雲の記録20100624 ― 2010年06月24日
白氏文集卷二十 紫陽花 ― 2010年06月22日
何年植向仙壇上
早晩移栽到梵家
雖在人閒人不識
與君名作紫陽花 君が
【通釈】いつの年、仙境の辺に植えたのか。
いつこの寺に移し植えたのか。
人間界にあるのに人は知らない。
君のために紫陽花と名付けよう。
【語釈】◇向 「於」の意の前置詞。◇仙壇 仙人のたちの住む場所。仙境。招賢寺のある霊隠山をこう言った。◇早晩 いつ。当時の俗語という。◇梵家 寺。招賢寺を指す。◇紫陽花 紫は神仙の色。陽は「ひなた」、易学ではプラスの意。
【補記】作者は次のように自注を添えている。「招賢寺有山花一樹、無人知名、色紫気香、芳麗可愛、頗類仙物。因以紫陽花名之」(招賢寺に山花一樹有り、人の名を知るもの無し。色紫にして気香ばしく、芳麗愛す可く、頗る仙物に類す。因つて紫陽花を以て之を名づく)。すなわち抗州霊隠山の招賢寺に植えられていた名の無い花に「紫陽花」の名を付けたことを詠んだ詩である。日本であじさいを「紫陽花」と書くのはこの詩に由来する。なお中国でもアジサイ=繡球花の別名として「紫陽花」が用いられている(中国版Wikipedia)。
下に引用した歌は、あじさいならぬ「しもつけ」の名を隠した物名歌。「つけん」は「付けん」とも「告げん」とも取れるが、白居易の詩を踏まえたのなら前者と解すべきだろう。
【影響を受けた和歌の例】
植ゑて見る君だに知らぬ花の名を我しもつけん事のあやしさ(よみ人しらず『拾遺集』)
白氏文集卷十一 江上送客 ― 2010年06月19日
江上に客を送る 白居易
江花已萎絶
江草已銷歇
遠客何處歸
孤舟今日發
杜鵑聲似哭
湘竹斑如血
共是多感人 共に
仍爲此中別
【通釈】河辺の花はもう枯れ果ててしまった。
河辺の草はもう消え失せてしまった。
遠来の旅人はどこへ帰って行くのか。
君を乗せた一艘の舟が今日出航する。
ほととぎすは号泣するように鳴き、
湘竹のまだら模様は血の涙のようだ。
君も私も共に多感の人。
その二人が今ここに別れねばならぬとは。
【語釈】◇杜鵑 ほととぎす。我が国には初夏に渡来し、秋に中国南部に帰る。「杜」はこの鳥に化したとの伝がある蜀の望帝の名「杜宇」に由来する。◇湘竹 斑竹。舜の妃湘夫人が舜の死を傷み流した涙によって斑紋を生じたと伝え、この名がある。
【補記】長江のほとりで旅人を送ったことを詠んだ感傷詩。元和十四年(819)頃、忠州(四川省忠県)刺史時代の作。実隆・景樹の歌はいずれも「杜鵑声似哭」の句題和歌。
【影響を受けた和歌の例】
せきあへぬ思ひ有りともほととぎすふるさと人に心して啼け(三条西実隆『雪玉集』)
ほととぎす一むら雨のふりいでてなく涙さへ見ゆる空かな(香川景樹『桂園一枝』)
白氏文集卷十七 東牆夜合樹去秋爲風雨所摧、今年花時、悵然有感 ― 2010年06月17日
碧荑紅縷今何在
風雨飄將去不迴
惆悵去年牆下地
今春唯有薺花開
【通釈】碧い芽、紅い糸の合歓の花はどこに行ってしまったのか。
風雨に舞い上がり、去ったきり戻らない。
私は嘆き悲しむ。去年、垣根のほとりの地にあったのに
今年の春、そこにはただ
【語釈】◇夜合樹
【補記】前年の秋の風雨に折れた合歓木。花の季節を迎えてその不在を悲しんだ詩である。芭蕉の「よく見れば薺花咲く垣根かな」はこの詩を踏まえたものとする説がある。但し直接的には木下長嘯子の歌(下記引用歌)から影響を受けた可能性もある。
【影響を受けた和歌の例】
古郷のまがきは野らとひろく荒れてつむ人なしになづな花さく(木下長嘯子『挙白集』)
雲の記録20100617 ― 2010年06月17日
和歌歳時記:梅の実 Japanese apricot fruits ― 2010年06月14日
関東地方にも今日梅雨入り宣言が出されたさうだ。青々と肥え緊まつた梅の実が、黄に紅に熟してゆく季節となつた。
『通勝集』 梅雨 中院通勝
花ならぬ香もなつかしみ袖かけん色づく梅の雨のしづくに
漢語「
『三草集』 五月雨 松平定信
梅の実は緑の中に色わきて紅にほふさみだれのころ
こちらは江戸時代も後期の歌。
梅の実の
**************
『万葉集』巻三(藤原八束が梅の歌)
妹が家に咲きたる花の梅の花実にしなりなばかもかくもせむ
『草根集』(山新樹) 正徹
花ならぬ山の林になる梅の実さへ若葉の色に匂へる
(梅雨)
雪と見し花にたがひて梅が枝の実を紅にそむる雨かな
『芳雲集』(梅雨) 武者小路実陰
降る雨の絶えぬ雫に落ちそひて実さへ数ある梅の
『霞関集』(さみだれ) 石野広通
かぞふれば年をふる木の梅の実の色づく雨もここに久しき
『省諐録』(感情歌) 佐久間象山
我ほしといふ人もがな梅の実の時し過ぎなば落ちや尽きまし
『志濃夫廼舎歌集』(梅子) 橘曙覧
雨つつみ日を経てあみ戸あけ見れば
(梅酒たまはりけるよろこび)
梅のみのいとすき人と言はば言へえならぬ味に酔ひぞ狂へる
(五月)
『つきかげ』 斎藤茂吉
くれなゐににほひし梅に
『冬びより』 谷鼎
つぶつぶと
白氏文集卷十七 廬山草堂、夜雨獨宿、寄牛二・李七・庾三十二員外 ― 2010年06月13日
丹霄攜手三君子
白髮垂頭一病翁
蘭省花時錦帳下
廬山雨夜草庵中
終身膠漆心應在
半路雲泥迹不同
唯有無生三昧觀
榮枯一照兩成空
【通釈】朝廷に手を携えて仕えている、三人の君子たちよ、
こちらは白髪を垂らした病身の一老人。
君たちは尚書省の花盛りの季節、美しい帳のもとで愉しく過ごし、
私は廬山の雨降る夜、粗末な庵の中で侘しく過ごしている。
終生変わらないと誓った友情はなお健在だろうが、
人生の半ばにして、君たちと私には雲泥の差がついてしまった。
私はただ生死を超脱し、悟りを開いた境地に没入するばかり。
繁栄も衰滅も同じ虚像であって、いずれ
【語釈】◇丹霄 天空。ここでは朝廷の喩え。◇三君子 長安にいる旧友たち、寄牛二(牛僧孺)・李七(李宗閔)・庾三十二員外(庾敬休)を指す。◇一病翁 白居易自身を客観視して言う。◇蘭省 尚書省。宮中の図書館。◇錦帳 錦織のとばり。◇廬山 江西省九江県。◇膠漆 にかわとうるし。両者を混ぜると緊密に固まるので、不変の友情の喩えに用いる。◇無生三昧觀 生死を超脱し、悟りを開いた境地。◇一照 同じ仮の現象。仏教語。◇空 現象界には固定的実体がなこと。仏教語。
【補記】江州の司馬に左遷されていた元和十二年(817)~十三年、作者四十六、七歳頃の作。「香爐峯下、新卜山居…」と同じ頃である。廬山の草堂に宿した一夜の感懐を、長安の旧友に寄せた詩。和漢朗詠集巻下「山家」の部に「蘭省花時錦帳下 廬山雨夜草庵中」が引かれている。以下に引用した和歌はすべて「廬山雨夜草庵中」の句を踏まえたもの。「草庵雨」の題詠も多いが、この歌題自体が白詩に拠るものである。俊成・定家の影響で本説取りも多い。
【影響を受けた和歌の例】
さみだれに思ひこそやれいにしへの草の庵の夜半のさびしさ(親王輔仁『千載集』)
昔思ふ草の庵の夜の雨に涙なそへそ山時鳥(藤原俊成『新古今集』)
草の庵の雨にたもとを濡らすかな心より出でし都恋しも(慈円『拾玉集』)
草の庵は夜の雨をぞ思ひしに雪の朝もさびしかりけり(藤原家隆『壬二集』)
しづかなる山路の庵の雨の夜に昔恋しき身のみふりつつ(藤原定家『拾遺愚草員外』)
暮の秋橋に下だる夜の雨草の庵のうちならねども(藤原定家『夫木和歌抄』)
日数経ばもらぬ岩屋もいかならん草の庵の五月雨の頃(藤原為家『為家一夜百首』)
五月雨の草の庵の夜の袖しづくも露もさてや朽ちなん(藤原為家『続千載集』)
あけくれは心にかけし草のいほの雨のうちをぞ思ひ知りぬる(貞慶上人『続後撰集』)
夜の雨の音だにつらき草の庵になほ物思ふ秋風ぞ吹く(宗尊親王『瓊玉和歌集』)
心からすむ身なりとも夜の雨はさぞなさすがの草の庵を(常縁『常縁集』)
いかにせむ草の庵に山鳩の夜の雨よぶ夕暮の声(飛鳥井雅親『亜槐集』)
夜の雨にひとり思へば庵ふきし千草に憂きは此の世なりけり(正徹『草根集』)
たれかきく世のことわりも残りなき草の庵の暁の雨(肖柏『春夢草』)
花の時を思ひ出でては草の庵にきくもかなしき雨風の声(三条西公条『称名集』)
草の庵は雫も露もかけて聞く袖のうへなる夜半の村雨(武者小路実陰『芳雲集』)
しづかにて中々うちも寝られぬは草の庵の雨の夜な夜な(冷泉為村『為村集』)
名にふりし草の庵の雨の夜やわが身のあきの心なりけん(法印親瑜『続門葉和歌集』)
かくてしも世にふる身こそあはれなれ草の庵の五月雨の空(西音法師『続千載集』)
夜の雨はしらでくやしき昔だにさすがしのぶの草の庵かな(烏丸光広『黄葉集』)
草の庵にあはれと聞きし夜の雨はいまもたもとの雫なりけり(木下長嘯子『挙白集』)
仮寝する草の庵の夜の雨いつ捨てし身と成りて聞くべき(松永貞徳『逍遥集』)
人とはぬ草の庵の夜の雨にとはずがたりの虫のねぞする(松平定信『三草集』)
すむ人の袖もひとつに朽ちにけり草の庵のさみだれの頃(香川景樹『桂園一枝』)
【参考】『枕草子』
「蘭省花時錦帳下」と書きて、「末はいかにいかに」とあるを、いかにはすべからん。御前のおはしまさば御覧ぜさすべきを、これが末を知り顏に、たどたどしき真名は書きたらんも、いと見ぐるし、と思ひまはす程もなく責めまどはせば、ただその奧に炭櫃に消え炭のあるして、「草の庵を誰かたづねん」と書きつけて取らせつれど、また返事もいはず。
『唯心房集』寂然
蘭省に花の にほふとき 錦の帳をぞ 思ひやれ 香爐峰の 夜の雨に 草のいほりは しづかにて
(6月14日訂正)
百人一首 なぜこの人・なぜこの一首 第11番:参議篁 ― 2010年06月11日
わたの原
【なぜこの人】
参議
六歌仙の僧正遍昭や在原業平よりも一時代前の人で、生れは延暦二十一年(802)。大伴家持が万葉集の巻末の歌を詠んでから四十三年後、世はいわゆる「国風暗黒時代」を迎えていました。宮廷の晴の文藝は漢詩に取って代わられ、和歌は士大夫から見向きもされなくなっていた時代、篁は独り和歌にも心を配っていたと見えます。言わば万葉集と六歌仙の間の空白を埋める歌人と言え、和歌史上貴重な存在です。
古今集に六首の歌を残し、いずれも佳詠で、この人の詞藻の豊かさが偲ばれます。
もとより本領は漢詩にあり、彼の抜群の詩才を伝える逸話はいくつかありますが、中でも有名なのは大江匡房『江談抄』に書き留められたエピソードです。
ある日離宮に篁を召した嵯峨天皇は、秘蔵していた白氏文集の詩句を一文字だけ変え、自作として篁に示し、意見を問いました。すると篁はその変更した一字を指摘して改案を奏上しましたが、その改案はまさに白楽天の原詩通りだったのです。天皇は大いに驚き、「汝の詩情は楽天と同じきなり」と賞賛したと言います。
これによれば当時篁はまだ白氏文集を知らなかったことになりますが、彼の遣唐副使時代の詩には白楽天の影響が見え(小島憲之『国風暗黒時代の文学』)、篁は白詩の最初期の受容者であったことが知られます。
白氏文集はやがて日本の貴族・文人の間で大流行し、王朝和歌や源氏物語に決定的な影響を与えることになります。藤原定家も白楽天の詩を愛すること甚だ深く、白詩に倣った漢詩句を自ら作ったりもしています。彼にとって白氏文集は詩想を汲む涸れない泉の如きものでした。
白楽天に並び立つと称された詩才の持ち主として、また和漢兼作の先駆者として、定家に限らず、当時の文人たちの篁に寄せる敬意には浅からぬものがあったことでしょう。
【なぜこの一首】
百人一首の参議篁の歌は、古今集では次のように詞書を付して載っています。
隠岐の国に流されける時に、舟にのりて出でたつとて、京なる人のもとにつかはしける
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣舟
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光琳カルタ 参議篁 |
出航地は不詳ですが、難波と考えるのが普通です。瀬戸内海を航行し、関門海峡を抜けて日本海に出、隠岐を目指すというのが当時の一般的なルートでした。なればこそ「八十島かけて」には万感の思いが募りましょう。
悲愴な心情を詠みつつ、一首の調べは高い緊張を保ち、むしろ雄壮たる響きがあります。これは一つには、初二句が"watanohara yasosima kakete"とa音が多いため歌い出しに勢いがつき、その勢いのまま「人には告げよ」の命令形へ繋げているところに由来するでしょう。そして結句、人ならぬ「海人の釣舟」に呼びかけて一首の余韻を深くしています。「只今我に対する物は、釣舟ばかり也。仍大やうに人にはつげよといへり。心なき釣舟に人にはつげよといへる心、尤感ふかし」(『百人一首抄』)。戦国武将でもあった細川幽斎の評です。
この歌は藤原公任によって高い評価を受け、『
定家はと言うと、『定家八代抄』に撰入したくらいで、古歌を多く採った『秀歌大躰』にさえ入れず、篁のこの歌を決して秀逸とは見ていなかったようです。本歌取りをした形跡もなく、愛誦していたとも思えません。
ところが百人一首を撰する直前、『八代集秀逸(別本)』に突然この歌を採っているのは、どうしたことでしょう。
『八代集秀逸』は、定家の日記『明月記』の記事から、当時隠岐に流されていた後鳥羽院の発意になる撰集であると推測されています。隠岐への旅立ちを詠んだ篁の歌を撰んだのは、院に対する何らかのメッセージだったのではないでしょうか。
そこで注目されるのが『百人秀歌』における猿丸大夫との合せです。
07 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣舟
08 奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき
「一見意外な合せであるが、片や配所へ向けて漕ぎ出る人を、片や深山へ帰ってゆく小牡鹿を、見送る哀切を以てしたのであろう」と安東次男は暗示に富んだ指摘をしました(『百首通見』)。
二首を並べて見て、私は、遠島へと漕ぎ出た人を、見当外れの奧山に探して泣く鹿(あるいは猿?)――という、奇妙にして哀切な情景を思い浮かべます。両者が出逢うことは決してありません。
大海原の彼方、隠岐に流された後鳥羽院を想起せざるを得ない篁の歌に、定家は奥山の隠逸歌人猿丸大夫の歌を合せているのです。
なお、後鳥羽院に対する定家の複雑な心情を百人一首の撰集過程に跡付け、詳述したのは、私が知る限りでは樋口芳麻呂氏の論文「百人秀歌から百人一首へ」(昭和四十七年『文学』)とその続篇「『百人一首』への道」(昭和五十年『文学』)が最初です。これらに反論した石田吉貞の文章と共に、百人一首研究史を画する名論文でした。
後鳥羽院・定家の関係について私の思うところは、「なぜこの人、なぜこの一首」を追究しつつ、折々触れる機会もあるでしょう。
【なぜこの位置】
百人一首の配列でよく不審とされるのが、篁が小町より後に置かれていることです。というのも、一説に篁は小野小町の祖父とされているためです(尊卑分脉など)。もっとも、定家の時代にそうした説があったことは確認できません。小町は「承和比人歟」(三十六歌仙伝)、すなわち仁明天皇の頃の人とされ、嵯峨天皇の時代に既に文章生であった篁より後代の人という認識はあったと思います。そこで『百人秀歌』では篁が7番、小町が13番となっているのですが、百人一首では小町が9番に上がり、篁が11番に下がっています。この点については、喜撰法師の章で考察しましたので、そちらを御覧下さい。
(2010年10月26日加筆訂正)
和漢朗詠集卷上 夏夜 ― 2010年06月08日
空夜窗閑螢度後
深更軒白月明初
【通釈】蛍が通り過ぎたあと、暗い夜空に窓はひっそりしている。
月が明るく射し始めると、深夜でも軒先は白々としている。
【語釈】◇空夜 月が出ていない夜。「こうや」は古くからの読み癖。
【補記】和漢朗詠集の作者表記は「白」すなわち白居易とするが、誤り。釈信阿私注によれば題「夜陰に房に帰る」、作者は「紀納言」すなわち紀長谷雄。原詩は散逸。宮内卿の歌は両句の本説取り。
【影響を受けた和歌の例】
ながむれば心もつきぬ行く蛍窓しづかなる夕暮の空(藤原俊成『五社百首』)
軒しろき月の光に山かげの闇をしたひてゆく蛍かな(宮内卿『玉葉集』)
たえだえに飛ぶや蛍のかげみえて窓しづかなる夜半ぞすずしき(宗尊親王『竹風和歌抄』)
我が心むなしき空の月影を窓しづかなる菴にぞ見る(頓阿『頓阿句題百首』)
しづかなる夜半の窓より思ふ事むなしき空の月を見るかな(頓宗『頓阿句題百首』)
軒しろき月かとみれば更くる夜の衣にほはす梅の下風(正徹『草根集』)
閑かなる窓に月ある深き夜になほ夢はらふ荻のうは風(飛鳥井雅親『続亜槐集』)
荻の音にうちおどろけば軒白し夜ぶかき月や空にほのめく(三条西実隆『雪玉集』)
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