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百人一首 なぜこの人・なぜこの一首:第2番持統天皇2010年01月15日

持統天皇

春すぎて夏きにけらし白妙の衣ほすてふあまのかぐ山

【なぜこの人】
『百人秀歌』という、百人一首とまるで双子のように良く似た書があります。百人一首と九十八人の歌人が一致し、九十七首の歌が一致します(源俊頼だけは別の歌が選ばれているので、一致歌がひとつ少ないのです)。冷泉亭時雨叢書に鎌倉末期~室町時代頃の書写と推定される古写本があり、内題に「百人秀歌 嵯峨山荘色紙形 京極黄門撰」とあって、藤原定家の撰であることが確実視されています。
最初の十人だけ表にして両書を比べてみましょう。

   百人一首    百人秀歌  
1番 天智天皇    左に同じ  
2番 持統天皇      〃   
3番 柿本人麿      〃   
4番 山辺赤人      〃   
5番 猿丸大夫    中納言家持 
6番 中納言家持   安倍仲麿  
7番 安倍仲麿    参議篁   
8番 喜撰法師    猿丸大夫  
9番 小野小町    中納言行平 
10番 蝉丸      在原業平朝臣

このように、最初の四人までは全く同じで、その後は配列が大きく異なります。
なぜこんな違いが出来たのかというと、百人一首が時代順を優先したのに対し、『百人秀歌』は二首一対の歌合形式に比重を置いたためと見られています。『百人秀歌』の五番・六番は大伴家持・安部仲麿という奈良時代の廷臣のペア、九番・十番は在原行平・在原業平という兄弟のペア。ほかにも、六歌仙の小町と喜撰法師を合せたり、平安末期の二大歌人俊成・西行を(つい)にしたりと、『百人秀歌』では二首一対の組合せに工夫が凝らされていることが窺えるのです(安東次男著『百首通見』は、歌の内容面からも(つい)の意図を探っています)。

両書のどちらが先に編まれたのかは、難しい問題です。藤原家隆の官位が百人一首では従二位、『百人秀歌』では正三位となっている点、百人一首には定家死後編まれた『続後撰和歌集』から二首(後鳥羽院・順徳院)採られている点などから、少なくとも、現在私たちの目に触れるような形に整えられたのは『百人秀歌』の方が先だったとは言えましょう。いずれにしても、さほど時を隔てずして、二つの百人一首が編まれたことは事実です。

持統天皇の選出理由を考えるのに、なぜ『百人秀歌』の話から始めたかというと、定家の撰歌意識にはもともと二首一対の発想があったことを確認したかったからです。古今集以前に開催された『寛平御時后宮歌合』以来、秀歌撰は多く歌合形式を取りました。定家の時代にも、後鳥羽院が『時代不同歌合』という歌合形式の秀歌撰を編み、定家自身、自撰の秀歌撰は百番の自歌合という形を取っています(『定家卿百番自歌合』)。本格的な秀歌撰は歌合形式にするという伝統があったのです。

さてそこで、巻頭が天智天皇と定まれば、誰のどの歌と組み合せるか。定家がそう考えたとして、天智天皇の皇女である持統天皇の名歌に思い至るのはごく自然な成り行きだったでしょう。このペアは父娘の合せというばかりでなく、男女の天皇の合せともなり、また秋に対する夏、暗に対する明――絶妙なまでに好対照をなしています。江戸時代の百人一首ネタ川柳「濡れた御衣(みそ)隣の山で干したまふ」は、両首のちょっと出来過ぎな組合せの一面を突いたものと言えましょう。

【なぜこの一首】
先に「持統天皇の名歌」と書きましたが、この歌が平安時代に評価された形跡はほとんどありません。天の香具山が詠まれているため歌枕の書に引用されたりはしていますが、秀歌撰では鎌倉時代に入り藤原俊成の『古来風躰抄』に採られたのが最初のようです。その後『新古今集』の夏部巻頭を飾り、名歌の誉れを不動のものとしました。
定家は新古今撰者としてこの歌を推薦しており、『定家八代抄』『秀歌大躰』『詠歌大概』といった自身の秀歌撰にも採って、非常に高く評価していました。

なお、万葉集の原歌は「春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山」で、訓み方は現在「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」に定まっています。新古今集・百人一首では「夏来たるらし」が「夏来にけらし」に、「衣ほしたり」が「衣ほすてふ」になっているとして問題視されて来ました。ところが定家と同時代の元暦元年(1184)に成った元暦校本万葉集を見てみると、当該歌には「はるすぎて なつぞきぬらし しろたへの ころもかはかる あまのかごやま」の訓をあてていますし、建久八年(1197)の『古来風躰抄』では「春過ぎて夏ぞ来ぬらし白たへの衣かはかす天の香具山」の形で出ています。定家の時代、この歌の訓み方はまだ揺れていたのです。吉海直人氏が指摘するとおり(『百人一首の新研究』)、現在の定訓は江戸時代になって初めて考案されたものですから、それと引き比べて百人一首の持統天皇の歌を万葉集からの改悪と非難するのは的外れです。

と言うより、「夏来にけらし」「衣ほすてふ」と婉曲・優雅に王朝化されて初めて、この歌は新古今時代に受け入れられ、名歌の地位を得たと言うべきでしょう。「衣ほすてふ」と歌った時、天の香具山という遠つ世の伝説の聖山を眺める女帝のまなざしに、平安京に生きた当時の人々のまなざしが重ね合されたのです。言わば古歌が高次(メタ)化されているわけで、定家による高い評価の理由もそこにあったのではないでしょうか。

(2011年5月17日加筆)