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藤川百首の古写本を発見2014年09月27日

藤川百首写本

一時買い集めていた新古今時代の歌集・歌書の写本を整理していたら、藤川百首を収めた本を見つけた。外題には「順徳院御百首」とのみある。定家の評語が付いているのに惹かれて数年前ヤフオクで落札したものだが、よく見もせず本棚に積んだままにしてあったのだ。先日取り出してみると、順徳院の御百首の後に慈円の百首歌があって、その次に藤川百首が収められていた。表題「難題詠百首和哥」の下に「定家 為家 為定」と作者名を記してある通り、藤川百首題を詠んだ三人の作を順に並べてある。四字題の下には安嘉門院四条(阿仏尼)の歌が小字で添えられている。

『藤川五百首鈔』とは異なり、加注と実隆詠はない。『群書解題』の藤川百首の項を見てみると、「商山集」なる本がこの四人の百首詠を収めているようだ。何か関係があるのかも知れない。

順徳院御百首のあとに識語があり「明応八己未年三月廿三日 運賢」と記している。戦国の世だ。運賢なる人物は、ちょっと調べてみたが判らない。

ざっと目を通してみただけだけれど、私家集大成や新編国歌大観が底本としている御所本六家集本に近い本文のようで、板本とは異同が多い。

先日出版した『拾遺愚草全釈五』では、藤川百首の本文は板本と続群書類従・私家集大成に頼るしかなかったのだが、まさか自分の本棚にこんな古い写本があったとは…。

新たに校訂して、直すべき箇所があれば改訂版を発行します。
そのうち翻刻してウェブサイトに載せてみたいとも思います。何かお気づきのことがありましたら、ぜひメールにて御教示下さい。

新刊のお知らせ2014年08月31日

アマゾンにて『拾遺愚草全釈五』(kindle版)を出版しました。『員外』の全首を収めております。これでようやく『拾遺愚草全釈』が完成しました。

書籍の画像をクリックしますと、商品の詳細ページへリンクしますので、内容につきましてはそちらをご覧下さい。やまとうたeブックスのサイトでも新刊案内に掲載しております。

『員外』は言語遊戯的な動機から速詠した歌がほとんどなので、あまり真面目に詮索するのも不粋な気はするのですが、そうした歌だけに、定家の詞藻の豊かさや熟練の技術に舌を巻く思いがすることもたびたびです。

本の後記にも書いたのですが、『全釈』の連載中に激励や教示を下さった方々に、改めて感謝の意を表します。

しばらく本作りに熱中してこのブログも開店休業状態でしたが、またぼちぼち始めたいと思いますのでよろしくお願いします。

拾遺愚草全釈一~四を改訂しました2014年08月27日

『拾遺愚草全釈一』~『四』までを改訂しましたのでお知らせ申し上げます。底本からの引用部分を枠で括るなど体裁を読みやすく改め、また出版後見つかった誤りを訂正しました。

『拾遺愚草二』より

改訂版のダウンロードの仕方は、Amazonのトップページで、検索欄の右にある「アカウントサービス」から「My Kindle」へと進んで下さい。ライブラリが表示されますので、「拾遺愚草全釈一」「二」「三」「四」を探しますと、「アップデート版を利用可能」と表示がありますので、クリックして下さい。さらに更新ボタンをクリックすると、お持ちの端末に改訂版がダウンロードされ、旧版と入れ替わります。


なお、メモやハイライト、最後に読んだページの位置情報などは、バックアップ機能をオンにしておかないと、アップデート版に引き継がれないようですので、ご注意下さい。

現在は最終巻にあたる第五巻(員外)を鋭意制作中です。今週末までには出版できればと思っております。

『拾遺愚草四』表紙(予定)

藤川百首について2014年06月13日

「うたのわ」に登録してから三か月ほど経った。おかげで少しずつ歌作りの習慣を取り戻せている。

「うたのわ」の良さはまず、多くの取れ立ての歌が読めることだろう。月刊誌は言うに及ばず、新聞歌壇でさえ掲載歌は時節とタイムラグを生ぜざるを得ない。「旬」ということを特に尊ぶ私達の感性からすると、季節や時事を詠んださまざまの人の歌を、その時々にで読める楽しみは大きいのではないだろうか。

もちろん初心者の方も多いようなので、新聞や雑誌のように粒揃いとはとても行かないが、種々雑多な賑やかさもまた楽しいものだ。

さて旅や遠出の機会が少なく、単調な毎日を繰り返している私は、なかなか歌を作る機縁もないので、題詠を思い立った。浅草大将さんという以前から「うたのわ」で愛読していた歌人さんが藤川(河)百首を詠まれていたのを思い出し、私も挑戦してみることにした。

冒頭の一首に「関の藤川」が詠まれていることからこの名がある。元仁元年(1224)、定家六十三歳の作と推定されている。春・秋・恋・雑各二十首、夏・冬各十首、題は全て四字の結題。

春二十首
関路早春 湖上朝霞 霞隔遠樹 羇中聞鶯 隣家竹鶯 田辺若菜 野外残雪 山路梅花 梅薫夜風 水辺古柳 雨中待花 野花留人 遠望山花 暁庭落花 故郷夕花 河上春月 深夜帰雁 藤花随風 橋辺款冬 船中暮春
夏十首
卯花隠路 初聞郭公 山家郭公 池朝昌蒲 閑居蚊火 盧橘驚夢 杜五月雨 野夕夏草 澗底蛍火 行路夕立
秋二十首
初秋朝風 潤月七夕 野亭夕萩 江辺暁荻 山家初雁 海上待月 松間夜月 深山見月 草露映月 関路惜月 鹿声夜友 田家擣衣 古渡秋霧 秋風満野 籬下聞虫 紅葉写水 山中紅葉 露底槿花 川辺菊花 独惜暮秋
冬十首
初冬時雨 霜埋落葉 屋上聞霰 古寺初雪 庭雪厭人 海辺松雪 水郷寒蘆 湖上千鳥 寒夜水鳥 歳暮澗氷
恋二十首
初尋縁恋 聞声忍恋 忍親眼恋 祈不逢恋 旅宿逢恋 兼厭暁恋 帰無書恋 遇不会恋 契経年恋 疑真偽恋 返事増恋 被厭賤恋 途中契恋 従門帰恋 忘住所恋 依恋祈身 隔遠路恋 借人名恋 絶不知恋 互恨絶恋
雑二十首
暁更寝覚 薄暮松風 雨中緑竹 浪洗石苔 高山待月 山中滝水 河水流清 春秋野遊 関路行客 山家夕嵐 山家人稀 海路眺望 月羇中友 旅宿夜雨 海辺暁雲 寄夢無常 寄草述懐 寄木述懐 逐日懐旧 社頭祝言

比較的時間のある日、三十分なら三十分と決めて、五首を速詠している。四字題で制約が多いので、かえって速詠には向いているのだ。定家も速詠したに違いなく、作品の質は他の百首に比べると劣る。それゆえ家集には入れなかったのだろう(『拾遺愚草』には後世他人が増補したものと考えられている)。

劣ると言っても、定家は定家だ。たとえば「卯花隠路」の題で詠んだ歌は、

卯の花の枝もたわわの露を見よとはれし道の昔語りは

「卯の花の枝もたわわに置いた露を見なさい。かつて人が訪れた道の昔話を知りたいのであれば」の意。その裏には「かつては道を通る人の袖に触れて露がこぼれたが、今は人も来ないので露がたくさん置いている」という心を隠している。承久の乱の三年後、華やかなりし宮廷歌壇は崩潰し、定家は従二位の高位に至ったものの、参議を辞して閑居していた。そんな老境の心模様も読めようか。表現は簡潔なまでに凝縮されており、婉曲な作歌法も堂に入った見事さだ。定家は「一字百首」という百首歌につき「三時詠之」と記し、一首あたり四分もかけない速さで詠んでいたことが知られる。この百首歌も同じくらいだろうか。やはり天才と言うしかないのだろう。

私は実際のところ三十分で五首さえなかなか詠みきれない。どうにか詠めても、成句とか慣用的表現にばかり頼ってしまって、我ながら情けないが、致し方ない。定家のあとに自分の歌を載せるのもどうかと思うが、

忍親眼恋

しづたまき数にもあらずの中の珠なる人を思ふくるしさ

初二句は卑しい身分を歎く和歌の常套表現で、「掌の中の珠なる人」は申すまでもなく最愛の子の喩えとされる「掌中の珠」という成語から思いついたものだ(これは古典和歌には使われなかった表現)。数分で詠むとなると、だいたいこんな歌しか私には作れないのである。

さてここからは宣伝になりますが、定家の「藤川百首」は今夏出版予定の『拾遺愚草全釈五 員外』に収録されております。

新刊のお知らせ2014年05月11日

アマゾンにて『拾遺愚草全釈四』(kindle版)を出版しました。下巻全首を収めております。ようやく『拾遺愚草』正編の全釈が完成しました。

書籍の画像をクリックしますと、商品の詳細ページへリンクしますので、内容につきましてはそちらをご覧下さい。やまとうたeブックスのサイトでも新刊案内に掲載しております。

これまでの三巻と大きく異なるのは、小規模な歌会や歌合に出詠した歌とともに、数多くの贈答歌が収められている点です。いきおい定家の実人生に即した歌が多くなり、その人となりも興味深く読み取れることでしょう。家族への深い愛情に満ちた歌々、友人や部下に対する温かい気遣いや思いやりの歌々、離ればなれの恋人に対する切々たる恋歌の数々、また歌壇の先輩に対しては臆することのない痛烈な返歌。ともすれば人柄を悪く誤解されがちな定家の、意外な一面を発見されるかもしれません。

全五巻の最終巻は今夏8月頃までに刊行したいと思っております。何卒よろしくお願い申し上げます。

定家絶唱「花にそむくる春のともし火」2014年03月27日

建保五年四月十四日、院にて庚申五首、春夜

山の端の月まつ空のにほふより花にそむくる春のともし火

山のはの月まつそらのにほふより花にそむくるはるのともし火(下2069)

 「月の出を待つ山の端の空がほのかに明るむや否や、花に向けていた灯火を背後へ押しやる(こうして、月と花がおぼろに融け合う春夜の情趣を味わう準備をする)」との意。

 「花の匂ふ時分、月を待心」(六家集抜書抄)。灯火を「花にそむくる」理由につき、例えば岩佐美代子氏『玉葉和歌集全注釈』(平成八)は「月光でこそ花を眺めたいため」と解するが、読み方として十分とは言えない。もし月を単なる花の照明役と見なすのであれば、「夜花」題の趣意には適っても「春夜」題には適うまい。この歌は花が主役なのではない。月が主役なのでもない。両つが照らし合う「春夜」が主役なのである。

 「浅みどり花もひとつにかすみつつおぼろにみゆる春の夜の月」(新古今集・春上・五六、孝標女)、「…春の夜は月こそ花のにほひなりけれ」(新勅撰集・春下・七八、和泉式部)といった、花と月がほのぼのと融け合う景趣は当時好まれ、定家の殊に愛着するものであった。そんな春夜の風情をあわれむためにこそ、「ともし火」は邪魔とされたのである。

 建保五年(一二一七)四月十四日、後鳥羽院の御所における庚申五首歌会出詠歌。定家五十六歳。同じ時の題は「夏暁」2116、「秋朝」2289、「冬夕」2367、「久恋」2440。同月十六日の『明月記』には大納言公経の言として当五首につき「今度の歌抜群の由、殊に叡感有り」と後鳥羽院の賞賛の言を伝えている。なお「春夜」は平安中期から見える題で、『和漢朗詠集』『新撰朗詠集』にも立題されている。

 「空のにほふより」、山の端の空が(月の余光で)ほのぼのとした色に映えるとすぐに。「にほふ」は花に縁のある語で、やがて融け合う花月の情趣を予告もする、用意の深い語である。

 「花にそむくる」、桜の花に対して背ける。『和漢朗詠集』に引く白詩の句「ともしびそむけては共に憐れむ深夜の月」(春夜・二七/白氏文集・巻十三 春中与廬四周諒華陽観同居)に拠る。

 結句「春のともし火」は『韻歌百二十八首』で「ふかき夜を花と月とにあかしつつよそにぞ消ゆる春のともしび」と遣ったことがある(中1510。春夜の終りを詠んだ韻歌に対し、掲出歌はその始まりの時を詠み、美しい一対をなそう。

 『玉葉集』に「建保五年四月庚申に春夜」として撰入(巻二・春下・二一一)。『続歌仙落書』『秋風和歌集』などにも見える。

『拾遺愚草全釈一』無料キャンペーンのお知らせ2014年01月08日

謹んで新年のご挨拶を申し上げます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。

さて、Amazonにて販売しております電子書籍『拾遺愚草全釈一(上巻の上)』(Kindle版)につき、今月11日まで無料キャンペーンを実施しております。この機会にぜひお求め下さい。

現在は第四巻(下巻)の校正を進めているところです。春までには第五巻(員外)も刊行し、完結させたいと願っております。

新刊のお知らせ2013年11月26日

拾遺愚草全釈三

アマゾンにて『拾遺愚草全釈三』『十題百首全釈』『歌合百首全釈』(いずれもkindle版)を出版しました。

書籍の画像をクリックしますと、商品の詳細ページへリンクしますので、内容につきましてはそちらをご覧下さい。やまとうたeブックスのサイトでも新刊案内に掲載しております。

引き続き、第四巻を来年正月頃、第五巻を来春刊行予定です。どうぞよろしくお願い致します。

新校拾遺愚草を改訂しました2013年10月08日

今年一月に出版しました『新校拾遺愚草』Kindle版・EPUB版を改訂しましたのでお知らせ申し上げます。出版後見つかった誤りを訂正し、また新たに初句索引を付けました(上の画像を参照ください)。表紙画像もより鮮明なものに差し替えました。

Kindle版

EPUB版

Kindle版ご購入者にはいずれAmazonからメールでお知らせがあるかと思いますが、すでに改訂版へのアップデートが可能です。アップデートするには、Amazonのトップページで、amazon.co.jpのロゴの下にあるカテゴリーをさがすからKindleMy Kindleへと進んで下さい。Kindleライブラリが表示され、「新校拾遺愚草」を探しますと、「アップデート版を利用可能」と表示があるはずですので、クリックして下さい。お持ちの端末に改訂版がダウンロードされ、旧版と入れ替わります。

EPUB版のアップデートは、DL-Marketにて書籍を再ダウンロードして下さい。旧版と同じファイル名ですので、上書き保存して頂けると幸いです。

定家絶唱「春の夜の夢の浮橋…」2013年10月08日

春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空

春の夜の夢のうきはしとたえして峯にわかるゝよこくものそら(中1638

 前歌と同じく『仁和寺宮五十首』より。

 「春の夜の、浮橋のように頼りない夢が、中途で絶えてしまって、折しも空では棚引く横雲が峰から別れてゆく」の意であろう。

 春のはかない夢が覚めた時の明け方の景を幻想味豊かに詠む。「春の夢」「春の曙」という当時好まれた春歌の二主題を融合させた一首とも見える。

 構成を言えば、句切れはないが、「とだえして」で文字通り一首は途絶し、上下を分かつ。とりとめのない夢がふと絶えて、なおそのなごりのうちに宙吊りにされたような上の句。夢の残像さながら曙の景が展かれる下の句。峰を別れてゆく横雲はしかし現であって、夢のおわりを告げている。

 「春の夜の夢」「浮橋(憂き端)」「とだえ」「わかるる」「横雲の空(後朝の空を思わせる)」と、恋に縁のある語をつらねたのは偶然ではあり得ないだろう。しかも「夢の浮橋」は『源氏物語』五十四帖の最後の巻名であり、おのずから浮舟をめぐる恋の顛末へと想いは導かれる。安東前掲書が『源氏物語』の「呆気ない終り様」に作者の狙いを見たのは卓説であろう。もとより茫漠として溢れるような余情を湛えたこの歌の、それは一つの読み方にすぎまい。また同書は『文選』「高唐賦」の巫山ふざん神女の故事補注が思い合わされているかとも言う。「読の赴くところ、おのずとそこまで興を誘われる」。

 余情がまた余情を生むような、限りない奧行を感じさせる歌で、古来定家の代表作の一つとされたのも当然であろう。

 「春の夜の夢」は夢の中でも殊にはかない夢とされ、はかない情事の喩えともされた。「春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たん名こそをしけれ」(千載集・雑上・九六四、周防内侍)

 「浮橋」は、水面に筏や舟を並べ、その間に板を渡して橋の代りとしたもの。『後撰集』に「へだてける人の心の浮橋をあやふきまでもふみみつるかな」と「憂き端」に掛け、人の心の危うさ・頼りなさの象徴として用いている。「夢の浮橋」は、夢を浮橋に喩えたもので、特に恋に関わらせて読めば、浮橋のように心許ない、夢の中の通い路ということか。但し本居宣長は「とだえをいはむために、夢を夢のうき橋とよみ玉へり」(美濃廼家苞)と言い、「浮橋」自体に意味はないとする。他にも単に夢の意とする説・釈が多い。和歌での初出は、『新編国歌大観』を検索する限り、四年前の建久五年(一一九四)、左大将家歌合で隆信が詠んだ「わたる瀬をいかにたづねん三島江のみしよりまよふ夢の浮橋」(隆信集・四七二)のようである。この「夢の浮橋」は単なる夢でも夢の比喩でもなく、夢での逢瀬を尋ね迷う話手の、具体的イメージを伴った心象である。定家も出詠した歌合なので、おそらく記憶にあった歌であろう。

 「峰にわかるる」、峰から離れる。『古今集』の「風ふけば峰にわかるる白雲のたえてつれなき君が心か」(恋二・六〇一、忠岑)に先蹤のある句。この歌を本歌とする書もある。

 「横雲の空」は、横雲、すなわち横の方向にたなびく雲がある空。「横雲」は明け方に山などから空へ向かって離れる雲として歌に詠まれる例が少なからず、五年前の『六百番歌合』では家隆が「霞たつ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空」(新古今集・春上・三七)と詠んでいる。下の句は定家のによく似ており、これも定家の念頭にあった歌であろう。

 『新古今集』に入撰(巻一・春上・三八)。『百番自歌合』に採り(春・十)、『自讃歌』『新三十六人撰』などにも見える。