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和歌歳時記:土筆 つくし Horsetail2010年03月23日

土筆 鎌倉市二階堂にて

土筆は羊歯植物である杉菜の胞子茎。ちやうど桜の咲き始める頃、川の堤や原つぱの土の中から、筆先に似た頭をもたげる。和へ物や酢の物として春の食卓に上る。
古くは「つくづくし」あるいは「つくつくし」と言つた。語源は「付く付く子」とも「突く突く子」とも言ふ。「つくしん(ばう)」「つくしんぼ」「筆の花」「つくづくし花」とも。

源氏物語(早蕨)に宇治山の阿闍梨が傷心の中君(なかのきみ)のもとへ「蕨、つくづくし、をかしき()に入れて」贈つて喜ばれたとあり、蕨などと共に春の旬の食材として古人も貴んだことが知られる。しかし和歌では早蕨ほど人気がなく、万葉集にも勅撰集にも土筆を詠んだ歌は見つからない。たびたび歌材として取り上げられるのは近世に入つてからである。
比較的早い時期の作例としては、鎌倉初期の為家の歌がある。

『夫木和歌抄』 土筆 藤原為家

佐保姫の筆かとぞみるつくづくし雪かきわくる春のけしきは

残雪をかき分けるやうに頭を出した土筆を、佐保姫のための筆かと見た(「かき」は「書き」の意を帯びて筆の縁語になる)。与謝野晶子は土筆を「金色」と言つてゐて(下記引用歌参照)この人の色彩感覚に感嘆させられるけれども、私には淡い褐色を帯びた人肌の色に見える。若々しくなまめかしいばかりに美しい色が雪間に映えれば、春の女神への捧げ物にこれほど似つかはしいものはない。

**************

  『元真集』(つくつくしを十三にて) 藤原元真
雲かかる浦にこぎつくつくし船いづれかけふのとまりなるらん

  『秘蔵抄』 伝大伴家持
片山のしづが(こもり)()ひにけり杉菜まじりの土筆(つくづくし)かな

  『挙白集』 木下長嘯子
花ざかりとはではすぎな君をのみ待つに心をつくづくしかな

  『漫吟集』 契沖
あさぢふの菫まじりのつくつくしまだ野辺しらぬをとめ子ぞつむ

  『琴後集』(つくづくしの絵に) 村田春海
つくづくし春野の筆といふめれば霞もそへて家づとにせむ

  同上(桜の枝とつくづくしを籠に入れたるかた)
一枝の花にまじへて山づとのあはれを見するつくづくしかな

  『浦のしほ貝』(人のもとに土筆をおくるとて) 熊谷直好
霞たつ野べのけしきもみゆるまで摘みつくしたる初草ぞこれ

  『草径集』(土筆) 大隈言道
ゆく人を田舎(ゐなか)(わらは)の見るばかり立ちならびたる土筆(つくづくし)かな

  『明治天皇御集』(土筆)
庭のおもの芝生がなかにつくつくし植ゑたるごとくおひいでにけり

  『竹乃里歌』(詞書略) 正岡子規
くれなゐの梅ちるなべに故郷(ふるさと)につくしつみにし春し思ほゆ

  『長塚節歌集』
つくしつくしもえももえずも大形(おほがた)の小松が下に行きてかも見む

  『心の遠景』 与謝野晶子
金色のいとかすかなるものなれど人土筆摘むみづうみの岸

百人一首 なぜこの人・なぜこの一首 第9番小野小町2010年03月24日

小野小町

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

【なぜこの人】
平安文学の著しい特色として女官たちの華々しい活躍を挙げるのは常識でしょう。和歌の世界でも後宮のサロンを中心にすぐれた女流が輩出しました。小野小町はその端緒を切りひらいた歌人と言えましょう。平安初期の六歌仙の紅一点。平安中期の三十六歌仙にも撰ばれています。

生年は西暦820~830年頃と推測され(片桐洋一『小野小町追跡』)、仁明天皇の更衣――天皇のお着替えに奉仕し、ご寝所にも侍した女官――であったと見る説が現在では有力です。当時、更衣を「町」と呼んでいたことが史料によってほぼ実証できるからです。姉妹そろって後宮に仕え、姉が「小野町(おののまち)」、妹が「小野小町」と呼ばれた、というわけです(小町に姉がいたことは、古今集の作者に「小町が姉」の名の見えることから知られます)。

佐竹本三十六歌仙絵 小野小町 紀貫之は古今集の仮名序で「小野小町は、いにしへの衣通姫(そとほりひめ)の流なり」としています。衣通姫は西暦5世紀の大王とされる允恭(いんぎょう)天皇の皇后の妹で、日本書紀によれば絶世の美女、その美しさは衣を透して輝く程でした。天皇に寵愛されますが、姉の嫉妬を受け、宮廷から遠ざけられてしまいます。「我がせこが来べき宵なりささがねの蜘蛛の行ひこよひしるしも」は天皇の来訪を予感して詠んだと伝わる歌。であれば貫之の言う「衣通姫の流」とは、後宮で生まれた閨怨歌の系統という程の意かと思われます。これに続けて曰く「あはれなるやうにて強からず。いはばよき(をうな)のなやめるところあるに似たり」。やや辛口ではありますが、小町の歌の嫋々とした調べと妖艶な風姿を的確に言い当てています。

貫之は小町より五十年ほど後の生れで、孫の世代にあたります。小町のことはよく聞き知っていたはずで、仮名序の短評には小町の実像を知るための重要な手がかりが隠されていたようです。
しかし小町の実像は次第に人々から忘れ去られ、逆に虚像ばかりが膨らんでゆきました。平安時代後半には『玉造小町子壮衰書』の主人公と混同され、勢家の驕慢な美女が老いて落ちぶれるという有り難くない伝説まで負わされてしまいました。挙げ句は陸奥(みちのく)で野垂れ死にし、眼窩に薄を生やした髑髏が「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」と旅人に歌い掛けたなどという話も、定家の時代には既に有名な小町伝説の一つだったのです。

実在した一人の閨秀歌人であった小町は、日本人の夢と幻想の中で生き続け、さまざまな物語を纏い付かせながら、いつしか美のはかなさ、生のはかなさを一身に体現する巨大な伝説的存在となっていました。

【なぜこの一首】
定家は鎌倉の将軍源実朝に贈った『近代秀歌』という書で和歌についての所懐を簡明に述べていますが、その中に紀貫之とその追随者を批判するくだりがあります。

むかし貫之、歌心たくみに、(たけ)及びがたく、(ことば)つよく、姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の(たい)をよまず。それよりこのかた、其の流れを承くる(ともがら)、ひとへに此の姿におもむく。

歌人たちが古今集を、そして撰者の紀貫之を崇拝するようになると、もっぱら技巧的で、調べの高い、趣向の面白い歌ばかりが好まれるようになり、情念が溢れるような妖しく美しい歌は詠まれなくなってしまった、と定家は言うのです。末世ともなればさらに歌の品は下り、格調さえ失われてしまった。そして次のように続けます。

今の世と成りて、この賎しき姿をいささか変へて、古き(ことば)を慕へる歌、あまた出で来たりて、花山僧正、在原中将、素性、小町が後、絶えたる歌のさま、わづかに見え聞ゆる時侍るを、物の心さとりしらぬ人は、あたらしきこと出で来て、歌の道かはりにたり、と申すも侍るべし。

定家を始めとする新古今歌人の歌風を、遍昭や在原業平、小野小町らの歌風の復活として歴史的に位置づけたのです。「絶えたる歌のさま」とはすなわち「余情妖艶の体」で、定家は最後に名を挙げていますが、ほかならぬ小町こそがこの体の代表者でした。妖艶とはまさに、貫之が小町を評した「よき女のなやめるところ」に求められるような美だからです。

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

古今集では春の部にあり、あくまでも桜のうつろいを惜しんだ歌として、老や恋にまつわる心情を読み取ることを否定する説もあります。しかし、一首を読み下せば、おのずと人生的な感慨を呼び起こされずにはいず、これを季節の歌に局限するのは無理な解釈に思えます。
長雨に降られて桜が衰えるまでをぼんやりと「いたづらに」過ごしてしまった、その悔恨のみを言うためには、「我が身世にふる」はいくら何でも大仰に過ぎる詞でしょう。桜の盛りはほんの数日なのです。この第四句で人生的な感慨の方が前面にせり出して来ざるを得ませんが、「()る」「降る」、「眺め(詠め)」「長雨(ながめ)」の掛詞に立ち止まり、繰り返し振り返るうち、女人のはかない世過ぎの風情に再び「花の色」が濃くにおってきます。こうして「うつりにけりな」の歎息を重い余韻として響かせながら、一首はしめやかに閉じられます。

伝説的存在としての小野小町に最も似つかわしいという意味でも、この歌は小町の決定的な代表作と言えましょう。いや、話は逆で、後世の小町壮衰伝説の淵源をなしたのがこの一首だった、と言うべきなのかも知れません。

なお定家はこの歌を『五代簡要』『定家八代抄』『近代秀歌(自筆本)』『詠歌大概』『八代集秀逸』にも撰び、また「たづね見る花のところも変はりけり身はいたづらのながめせしまに」「春よただ露のたまゆらながめしてなぐさむ花の色はうつりぬ」など、たびたび本歌取りを試みています。百人一首の歌の中でも格別に愛重の深い一首であったに違いありません。

(3月27日加筆訂正)

和漢朗詠集卷上 春色雨中盡 菅三品2010年03月25日

雨に濡れた桜 フォトライブラリー写真素材

春の色雨中に()く 菅原文時

花新開日初陽潤  花の新たに(ひら)くる日 初陽(そやう)(うる)へり
鳥老歸時薄暮陰  鳥の老いて帰る時 薄暮(はくぼ)(くも)れり

【通釈】桜が新たに開いた日は、春雨に濡れて、花に射す朝日もみずみずしくうるおっていた。
鶯の声も老いて谷に帰る今は、夕べの雨雲が垂れ込めて陰々と昏い。

【語釈】◇鳥老 春も暮れて鶯の声が老熟したことを言う。鶯を「鳥」としたのは前句の「花」との対偶のため。

【補記】和漢朗詠集の春の部の「雨」より。花が咲き始めた盛春の頃と、鳥が谷へ帰る暮春の頃を対比している。花・鳥、新・老、初陽・薄暮、と対偶。『日本紀略』によれば天延二年(974)三月二十八日、円融院主催の公宴で「春色雨中尽」の詩題が出されており、この時の作。原詩は散逸か。

【作者】菅原文時(899~981)。道真の孫。高視の子。天慶五年(942)、対策に及第し、内記・式部大輔などを経て、文章博士となる。従三位に叙せられ、菅三品の称がある。

【影響を受けた和歌の例】
夜の雨の露をのこせる花のうへににほひをそふる朝日かげかな(右衛門督『持明院殿御歌合』)
夜の露も光りをそへて朝日影まばゆきまでににほふ花かな(三条西実隆『雪玉集』)

雲の記録201003262010年03月26日

2010年3月26日午後2時18分

久々の晴天は巻積雲と積雲が混在する美しい空となった。気温はあまり上がらず、花冷えが桜の開花を遅らせている。写真は鎌倉の本覚寺にて、午後二時頃。

白氏文集卷十三 酬哥舒大見贈2010年03月27日

アンズの花 フォトライブラリーフリー素材

哥舒大(かじよだい)の贈られしに(むく)ゆ 白居易

去歳歡遊何處去  去歳の歓遊 何処(いづく)にか()
曲江西岸杏園東  曲江(きよくかう)西岸(せいがん) 杏園(きやうゑん)の東
花下忘歸因美景  花の(もと)に帰らむことを忘るるは美景に()つてなり
樽前勸酒是春風  (そん)の前に酒を勧むるは()れ春の風
各從微宦風塵裏  (おのおの)微宦(びくわん)に従ふ 風塵の(うち)
共度流年離別中  共に流年(りうねん)(わた)る 離別の(うち)
今日相逢愁又喜  今日(こんにち)(あひ)逢ひ (うれ)へて()た喜ぶ
八人分散兩人同  八人(はちにん)分散し 両人(りやうにん)は同じ

【通釈】去年、皆で楽しく遊んだのは何処だったか。
曲江の西岸、杏園の東だった。
花の下で帰ることを忘れたのは、あまりの美景ゆえ。
樽の前で酒を勧めたのは、うららかな春の風だった。
今おのおのは微官に任じられて、俗塵のうちにある。
互いに別れたまま、一年は流れるように過ぎた。
今日君と出逢えて、寂しくもあり、嬉しくもある。
八人は各地に分散しているが、君と僕の二人は同じここにいるのだ。

【語釈】◇曲江 長安にあった池。杜甫の詩で名高い。◇杏園 杏の花園。杏は春、白または淡紅色の花をつける。◇微宦 微官に同じ。身分の低い官吏。◇八人 前年、共に科挙に及第した八人。

【補記】友人の哥舒大から贈られた詩に応えた詩。自注に「去年與哥舒等八人、同登科第。今叙會散之意(去年哥舒等八人と、同じく科第に登る。今会散の意を叙す)」とあり、共に科挙に及第した八人の仲間と杏の花園で遊んだ日を懐かしんだ詩と知れる。和漢朗詠集の巻上「春興」に頷聯が引かれて名高く、第三句は謡曲『吉野夫人』『桜川』『鼓滝』『松虫』などにも引用されている。千里・慈円・定家の歌は「花下忘歸因美景」の句題和歌。それ以外は「花下忘歸」を題とする詠である。なお、白氏の詩では「花」はあんずの花を指すが、和歌では桜の花を指すことになる。

【影響を受けた和歌の例】
この里に旅寝しぬべし桜花ちりのまがひに家路わすれて(よみ人しらず『古今集』)
花を見てかへらむことを忘るるは色こき風によりてなりけり(大江千里『句題和歌』)
あづま路の老蘇の森の花ならば帰らむことを忘れましやは(源俊頼『散木奇歌集』)
春の山に霞の袖をかたしきていくかに成りぬ花の下臥し(慈円『拾玉集』)
時しもあれこし路をいそぐ雁がねの心しられぬ花のもとかな(藤原定家『拾遺愚草員外』)
帰るさもいかがおぼえむ散らぬまは千世もへぬべき花の木のもと(藤原為家『為家集』)
みな人の家ぢわするる花ざかりなぞしも帰る春の雁がね(後嵯峨院『新後撰集』)
散るまでは花にかへらじ春の風我が家桜さくとつげずは(正徹『草根集』)
かへるべき道かは花のきぬぎぬを入相の鐘におどろかすとも(後柏原院『柏玉集』)
けふくらす名残のみかは花のもとに年のいくとせなれし老ぞも(肖柏『春夢草』)
ふる里よ花し散らずはいかならむ立ち出でしままの春の木のもと(三条西実隆『雪玉集』)
比もいま雲ゐの花におもなれてかへり見もせぬ我が宿の春(烏丸光広『黄葉集』)
かへるさはなき心ちする我が玉や花のたもとに入相の鐘(木下長嘯子『挙白集』)
木のもとに今いくかあらばかへるべき我がふるさとを花に思はむ(中院通村『後十輪院内府集』)

【参考】謡曲『右近』
げにや花の下に帰らん事を忘るるは美景によりて花心馴れ馴れそめて眺めん

白氏文集卷六十六 尋春題諸家園林 又題一絶2010年03月30日

春の題を諸家の園林に尋ぬ 白居易

貌隨年老欲何如  (かほ)は年に随ひて老ゆるも 何如(いかん)せん
興遇春牽尚有餘  興は春に()ひて ()かれて()ほ余り有り
遙見人家花便入  遥かに人家(じんか)を見て 花あればすなはち()
不論貴賤與親疏  貴賤(きせん)親疏(しんそ)を論ぜず

【通釈】容貌は齢につれ老いるのも致し方ない。
楽しむ心は春に出遭い、誘い出されてなお余りある。
遥かに人家を眺めて、花が咲いていればただちに歩み入る。
身分が高いか低いか、親しい仲か疎い仲か、そんなことは気にしない。

【補記】馬元調本などでは巻三十三にある。同題の第二首。和漢朗詠集巻上春の部の「花」に第三・四句が引かれている。千里の歌は第三句の、慈円・定家の歌は第三・四句の句題和歌である。

【影響を受けた和歌の例】
よそにても花を哀れと見るからにしらぬ宿にぞまづ入りにける(大江千里『句題和歌』)
あるじをば誰ともわかず春はただ垣根の梅をたづねてぞ見る(藤原敦家『新古今集』)
花を宿のあるじとたのむ春なれば見にくる友をきらふものかは(慈円『拾玉集』)
はるかなる花のあるじの宿とへばゆかりもしらぬ野辺の若草(藤原定家『拾遺愚草員外』)

雲の記録201003302010年03月30日

2010年3月31日午後4時56分JR鎌倉駅前

花冷えが続くが、今日は快晴となる。段葛の桜は四分咲きほどの木も見られるようになった。空には巻層雲と飛行機雲。午後五時、鎌倉駅前にて。