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千人万首 三条西実隆 五2013年03月03日

カエデの紅葉 神奈川県鎌倉市

行路紅葉

かへるさのあすや手折らん今日はまだゆくてにうすき秋の紅葉ば(雪玉集1462)

「明日の帰り道に手折ろうか。行きがけの今日は、まだ薄い秋の紅葉よ」との意。

 「かへるさ」と「ゆくて」は対語になり、帰りがけと行きがけの意であるが、「ゆくてにうすき」という語の配置の仕方によって、それだけでは割り切れないニュアンスを帯びる。「ゆくて」は前途・将来の意も兼ねるので、話手が眼前にしている山路の紅葉のイメージを招き寄せ、これから色を濃くしてゆくだろう期待を抱かせて、「あすや手折らん」との意志を励ますのである。上の括弧内の通釈は、歌のほんの表面をなぞったに過ぎないわけである。

 文明十三年(一四八一)の作。

暮秋鳥

山さびし木の葉小鳥のこゑごゑに時雨れてわたる秋の暮れがた(雪玉集1477)

 順序が逆になっている歌である。すなわち、秋の暮れようとする夕暮、時雨が山を渡ってゆくと、雨に打たれて枯葉が音を立て、小鳥が騷がしく鳴いて飛ぶ。そんな情景に山の寂しさを感じると言うのである。

 「山さびし」と初句でいきなり断言しておいて、木の葉のさやぎ、鳥の声、時雨の音を出す。しかし、この忙がわしさにこそ、山に冬の迫るけはいは満ちていよう。結句「秋の暮れがた」から再び「山さびし」に戻って、このあらわな初句に初めて読者は得心するだろう。構成の巧妙さが味わいを生んでいる例である。

(追記:「このはことりのこゑごゑに」の「こ」音の繰返しが枯渇した音の感じを出して効果的だ)

初冬

すむ世だにさびしかりしを古郷の草木よいかに冬はきにけり(雪玉集1536)

「すむ世」と「古郷」が対比されるので、前者は賑やかな都邑を指すのであろう。「草木よいかに」で切れ、このあとに「さびしかるらん」などが略されていると読める。すなわち一首の意は、

「冬がやって来た。人の住む世でさえ寂しかったのに、人の稀な古里の草木はいかに寂しいことだろう」

 取りあえずこう釈してみたものの、単に寂れた里の草木を思い遣った歌と読んですますわけにはゆかない。読み味わうほどに、その草木を寂しく眺める、古郷の女人の面影が浮かんでくるように歌は作られているのだ。「すむ世」には《男がしばしば通う、仲の良い関係》の意を、草木の枯れた冬の「古郷」には《男の訪れがれた、冷え切った関係》を想うのが、連綿と引き継がれた和歌の伝統的な読み方だからである。

 文亀二年(一五〇二)四月、月次歌会での作。

百首 延徳年冬独吟 定家卿文治二年仙洞初夏百首題 冬十五首より

墨染の夕べの雲に風たちて入相の鐘ぞうちしぐれゆく(雪玉集3811)

「墨染色の夕べの雲に風が起こり、吹き寄せて来る。時あたかも山寺の入相の鐘が打ち鳴らされ、しぐれの雨とともにこの里を響き過ぎてゆく」の意。

 延徳年間(一四八九~一四九二)の冬、「内舎人海内清」の名で独吟した百首歌。細記に「文治二年」とあるのは誤りで、正治二年(一二〇〇)の後鳥羽院初度百首の構成に倣ったものである。その冬十五首中の第二首。

「うちしぐれゆく」の「うち」は強勢の接頭辞であるが、前句との繋がりから「鐘ぞ打ち」の意を兼ねる。この掛詞が、鐘の音と時雨の音を混融させる効果を上げている。「墨染」と「鐘」の響き合いも冬の季の凄みを感じさせるものである。