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斉物論編 第二 荘周夢為胡蝶2010年01月22日

昔者、莊周、夢爲胡蝶、栩栩然胡蝶也、自喩適志與、不知周也、俄然覺、則蘧蘧然周也、不知、周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與、周與胡蝶、則必有分矣、此之謂物化、

昔者(むかし)、荘周、夢に胡蝶と為る。栩栩(くく)(ぜん)として胡蝶なり。自ら(たのし)みて(こころ)(かな)ふか、周なることを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然(きよきよぜん)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為れるか。周と胡蝶とは、(すなは)ち必ず分有らん。此れをこれ物化(ぶつか)()ふ。

【通釈】昔、荘周は蝶となる夢を見た。蝶となって浮き浮きと飛びまわった。愉しくて快適だったからか、おのれが周であることを自覚しなかった。にわかに目が覚めてみれば、驚いたことに周であった。周が夢で蝶となったのか、いま蝶が夢で周になっているのか、分からなかった。周と蝶とは、しかし必ず区別があるだろう。万物の変化とはこういうことを言うのである。

【語釈】◇栩栩然 喜び遊ぶさま。蘧蘧然 はっと驚くさま。「明確にはっきりとしたさま」の意ともいう。◇物化 物の変化。荘周と蝶のように、物は別の物へと変化するが、それは現象的なことに過ぎず、その区別は絶対的なものではない。人であろうと蝶であろうと《おのれ》であることに変わりはないからである。氷になろうが水蒸気になろうが水が《水》であることに変わりはないように。

【補記】『荘子』内篇斉物論編の十三、「荘周の夢」「胡蝶の夢」として名高い寓話の全文を引用した。物象の分別が如何に不確実なものであるかを説き、万物斉一の理を明かしている。『摩訶止観』に「荘周夢為胡蝶、翔翔百年、悟知非蝶」と引かれ、これと併せて我が国では夢と現実の区別のつけがたさ、あるいは人生のはかなさの寓話として受け取られる傾向が強かった。この話を踏まえた和歌は夥しく、以下にはごく一部を収載するのみである。

【影響を受けた和歌の例】
ももとせは花にやどりて過ぐしてきこの世は蝶の夢にぞありける(大江匡房『詞花集』)
花園の胡蝶となると見し夢はこはまぼろしかうつつとやせん(肥後『堀河百首』)
思ひわびぬせめて小蝶の夢もがな心の花のたのしみにせん(宗良親王『宗良親王千首』)
かりの世の色をはかなみ散る花にまじる胡蝶も夢をみよとや(正徹『草根集』)
虫のこゑ草の花野の秋の夢たえし胡蝶のまよふ雪かな(正徹『草根集』)
あかず見る花になれゆく胡蝶とはたが見る夢かまよひきぬらん(姉小路基綱『卑懐集』)
みし夢も胡蝶の夢も何かいはん我が思ひ寝の我が身なりける(後柏原院『柏玉集』)
思はじよ花にこてふのももとせも逢ひみん程はうたたねの夢(肖柏『春夢集』)
花や夢ゆめや花ともわかなくにまたも胡蝶の春やおくらん(三条西実隆『雪玉集』)
おもほえず我を胡蝶になしはてて夢の内野の花やみゆらん(松永貞徳『逍遥集』)
やどりつる胡蝶の夢も覚めざらん寝よげにみゆる春の若草(後水尾院『後水尾院御集』)
見し春もまがきの蝶の夢にしていつしか菊にうつる花かな(後水尾院『後水尾院御集』)
ゆきとまる陰を宿とて花に寝ば胡蝶の夢や今宵見てまし(契沖『漫吟集』)
花にぬる小蝶の夢の覚めもあへず有りしやそれと匂ふ梅が香(武者小路実陰『芳雲集』)
華にのみなれし日数も時のまに胡蝶の夢と春ぞ暮れゆく(冷泉為村『為村集』)
をしみかねまどろむ夢のたましひや花の跡とふ胡蝶とはなる(小沢蘆庵『六帖詠草』)
志賀の浦や今もたはるる花園の胡蝶よ夢かありし昔は(本居宣長『鈴屋集』)
ながくのみ咲きのこらなん藤のはな春は胡蝶の夢となるとも(木下幸文『亮々遺稿』)
うつりきて秋の花野に飛ぶ蝶の夢の果こそはかなかりけれ(熊谷直好『浦のしほ貝』)
夢さめて蝶はいぬめり花むしろたちもはなれぬ酔のまぎれに(加納諸平『柿園詠草』)
うかれきて花野の露にねぶるなりこはたが夢の胡蝶なるらん(大田垣蓮月『海人の刈藻』)

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