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三条西実隆 四2013年03月01日

夕暮の秋の野原 神奈川県鎌倉市

夕薄

かげふかき野べのちぐさに白妙の尾花ひとりや暮れ残るらん(雪玉集1018)

「山陰の影が深い野辺に咲く様々な草は、だんだん夕暮に包まれてゆく――その中で、尾花の穂ばかりはなおほの白く見える――これだけはもうしばらく闇に没さずに残っているだろうか」の意。

 秋の七草と言えば、萩の花、尾花、葛花、撫子の花、女郎花、また藤袴、朝顔(桔梗)の花。このうち白いのは尾花すなわち薄の花穂だけである。

月前風

荻の葉にほのめきそめし夕べより月におもはぬ秋風もなし(雪玉集1201)

「風に吹かれる荻の葉に、月光が初めてほのかに射した――その景を見た夕べからというもの、月が出るたびに秋風を思わぬことはない」という意であろう。

 月下の風を詠む。荻の葉が風にさやぐ音は、秋の訪れを告げるものとされた。その葉にほのかに射す初月の光を見て以来、話手の心の中では月と秋風とが切っても切れないものとなったと言うのであろう。さやかな月影と、さやめく秋風。視覚と聴覚との融合した情趣に、思いがけない秋の新しい美が探られている。

深山見月

さをしかのしづかにわたる木の葉まで音さやかにもすめる月かな(雪玉集1222)

「牡鹿が静かに落葉の上をわたってゆく――その葉音までもさやさやと冴えて聞こえるほど、澄み切った今宵の月であるよ」という意。

 月の冴えた光によって、音までも澄み切って感じられるという、これも一種の共感覚的表現と言えるのだろう。

月前聞雁

はらひあへぬ雲こそまよへ鳴きおつる雁の羽風は月におよばで(雪玉集1326)

「払いきれない雲が迷い飛ぶ。啼きながら落ちてくる雁の羽は鋭い風を起こすが、それも月に及ぶことはなくて…」ほどの意であろう。

 月を隠す雲を雁の羽風が払おうとして払えず、雲は乱れ飛んで月光を激しく隠顕させている。月下に雁の声を聞くという題から飛躍して、実隆は雲と月と雁の三者が織り成す超現実的な動画を創ってしまった。

千人万首 三条西実隆 五2013年03月03日

カエデの紅葉 神奈川県鎌倉市

行路紅葉

かへるさのあすや手折らん今日はまだゆくてにうすき秋の紅葉ば(雪玉集1462)

「明日の帰り道に手折ろうか。行きがけの今日は、まだ薄い秋の紅葉よ」との意。

 「かへるさ」と「ゆくて」は対語になり、帰りがけと行きがけの意であるが、「ゆくてにうすき」という語の配置の仕方によって、それだけでは割り切れないニュアンスを帯びる。「ゆくて」は前途・将来の意も兼ねるので、話手が眼前にしている山路の紅葉のイメージを招き寄せ、これから色を濃くしてゆくだろう期待を抱かせて、「あすや手折らん」との意志を励ますのである。上の括弧内の通釈は、歌のほんの表面をなぞったに過ぎないわけである。

 文明十三年(一四八一)の作。

暮秋鳥

山さびし木の葉小鳥のこゑごゑに時雨れてわたる秋の暮れがた(雪玉集1477)

 順序が逆になっている歌である。すなわち、秋の暮れようとする夕暮、時雨が山を渡ってゆくと、雨に打たれて枯葉が音を立て、小鳥が騷がしく鳴いて飛ぶ。そんな情景に山の寂しさを感じると言うのである。

 「山さびし」と初句でいきなり断言しておいて、木の葉のさやぎ、鳥の声、時雨の音を出す。しかし、この忙がわしさにこそ、山に冬の迫るけはいは満ちていよう。結句「秋の暮れがた」から再び「山さびし」に戻って、このあらわな初句に初めて読者は得心するだろう。構成の巧妙さが味わいを生んでいる例である。

(追記:「このはことりのこゑごゑに」の「こ」音の繰返しが枯渇した音の感じを出して効果的だ)

初冬

すむ世だにさびしかりしを古郷の草木よいかに冬はきにけり(雪玉集1536)

「すむ世」と「古郷」が対比されるので、前者は賑やかな都邑を指すのであろう。「草木よいかに」で切れ、このあとに「さびしかるらん」などが略されていると読める。すなわち一首の意は、

「冬がやって来た。人の住む世でさえ寂しかったのに、人の稀な古里の草木はいかに寂しいことだろう」

 取りあえずこう釈してみたものの、単に寂れた里の草木を思い遣った歌と読んですますわけにはゆかない。読み味わうほどに、その草木を寂しく眺める、古郷の女人の面影が浮かんでくるように歌は作られているのだ。「すむ世」には《男がしばしば通う、仲の良い関係》の意を、草木の枯れた冬の「古郷」には《男の訪れがれた、冷え切った関係》を想うのが、連綿と引き継がれた和歌の伝統的な読み方だからである。

 文亀二年(一五〇二)四月、月次歌会での作。

百首 延徳年冬独吟 定家卿文治二年仙洞初夏百首題 冬十五首より

墨染の夕べの雲に風たちて入相の鐘ぞうちしぐれゆく(雪玉集3811)

「墨染色の夕べの雲に風が起こり、吹き寄せて来る。時あたかも山寺の入相の鐘が打ち鳴らされ、しぐれの雨とともにこの里を響き過ぎてゆく」の意。

 延徳年間(一四八九~一四九二)の冬、「内舎人海内清」の名で独吟した百首歌。細記に「文治二年」とあるのは誤りで、正治二年(一二〇〇)の後鳥羽院初度百首の構成に倣ったものである。その冬十五首中の第二首。

「うちしぐれゆく」の「うち」は強勢の接頭辞であるが、前句との繋がりから「鐘ぞ打ち」の意を兼ねる。この掛詞が、鐘の音と時雨の音を混融させる効果を上げている。「墨染」と「鐘」の響き合いも冬の季の凄みを感じさせるものである。

千人万首 三条西実隆 六2013年03月09日

窓落葉

はらはぬも心づからのもみぢ葉に知れかし窓のふかき思ひを(雪玉集1574)

「窓に積もった紅葉を払わずにいるのも、私の心からである。そのことに、奧の室内深く、ひどく鬱いで過ごす私の思いを知っておくれよ」という意であろう。

 永正元年(一五〇四)閏三月、御月次会での作。「窓のふかき思ひ」と言うと深窓の佳人の艶情の如くでもあるが、当時の実隆の心境からして、上のように解してみた。世相の混乱と不安をよそに、『延喜式』などの書写に励んでいた頃である。

内裏御屏風色紙御歌

おのづからおつる枯葉の下よりはさびしくもあらぬ木がらしの庭(雪玉集8129)

「ひとりでに落ちる枯葉の下にいるよりは、いっそ寂しく感じないですむ、木枯し吹く庭よ」という意。

 烈風が枯葉も感傷も吹き飛ばしてくれると言うのであろう。字余りの第四句「さびしくもあらぬ」が得も言われぬ味わいを出している。内裏の御屏風色紙のために詠進した歌。

湖水鳥

ささらなみ夢のまなくも水鳥のにほのうき寝やわびて啼くらん(雪玉集1658)

「鳰のうみのさざ波に揺られ、夢を見る暇もなく、水鳥のかいつぶりは浮き寝を辛がって啼くのだろうか」の意。

 本歌は「かきくもり雨ふる河のささら波まなくも人の恋ひらるるかな」(拾遺集・恋五・九五六、人麿)。恋から季(冬)へ転じた。水鳥の辛い浮き寝が主題であるが、初句から第四句までの波に揺られるような、たゆたう調べが美しい。

「ささらなみ」は細波さざなみ。「夢のまなくも」は夢見る暇も無く。「鳰」はかいつぶり。また琵琶湖の古称「鳰の湖」を匂わせる語。「うき寝」は「浮き寝」「憂き寝」の掛詞。

 大永三年(一五二三)十一月廿五日の日付がある作。

ささのやの真屋にしられて夜の夢さめぬうちよりきく霰かな(雪玉集1668)

「笹葺きの切妻屋根に響く音にそれと知られて、夜の夢が醒めぬうちから霰を聞くことよ」との意。

 屋根に弾ける霰の音が、夢うつつのうちから聞こえていた。物寂しい寒夜の寝覚めが思い遣られる。

「ささのや」は笹葺きの屋。「真屋」は棟の前後二方へ葺き下ろしにした家、またその屋根。切妻屋根。

千人万首 三条西実隆 七2013年03月11日

雪中眺望

つもりしもただつくよめの嶺の雪日影にむかふ空のさやけさ(雪玉集1739)

「夜の間に峰に積もった雪も、ただ月影と見えるばかり。朝日に向き合う空のさやけさよ」の意。

 雪がやんだ明け方、西の峰には月影と見まがう薄雪が積もっている。山の端の空に目を転ずれば、昇る朝日を受け、雪の光を反映してさやかに輝いている。月影のような雪明かりから、さやかな朝日へと向かってゆく、雪の朝の光のうつろいを繊細に捉えている。

「月よめ」は「月読つくよみ」の転訛で、ここは単に月のこと。

 永正十四年(一五一七)十二月廿五日の月次御会。

江天暮雪

いつも見る入江の松のむらだちもただ夕波のうすゆきの空(雪玉集1741)

「いつも見る入江のほとりの松の群立ちも、薄雪が降りしきる空の下では、ただ夕暮時の波のようにほのかに確かめられるばかりであるよ」という意であろう。

 雪が降り隠す入江の夕景。浜辺に打ち寄せる波も見えないが、樹高に高低差があって波打つような松並木ばかりが、代わりに空の夕波のようにほの見えると言うのである。冬も青葉をつけた松なればこその景色であろう。

炭竈煙

とほくみて帰るささびし夕煙ゆふけぶりわがすみがまを里のしるべに(雪玉集1750)

「私の住む山里の炭竈が、ほそい夕煙を立ち上らせている。それを庵までのしるべとして遠く眺めながら帰る道は寂しい」の意。

 自ら炭を焼き、山里の冬を越す世捨て人。「わがすみがま」は「我が住み」「炭竈」と掛けて言うか。永正三年(一五〇六)十二月、御月次会での作。

(2014年6月6日、書き直しました)