千人万首メモ 宜野湾朝保 春2015年08月11日

宜野湾朝保 ぎのわんちょうほ 文政六~明治九(1823-1876) 唐名:向有恒 号:松風斎

文政六年三月五日、沖縄首里赤平村に生まれる。父は尚育王時代の三司官、宜野湾親方朝昆(唐名向廷楷)。十三歳の時、父が没し宜野湾間切を襲領する。接貢船修甫奉行・異国船御用係・学校奉行・系図奉行などを歴任し、この間たびたび清国・内地へ使者として派遣された。
三十六歳になる安政五年(1858)、薩摩に赴いた際には八田知紀らの知遇を得た。帰国後、別業を営み、悠然亭と号し、和歌を講じた。門人は数百人に及んだという。
文久二年(1862)、三司官となり、尚泰王を助けて信任を得る。維新後の明治五年(1872)、伊江王子の副使として東京に赴き、正使を助けて中山王を藩王に封ずるとの朝命を遵奉した(いわゆる琉球処分の始まり)。しかしその後清国への進貢を絶つなどの条項が琉球国内で反発を呼び、朝保の時論は容れられず、職を退いた。以後、悟性亭を邸内に結び、書画を友とする暮らしを送った。明治八年(1875)、尚泰王の次男尚寅が宜野湾間切を賜り宜野湾王子を称したため、宜野湾の名を避け宜湾と改めた(普通「ぎわん」と読まれるが、前姓と同じく「ぎのわん」と読むべきだとの説もある)。明治九年(1876)、五十四歳で死去。
香川景樹の流れを汲む桂園派に属する歌人。明治九年、琉球人の和歌集『沖縄集』二編を編む。門下の歌人護得久ごえく朝置ちょうちの編になる家集『松風集しょうふうしゅう』が明治二十三年に刊行された。他に著作は多かったというが殆どは散佚して伝わらず、『上京日記』等を存するのみである。
「容貌傀偉、性質豁達、幼にして大度の聞あり。壮年に及で学和漢を兼ね、又能く和漢の語に通じ、略英語を解す」(松風集所収の略伝)。

年内立春

幾夜ねて年をとるかと稚子をさなごがをよび折るまに春は来にけり

「あと幾夜寝ると年を取るのかと、幼な子が指を折るうちに春はやって来てしまった」の意。

「をよび」は指。「を」は親愛の情を示す接頭語。

旧年中に立春となった際の心を詠む。古今集冒頭歌があまりに有名であるため難題とされた「年内立春」の主題を、意想外の可憐な趣向で詠んでいる。作者には大人たいじんの風格とともに天真なところがあった。因みに同題で詠んだ歌「うなゐ子が年のはじめの花衣たちぬはぬまに春風ぞ吹く」も新鮮。

花ちらす風なかりせばあこがれし心はここに帰らざらまし

「もし花を散らす風がなかったなら、離れていった心魂はこの私の体に帰って来なかっただろう」の意。

「あこがれ」は古くは「あくがれ」。ものが本来あるべき場所から離れてゆくことを言う。

桜の美しさに惹かれて身体から遊離してしまった魂が、花が散った後、ようやく戻って来た。もし風が吹かなければ、そのまま魂はさ迷い続けていただろう。花をめぐり心身について内省し、西行を思わせるところがある。

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