としてかぶさるゆえにこそ、雪降る夕暮時の「佐野のわたり」の景に得も言われぬ優美さや侘しさが添わるのである。
「佐野のわたり」の「わたり」については解釈が分かれる。『万葉集』に詠まれた「狭野」は紀伊国の地名であり、「わたり」を渡し場と解して動かない。『八雲御抄』など中世の歌学書は「佐野のわたり」で一つの歌枕と見なし、大和国に属せしめているが、やはり渡しの名としている。寂身(一一九一~一二五一頃)の「みわの崎ふりくる雨にさきだちて佐野のわたりをいそぐ舟人」(寂身法師集・五四六)ほか、同時代に渡し場の意で用いたと見られる例もいくつかあり、定家の頃、「佐野のわたり」は渡し場として詠まれるのが常識であったらしい。
しかし「わたり」を「辺り」の意と解する説が古くからあった。丸谷才一『新々百人一首』が指摘するように、定家の歌そのものに渡し場の景を想い浮かべるべき積極的な根拠があるわけではない。「葦の屋の昆陽のわたりに日は暮れぬいづちゆくらん駒にまかせて」(後拾遺集・羈旅・五〇七、能因)と同じような遣い方を定家がしなかったとは言い切れまい。本歌取りの際、定家は詞だけ借りて、意味内容を変えてしまうことがしばしばある。
そもそも「渡し場」では限られた一区域を指すことになるが、「あたり」であれば漠然とした場所の広がりを示すことになり、雪に降り囲まれた話者にとって、自分のいる場所が本当に「佐野」という名の土地かどうかも不確かであることになろう。「わたり」の一語には、上に引いた能因の歌と同様、見知らぬ土地で夕暮を迎えた旅人の不安が籠ることになる。
「佐野のわたり」という名が万葉歌への連想、あるいは当時の歌壇の常識によって渡し場の旅愁を呼び起こしたであろうことは否定できまいし、否定する必要もない。定家の一首においては、そうした含みを持たせつつ、「わたり」を「あたり」の意に転じていると読んだ方が自然であるし、余意も豊かで、趣深いのではないだろうか。一種の掛詞風の遣い方と見て、上に「渡し場があるはずの佐野のあたり」と釈した所以である。
「雪の夕暮」は雪が降る夕暮。治承三年(一一七九)の『右大臣家歌合』(主催は九条兼実)で寂蓮が「ふりそむる今朝だに人の待たれつる深山の里の雪の夕暮」と詠んだ先例がある(新古今集に入集)。但し藤原為家の『詠歌一体』に「雪の夕暮」を「ぬしぬしある事なればよむべからず」として制の詞としたのは、定家の歌あってのことである。
因みに安東次男『藤原定家』(昭五二)は『源氏物語』東屋巻に源氏が「佐野のわたりに家もあらなくに」と口ずさむ場面(補注)に定家の発想を探っている。
『新古今集』に撰入(冬・六七一)。定家自ら『八代抄』(冬・五六四)と『百番自歌合』(冬・九三)に採り、他に『自讃歌』『続歌仙落書』『秋風抄』などに見える。
(2013年4月26日、28日、5月19日加筆)
コメント
_ (未記入) ― 2013年04月17日 13時32分
_ 水垣 ― 2013年04月18日 22時16分
(1)詞を取り過ぎない。二句を越えて三、四字までは許容できる。
(2)同じ事柄において古歌の語句を用いない。
(3)名句でも「年の内に春はきにけり」「月やあらぬ春やむかしの」といった独創的な秀句は採らない。
(4)近い時代の歌からは取らない。
細かい点はまだあるのですが、大体こうした制限から、本歌取りと「パクリ」との線引きをしていたのでしょう。
本歌取りがなぜ和歌の技法として大きな位置を占めたのかは、非常に複雑で大きな問題で、私の手には負えません。ただ面白いのは武士の時代になって初めて「確立・受容」されたことですね。
_ 水垣 ― 2013年04月26日 20時32分
_ Matsuda Hiroshi ― 2014年06月12日 02時17分
わたり は渡し場でもいいと考えます。イメージとしては、桟橋や舟が雪に覆われたおぼろげなオブジェと見るためです。
私は中学で国語を教えている者なのですが、仕事がら作品についての研究や検証をする時間がありませんので、思いついたことを述べさせて頂きます。
駒とめて の歌は本歌取りの歌ですが、「くるしくも‥」の歌にみられる「不安」はみじんも感じさせないどころか「これでいいのだ」と言わんばかにうたいあげています。まず、疑問点をあげると、「雪が降る中、夕暮れを迎え、人っ子一人いない殺風景な場所にいて夜も迫る時に、赤く照らす夕陽も月明かりも望めぬ状況下で情緒をうたえるか」というものです。この解決方として成り立つのは、本歌取りの歌でもあるし、「定家はそこにはいなかった」という解釈です。では、定家は何を表現しようとしたのかとなります。私の思いつきは「『空想の絵画』を文字で表す歌にしたもの」とでも言えば良いのでしょうか。時代の第一人者である定家が、他の歌人とは一線を画する才気を見せつけたように感じました。さて、では絵画であるとすると、その価値をどこに見出すのかとなります。画用紙に空を描こうとした際、青い絵の具で全面を塗りつぶしたなら、殺風景さは表現できたとしても、それを「空」と見てもらうには無理があります。「空」をひきたてるべつのものが不可欠です。例えば太陽なり雲なり飛ぶ鳥などがそれに該当します。言いかえれば、鑑賞する側の目の置き所(ポイント)を設定することが必要となるのだと思います。「駒とめて‥」の歌で言うならば、それは「忘れ去られたかのように佇む雪をかぶった渡し場」ではないかと思います。雪の木立でもいいようですが、ポイントが拡散してしまうのかなという感じがします。何とか船着き場と見て取れる寂しげな形に情緒(わびさび)を投影したのではと思った次第です。
もうひとつ気になる点があります。それは、「見渡せば‥」の歌にも同じことが見える点です。絵画としての鑑賞者の目の拠りどころを「苫屋」としたのではないかということです。咲く花も無く色づく紅葉もない殺風景な景色の中に枯山水のような美をもとめるとしたら、手法としては絵画ではないのかなと思いました。もしかしたら「見渡せば‥」の歌も空想の産物だったのではと疑念は深まるばかりです。
新古今は幽玄とか観念的とか絵画的とか言われますが、その絵画性が前衛的な空想絵画にあったとしても、定家ならばやってのける素養と威厳をもっていたことでしょう。たとえ掟破りの試みでも、それが許される立場にあったのは定家だけだったのかもしれません。
以上思いつくまま書いてみました。文章がおぼつかない点お許しください。
_ 水垣 ― 2014年06月13日 08時14分
私も「渡し場でもいい」と思っています。掛詞と解する方が、私には趣深く感じられるのですが、「桟橋や舟が雪に覆われたおぼろげなオブジェ」というのも魅力的な読み方ですね。
「不安」というのは、余情としてかすかに私は感じ取りましたが、歌自体にそうしたものは影もありませんね。余意をどれだけ読むかというのは、読者次第だと思います。
定家のめざしたのが「『空想の絵画』を文字で表す歌にしたもの」という御意見には私も賛成です。
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また、定家の時代に本歌取りが和歌の技巧の一つとして確立・受容されたという話をききますが、本歌取りが確立・受容されるようになったのはどういうきっかけだったのでしょうか。