「やまとうたeブックス」のサイトを開設しました ― 2013年04月04日
さて電子書籍の新刊準備がほぼ整いましたので、お知らせのための「やまとうたeブックス」のサイトを開設しました。
このブログで連載していた注釈を全面的に書き直し、釈文(読みもの)形式に改めたものです。
以下はkindle paperwhiteのキャプチャ画像です(クリックすると大きくなります)。
発売時、こちらとサイトで改めてお知らせ申し上げます。
『拾遺愚草全釈一』ほかを出版しました ― 2013年04月10日
『拾遺愚草全釈一(上巻の上)』『二見浦百首全釈』『花月百首全釈』の三冊がアマゾンにて発売されました。
『二見浦百首全釈』と『花月百首全釈』は、同じ内容が『拾遺愚草全釈一』に含まれていますので、重複してお買い求めになりませんようご注意下さい。
上巻の上、上巻の下、中巻、下巻、員外と分けた五巻本と、百首歌等のより小さい単位で分けた全34冊(予定)のシリーズと、ふたつの異なる版にて販売してゆく所存です。
内容はほぼ同じですが、34冊シリーズは写真画像が多いなどの違いがあります。
五巻本の続刊は多分三カ月に一冊くらいのペースで、34冊シリーズは毎月二冊くらいのペースでの発行を考えております。
せっかく電子書籍なのだから全巻一冊に収めようと当初は思っていたのですが、紙の本にして計5000ページを超えるような分量になると、制作上の支障もあり(ファイル数が膨大になり管理が非常に複雑になってしまう、など)、結局五巻に分けることにしました。すなわち各巻1000ページ前後です。
34冊シリーズは、少しだけ読んでみようという方や、関心のある部分だけ読みたいという方のために、より安価に提供したいとの思いから作りました。用途に応じて選んで頂ければ幸いです。
事前に読んでもらって意見を求めた友人からは、「秀歌だけ選んで本にした方が良いのではないか」と言われました。しかし、構成や配列に心を尽した王朝和歌は、抜粋という形では十分に味わえない場合が多いのです。例えば、百首歌の春部の末尾、行く春を惜しむ歌を鑑賞する場合、朝霞に春を迎え、鶯の初音を待ち、闇夜に梅の香を求め、桜の花を見送りといった歌々を経て、初めてしみじみと心に迫ってくるでしょう。
時に挿まれる地歌(平凡な歌)や、軽い歌、あるいは失敗作なども含め、隈なく鑑賞することで初めて作者の志すところが見えてくるということもあります。
ですから定家の家集『拾遺愚草』の全注釈書が未だに存在しないことを非常に残念に思っていました。少なくとも史上初であるということには価値を主張できる本だと信じています。
やまとうたeブックスからもご購入頂けます。
当ブログの拾遺愚草全釈の記事は削除しました ― 2013年04月12日
定家の歌詞の検索からこちらへ辿り着かれる方もおられたようなので、できれば当ブログの『拾遺愚草全釈』の記事は残しておきたかったのですが、アマゾンからは同一コンテンツの無償配布であると警告されて、全て削除することにしました。
電子書籍用に改稿した時に見つけた誤りが少なくなかったので、やはり残さなくて良かったのかもしれません。
ただ、せっかく頂いたコメントも表示されなくなってしまいました。投稿下さった方には申し分けありません。
電子書籍の贈本について ― 2013年04月13日
電子書籍が出来上がって、さて悩んだのは友人知人への贈本だ。
電子ブックリーダーやモバイル端末の普及はまだまだで、本を贈りたい相手がそれを読むためのツールを持っていない可能性は高い。
読書端末を持たない相手に電子書籍を贈呈したところで、コーヒー・ミルを持たない人に挽いていないコーヒー豆を贈るようなものだ。
epubファイルはパソコンでも読めるとは言え、そのためのソフトをダウンロードしなければならないし、パソコンのモニタでは電子ブックリーダーのような快適な読書は不可能だ。
電子書籍を人にプレゼントすること自体は簡単である。ファイルをメールに添付して送信すればよいのだ。しかし、これだと相手に対して、読書端末に転送するなどの手間を強いることになる。ごく親しい友人ならともかく、敬うべき知人には却って失礼に当たるだろう。
そう考えれば、読書端末を持っていると知っている人に対しても、電子書籍の贈呈は躊躇われるところなのだ。
そこで気づいたのは、アマゾンに電子書籍のギフト機能はないのかということなのだが、調べてみたらあった(Amazon、Kindle Storeで電子書籍をギフトにできる機能)。
電子書籍のギフトを贈るには、購入ページの右横にある「Give as a Gift(贈り物にする)」ボタンを押し、相手の電子メールアドレスなどを入力すると、その相手にメールが届く。相手には書籍の表紙画像とともに、「○○さんからギフトが届いています」というメールが届く。メールにある「Get your Kindle book gift now(今すぐKindle書籍を入手)」というボタンを押し、Kindle Storeにアクセスすると、自分の端末にダウンロードできる。
贈られた本が欲しくない人は、そのギフトをAmazonギフト券に交換できるのだという(https://kdp.amazon.co.jp/self-publishing/help?topicId=A2SPN65RHEW2G)。これなら、たとえ相手が読書端末を持っていないとしても、プレゼント自体が無駄になることはない。結構ではないか。
しかしこれはアメリカでの話である。日本は現在のところ未対応だ。
というわけで、Amazon.co.jpがギフト機能に対応するまで、ごく親しい友人を除き、贈本は諦めざるを得ないようだというのが、現時点での結論である。
定家絶唱「駒とめて袖うちはらふ陰もなし…」 ― 2013年04月15日
駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野のわたりの雪の夕暮
こまとめて袖うちはらふかけもなしさのゝわたりの雪のゆふくれ(正治967)
「馬を停めて、雪のかかった袖を打ち払いたいが、身を寄せる物陰もありはしない。渡し場があるはずの佐野のあたり、見わたすかぎり雪の降る夕暮どきよ」の意であろう。
本歌は「苦しくも降り来る雨かみわの崎狭野の渡りに家もあらなくに」(万葉集・巻三・二六五、長奥麻呂)。
主観性を強く出して旅情を歌った本歌を取って、定家はより客観的に、一幅の画のようにしつらえてみせた。本歌の雨を雪に替えたことも本歌取りの技法として賞賛されて来たところである。「本歌の雨を雪にとりかへてよめり。いへのなきところなれば、たちよるべきかげだになきと、雪の夕暮をかなしぶ也」(抄出聞書)。
一首の構想としては、十四年前の『二見浦百首』で詠んだ「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」(135)に近いものがある。「駒とめて袖うちはらふ陰」という印象あざやかな影像を「なし」と打ち消して上句を切り、下句で眼前の景を展開する。「花も紅葉も」ではそのコントラストがあざといまでに鮮烈であったが、掲出歌では上下句の与え合う影響はより微妙である。
上句は「陰もなし」と言って一面の雪野原の景趣を強めるはたらきをするが、もとよりそれだけではない。「佐野のわたりの雪の夕暮」と場所・天候・時間を静的に示す下句に対し、上句は動的でより具象的なイメージを喚起するために、読者の心には、打ち消されたはずの「駒とめて袖うちはらふ」雪中の旅人の像――寂しさの中にも王朝的・貴族的な艶のあるしぐさの影像がかえって強く印象づけられる。この遂げられなかった願望が俤としてかぶさるゆえにこそ、雪降る夕暮時の「佐野のわたり」の景に得も言われぬ優美さや侘しさが添わるのである。
「佐野のわたり」の「わたり」については解釈が分かれる。『万葉集』に詠まれた「狭野」は紀伊国の地名であり、「わたり」を渡し場と解して動かない。『八雲御抄』など中世の歌学書は「佐野のわたり」で一つの歌枕と見なし、大和国に属せしめているが、やはり渡しの名としている。寂身(一一九一~一二五一頃)の「みわの崎ふりくる雨にさきだちて佐野のわたりをいそぐ舟人」(寂身法師集・五四六)ほか、同時代に渡し場の意で用いたと見られる例もいくつかあり、定家の頃、「佐野のわたり」は渡し場として詠まれるのが常識であったらしい。
しかし「わたり」を「辺り」の意と解する説が古くからあった。丸谷才一『新々百人一首』が指摘するように、定家の歌そのものに渡し場の景を想い浮かべるべき積極的な根拠があるわけではない。「葦の屋の昆陽のわたりに日は暮れぬいづちゆくらん駒にまかせて」(後拾遺集・羈旅・五〇七、能因)と同じような遣い方を定家がしなかったとは言い切れまい。本歌取りの際、定家は詞だけ借りて、意味内容を変えてしまうことがしばしばある。
そもそも「渡し場」では限られた一区域を指すことになるが、「あたり」であれば漠然とした場所の広がりを示すことになり、雪に降り囲まれた話者にとって、自分のいる場所が本当に「佐野」という名の土地かどうかも不確かであることになろう。「わたり」の一語には、上に引いた能因の歌と同様、見知らぬ土地で夕暮を迎えた旅人の不安が籠ることになる。
「佐野のわたり」という名が万葉歌への連想、あるいは当時の歌壇の常識によって渡し場の旅愁を呼び起こしたであろうことは否定できまいし、否定する必要もない。定家の一首においては、そうした含みを持たせつつ、「わたり」を「あたり」の意に転じていると読んだ方が自然であるし、余意も豊かで、趣深いのではないだろうか。一種の掛詞風の遣い方と見て、上に「渡し場があるはずの佐野のあたり」と釈した所以である。
「雪の夕暮」は雪が降る夕暮。治承三年(一一七九)の『右大臣家歌合』(主催は九条兼実)で寂蓮が「ふりそむる今朝だに人の待たれつる深山の里の雪の夕暮」と詠んだ先例がある(新古今集に入集)。但し藤原為家の『詠歌一体』に「雪の夕暮」を「ぬしぬしある事なればよむべからず」として制の詞としたのは、定家の歌あってのことである。
因みに安東次男『藤原定家』(昭五二)は『源氏物語』東屋巻に源氏が「佐野のわたりに家もあらなくに」と口ずさむ場面(補注)に定家の発想を探っている。
『新古今集』に撰入(冬・六七一)。定家自ら『八代抄』(冬・五六四)と『百番自歌合』(冬・九三)に採り、他に『自讃歌』『続歌仙落書』『秋風抄』などに見える。
(2013年4月26日、28日、5月19日加筆)
新校拾遺愚草EPUB版 再ダウンロードのお願い ― 2013年04月20日
DLMARKETでのEPUB版の拾遺愚草もお蔭様で好評を頂き、カテゴリー別月間DL数で今日現在5位にランクインしております。
ところが今日ファイルを再チェックしましたところ、不要なリンクの貼ってある箇所が一つ見つかりました。読書の上でさしたる支障とはならないかとは存じますが、修正ファイルをアップロードしましたので、以前ご購入下さった方は、ぜひ再ダウンロードをお願いいたします。
お手数をおかけして申し分けありません。







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