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更新情報:千人万首に荒木田久老2010年01月14日

千人万首に荒木田久老をアップしました。六首。
江戸時代も後半に入った頃の人。代々伊勢神宮の神官を勤めた家に生まれ、神職を継ぐ一方、国学者・歌人としても活躍しました。若き日江戸に出て賀茂真淵に入門し、伊勢に帰った後も真淵の学を継承発展さすべく努め、主著は『万葉考槻の落葉』。
酒色を好む豪放不羈の人で、同じ伊勢の国学者でも本居宣長とは好対照でした。特に恋歌などからその人柄が髣髴とします。千人万首に恋歌は採らなかったので、ここに幾つか引きましょう。

吾妹子(わぎもこ)が玉手の枕六月(みなづき)の暑き夕べもあへて()き寝む
夏虫のひとへ衣も吾妹子に纏き寝む夜らは隔て苦しも
をとめ子が 笑まふゑまひの 眉引(まよびき)の 遠山ねろに 照る月の 足らへる妹が (おも)かたの 見まくほしけど ()がなげく おきその風に 夜霧かも 立ちやわたれる 吾が恋ふる 心おほしみ 天雲(あまぐも)の 隔てたるかも 夜ならべて 待てど見えこぬ はしき妹の子

雲の記録201001142010年01月14日

2010年1月14日午後4時19分鎌倉市二階堂にて

日没の時刻は着実に遅くなり、五時を過ぎてもかなり明るい。写真は午後四時二十分頃の鎌倉。山に日が沈もうとし、鳶が忙しげに空を舞っている。

百人一首 なぜこの人・なぜこの一首:第2番持統天皇2010年01月15日

持統天皇

春すぎて夏きにけらし白妙の衣ほすてふあまのかぐ山

【なぜこの人】
『百人秀歌』という、百人一首とまるで双子のように良く似た書があります。百人一首と九十八人の歌人が一致し、九十七首の歌が一致します(源俊頼だけは別の歌が選ばれているので、一致歌がひとつ少ないのです)。冷泉亭時雨叢書に鎌倉末期~室町時代頃の書写と推定される古写本があり、内題に「百人秀歌 嵯峨山荘色紙形 京極黄門撰」とあって、藤原定家の撰であることが確実視されています。
最初の十人だけ表にして両書を比べてみましょう。

   百人一首    百人秀歌  
1番 天智天皇    左に同じ  
2番 持統天皇      〃   
3番 柿本人麿      〃   
4番 山辺赤人      〃   
5番 猿丸大夫    中納言家持 
6番 中納言家持   安倍仲麿  
7番 安倍仲麿    参議篁   
8番 喜撰法師    猿丸大夫  
9番 小野小町    中納言行平 
10番 蝉丸      在原業平朝臣

このように、最初の四人までは全く同じで、その後は配列が大きく異なります。
なぜこんな違いが出来たのかというと、百人一首が時代順を優先したのに対し、『百人秀歌』は二首一対の歌合形式に比重を置いたためと見られています。『百人秀歌』の五番・六番は大伴家持・安部仲麿という奈良時代の廷臣のペア、九番・十番は在原行平・在原業平という兄弟のペア。ほかにも、六歌仙の小町と喜撰法師を合せたり、平安末期の二大歌人俊成・西行を(つい)にしたりと、『百人秀歌』では二首一対の組合せに工夫が凝らされていることが窺えるのです(安東次男著『百首通見』は、歌の内容面からも(つい)の意図を探っています)。

両書のどちらが先に編まれたのかは、難しい問題です。藤原家隆の官位が百人一首では従二位、『百人秀歌』では正三位となっている点、百人一首には定家死後編まれた『続後撰和歌集』から二首(後鳥羽院・順徳院)採られている点などから、少なくとも、現在私たちの目に触れるような形に整えられたのは『百人秀歌』の方が先だったとは言えましょう。いずれにしても、さほど時を隔てずして、二つの百人一首が編まれたことは事実です。

持統天皇の選出理由を考えるのに、なぜ『百人秀歌』の話から始めたかというと、定家の撰歌意識にはもともと二首一対の発想があったことを確認したかったからです。古今集以前に開催された『寛平御時后宮歌合』以来、秀歌撰は多く歌合形式を取りました。定家の時代にも、後鳥羽院が『時代不同歌合』という歌合形式の秀歌撰を編み、定家自身、自撰の秀歌撰は百番の自歌合という形を取っています(『定家卿百番自歌合』)。本格的な秀歌撰は歌合形式にするという伝統があったのです。

さてそこで、巻頭が天智天皇と定まれば、誰のどの歌と組み合せるか。定家がそう考えたとして、天智天皇の皇女である持統天皇の名歌に思い至るのはごく自然な成り行きだったでしょう。このペアは父娘の合せというばかりでなく、男女の天皇の合せともなり、また秋に対する夏、暗に対する明――絶妙なまでに好対照をなしています。江戸時代の百人一首ネタ川柳「濡れた御衣(みそ)隣の山で干したまふ」は、両首のちょっと出来過ぎな組合せの一面を突いたものと言えましょう。

【なぜこの一首】
先に「持統天皇の名歌」と書きましたが、この歌が平安時代に評価された形跡はほとんどありません。天の香具山が詠まれているため歌枕の書に引用されたりはしていますが、秀歌撰では鎌倉時代に入り藤原俊成の『古来風躰抄』に採られたのが最初のようです。その後『新古今集』の夏部巻頭を飾り、名歌の誉れを不動のものとしました。
定家は新古今撰者としてこの歌を推薦しており、『定家八代抄』『秀歌大躰』『詠歌大概』といった自身の秀歌撰にも採って、非常に高く評価していました。

なお、万葉集の原歌は「春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山」で、訓み方は現在「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」に定まっています。新古今集・百人一首では「夏来たるらし」が「夏来にけらし」に、「衣ほしたり」が「衣ほすてふ」になっているとして問題視されて来ました。ところが定家と同時代の元暦元年(1184)に成った元暦校本万葉集を見てみると、当該歌には「はるすぎて なつぞきぬらし しろたへの ころもかはかる あまのかごやま」の訓をあてていますし、建久八年(1197)の『古来風躰抄』では「春過ぎて夏ぞ来ぬらし白たへの衣かはかす天の香具山」の形で出ています。定家の時代、この歌の訓み方はまだ揺れていたのです。吉海直人氏が指摘するとおり(『百人一首の新研究』)、現在の定訓は江戸時代になって初めて考案されたものですから、それと引き比べて百人一首の持統天皇の歌を万葉集からの改悪と非難するのは的外れです。

と言うより、「夏来にけらし」「衣ほすてふ」と婉曲・優雅に王朝化されて初めて、この歌は新古今時代に受け入れられ、名歌の地位を得たと言うべきでしょう。「衣ほすてふ」と歌った時、天の香具山という遠つ世の伝説の聖山を眺める女帝のまなざしに、平安京に生きた当時の人々のまなざしが重ね合されたのです。言わば古歌が高次(メタ)化されているわけで、定家による高い評価の理由もそこにあったのではないでしょうか。

(2011年5月17日加筆)

菅家文草卷一 臘月獨興2010年01月17日

臘月に独り興ず  菅原道真

玄冬律迫正堪嗟  玄冬(げんとう) (りつ)()めて (まさ)(なげ)くに()へたり
還喜向春不敢賒  (かへ)りては喜ぶ 春に向ひて()へて(はるか)ならざるを
欲盡寒光休幾處  尽きなむとする寒光(かんくわう)幾ばくの(ところ)にか(いこ)はむ
將來暖氣宿誰家  (きた)りなむとする暖気(だんき) ()が家にか宿らむ
氷封水面聞無浪  氷は水面を(ほう)じて 聞くに浪なし
雪點林頭見有花  雪は林頭(りむたう)に点じて 見るに花有り
可恨未知勤學業  恨むべし 学業に(はげ)むことを知らずして
書齋窓下過年華  書斎の窓の(もと)年華(ねんくわ)(すぐ)さむことを

【通釈】冬も極まって一年も残り少なくなり、本当に嘆いても嘆き切れない。
一方では喜ぶ気持もある、季節は春に向かい、それが決して遠くないことを。
消え尽きようとする寒い冬の光は、あと幾箇所で休憩するのだろう。
訪れようとする暖かい春の気は、どこの家で宿を取るのだろう。
氷は水面を閉じ込めて、波の音も聞こえない。
雪は林の梢に積もって、花が咲いたようだ。
こんなことではいけない、学業に励もうとせずに、
書斎の窓の下でむなしく歳月を過ごしてしまうなんて。

【語釈】◇玄冬 冬の異称。「玄」は黒で、五行説では冬にあたる。◇律迫 度合いが甚だしくなって。冬が進行し、残り少なくなったことを言う。◇年華 年月。

【補記】臘月すなわち陰暦十二月に独り即興で詠じたという詩。「于時年十有四」(時に年十有四)の注記があり、菅原道真十四歳の作。和漢朗詠集の巻上「氷」に第五・六句「氷封水面聞無浪 雪点林頭見有花」が引かれている。土御門院が第六句を句題にして歌を詠んでいる。

【影響を受けた和歌の例】
氷みな水といふ水はとぢつれば冬はいづくも音無の里(和泉式部『和泉式部集』)
時雨までつれなき色とみしかどもときは木ながら花咲きにけり(土御門院『土御門院御集』)

雲の記録201001172010年01月17日

20100117_1534鎌倉市二階堂

ひさびさのすじ雲。鎌倉市二階堂にて、午後三時半頃。

和歌歳時記:早梅 Early plum-blossom2010年01月18日

早梅 鎌倉市二階堂にて

早咲きの梅、特に立春前に咲く花を早梅と言ひます。梅の中には冬至梅・寒紅梅など季節を先取りして咲くやう作り出された品種もありますが、品種の別を言ふのでなく、普通の梅で、いちはやく咲いた花を言ふのです。和歌では「早梅」のほか「年内梅」「歳暮梅」などの題で盛んに詠まれました。もとより、梅を殊更好んだ万葉歌人もこれを愛でてゐます。

  『万葉集』巻八  大伴宿禰家持が雪の梅の歌一首
今日降りし雪に(きほ)ひて我が宿の冬木の梅は花咲きにけり

春を待ち切れないのか、雪と白さを競ひ合ふやうに咲いた梅。早梅に対する賛美は、天地の改まる浄らかな新春への憧れでした。

  『松下集』  早梅開  正広
消えずとも皆淡雪ぞ天地(あめつち)にこぬ春ひらく園の梅が香

「消えないと言つても、皆淡雪だ。まだ来ぬ春を、天地に向けて広げる園の梅が香よ」。
積もつた淡雪など何のその、開き始めた梅の香りが、一足早く春を天地に向けて解き放つ。正広は室町時代最大の歌人と言ふべき正徹の一番弟子。師の難解な作風とは異なり、大らかな丈高い詠を得意としましたが、この歌はその最良の一例でせう。

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『万葉集』巻八(紀少鹿女郎の梅の歌一首)
十二月(しはす)には沫雪降ると知らねかも梅の花咲く(ふふ)めらずして

『拾遺集』(しはすのつごもりごろに、身のうへをなげきて)紀貫之
霜がれに見えこし梅は咲きにけり春には我が身あはむとはすや

『風雅集』(歳のうちの梅をよみ侍りける)紀貫之
一とせにふたたび匂ふ梅のはな春の心にあかぬなるべし

『拾遺集』(詞書略)三統元夏
梅の花にほひのふかく見えつるは春のとなりの近きなりけり

『拾遺愚草』(十二月早梅) 藤原定家
色うづむ垣ねの雪の花ながら年のこなたに匂ふ梅が枝

『紫禁和歌集』(早梅) 順徳院
雪降ればこと深山木も咲く花を春のものとて匂ふ梅が枝

『草庵集』(雪中早梅) 頓阿
うづもるる垣ねの雪ににほふなり春のとなりにさける梅が枝

『宗良親王千首』(年内早梅) 宗良親王
難波津や冬ごもりせぬ御代なればいまも此の花春にかはらず

『冷泉為尹千首』(年内早梅) 冷泉為尹
今ははや春のへだてや程ちかき花になりゆく庭の梅垣

『草根集』(早梅) 正徹
ふる雪の木の間の月の笠にぬふ梅ならなくの冬の一華

『草根集』(冬早梅) 正徹
年のうちの春やうれしき梅が枝の今朝はほほゑむ花のかほばせ

『卑懐集』(早梅) 姉小路基綱
さそはるる鳥の音もなし咲く梅の春にさきだつ風のたよりに

『松下集』(早梅開) 正広
()きつくせ一の花に初春を冬よりひびく天が下かな

『拾塵集』(早梅) 大内政弘
枝かはす木は冬がれて咲く梅の此の一もとに春やきぬらん

『雲玉集』(古寺早梅を、ある所にて) 馴窓
今も世につたへて梅や一ふさの花のさとりを先づひらくらん

『柏玉集』(早梅) 後柏原院
とく咲くもあやにくなれや冬の日の嵐にをしき梅の初花

『黄葉集』(早梅) 烏丸光弘
花ぞとき鶯さそへ年の内の春に先咲く梅の冬木に

『後十輪院内府集』(雪中早梅) 中院通村
春待たでほほゑむ梅の花の香にふかさおよばぬ枝のしら雪

『霊元院御集』(早梅) 霊元院
冬ごもる窓のみなみに咲く梅や春とほからぬ日影をもしる

『芳雲集』(早梅薫風) 武者小路実陰
いづこぞと梅が香さがし年の内も立枝たづねて春風や吹く
雪に吹く風に匂ひは宿してもなほ冬ごもる窓の梅が枝

『柿園詠草』(早梅) 加納諸平
わがせこが春のいそぎに衣たてば朝北さえて梅かをるなり

『調鶴集』(社頭早梅) 井上文雄
広前にはやきを神の心とやいがきの梅のはるも待ちあへぬ

雲の記録201001182010年01月18日

2010年1月18日14時26分鎌倉市二階堂

今日は飛行機雲が数多く見られた。消えずにいつまでも残っているので、空には飛行機雲が幾筋もたなびいている有様。下のは私が勝手に「崩れ飛行機雲」と名づけている類の雲。日没に至るまで、空を見上げるたびに楽しませてくれる雲日和であった。

2010年1月18日午後2時35分鎌倉市二階堂
2010年1月18日午後4時38分鎌倉市二階堂

雲の記録201001192010年01月19日

2010年1月29日午前10時

「飛行機雲は天気が悪くなる前兆」とする俗説があるが、あてにならないことは今日の抜けるような青空が証明している。今日の飛行機雲は昨日のように太ることがなく、細い糸を引くようにしてやがて消えてしまう。

白氏文集卷二十 臘後歳前遇景詠意2010年01月20日

臘後(らふご)歳前、景に()ひ意を詠ず  白居易

寒梅半白柳微黄  寒梅(かんばい)半ば白くして 柳(すこし)く黄なり
凍水初融日欲長  凍水(とうすい)初めて融けて 日長からんとす
度臘都無苦霜霰  (らふ)(わた)りて (すべ)霜霰(さうせん)に苦しむ無く
迎春先有好風光  春を迎へて ()好風光(かうふうくわう)有り
郡中起晩聽衙鼓  郡中 起くること(おそ)くして 衙鼓(がこ)を聴き
城上行慵倚女牆  城上(じやうじやう) 行くこと(ものう)くして女牆(ぢよしやう)()
公事漸閑身且健  公事(こうじ) (やや)(かん)にして ()()(けん)なり
使君殊未厭餘杭  使君(しくん) ()ほ未だ余杭(よかう)(いと)はず

【通釈】早咲きの梅は白い花を半ば開き、柳の芽はかすかに黄色い。
凍っていた川は融け始め、日は長くなろうとしている。
臘祭を過ぎて、もはや霜や霰に苦しむことも無く、
新春を目前にして、真っ先に風と光がうららかになる。
私は役所の中でゆっくり起き出し、時を打つ太鼓を聴き、
城壁の上を物憂く歩いて、女墻(ひめがき)に凭れる。
公務はだんだん暇になり、身体はまず健康だ。
この刺史殿もまだ杭州を嫌うことはない。

【語釈】◇臘 冬至後三度目の(いぬ)の日。「臘祭」と言ってこの日百神を祭る。2010年は1月24日にあたる。◇郡中 郡の役所の中。郡は杭州を指す。◇衙鼓 時を告げる役所の太鼓。「衙」は役所。◇女牆 城の上に作る丈の低い垣。ひめがき。◇使君 刺史(州の施政官)の尊称。自らを客観視して言う。◇餘杭 杭州。

【補記】長慶二年(822)、白居易は自ら求めて長安を去り、杭州刺史に着任、翌々年までこの職にあった。五十一歳から五十三歳までのことである。この間、陰暦十二月、臘祭も終わり、新年を目前にして、風景を見て感懐を述べた詩。大江千里が第四句「迎春先有好風光」を句題に歌を詠んでいる。大江維時の『千載佳句』上「早春」の部に第三・四句が引かれている。

【影響を受けた和歌の例】
いつしかと春をむかふる朝にはまづよき風の吹くぞうれしき(大江千里『句題和歌』)

雲の記録201001202010年01月20日

2010年1月20日午前10時鎌倉二階堂にて

風が強く、妙に暖かい一日。午前中は巻雲の見える青空だったが、午後はやや雲が多くなる。夜になっても雲が多めで、星はあまり見えない。写真は朝、犬と山を散歩していた時に撮った飛行機雲。