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百人一首 なぜこの人・なぜこの一首 第11番:参議篁2010年06月11日

参議篁

わたの原八十島(やそしま)かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人(あま)の釣舟

【なぜこの人】
参議(たかむら)は小野氏の出身。遣隋使として名高い小野妹子の子孫に当たります。父は我が国最初の勅撰漢詩集『凌雲集』の撰者である岑守(みねもり)。篁自身も漢詩人として名を馳せ、『野相公集』五巻を残しました。定家の頃にはまだ伝存していたようですが、その後散佚してしまい、今では『経国集』や『和漢朗詠集』といった詞華集にその文才の片鱗を見るばかりです。

六歌仙の僧正遍昭や在原業平よりも一時代前の人で、生れは延暦二十一年(802)。大伴家持が万葉集の巻末の歌を詠んでから四十三年後、世はいわゆる「国風暗黒時代」を迎えていました。宮廷の晴の文藝は漢詩に取って代わられ、和歌は士大夫から見向きもされなくなっていた時代、篁は独り和歌にも心を配っていたと見えます。言わば万葉集と六歌仙の間の空白を埋める歌人と言え、和歌史上貴重な存在です。
古今集に六首の歌を残し、いずれも佳詠で、この人の詞藻の豊かさが偲ばれます。

もとより本領は漢詩にあり、彼の抜群の詩才を伝える逸話はいくつかありますが、中でも有名なのは大江匡房『江談抄』に書き留められたエピソードです。
ある日離宮に篁を召した嵯峨天皇は、秘蔵していた白氏文集の詩句を一文字だけ変え、自作として篁に示し、意見を問いました。すると篁はその変更した一字を指摘して改案を奏上しましたが、その改案はまさに白楽天の原詩通りだったのです。天皇は大いに驚き、「汝の詩情は楽天と同じきなり」と賞賛したと言います。
これによれば当時篁はまだ白氏文集を知らなかったことになりますが、彼の遣唐副使時代の詩には白楽天の影響が見え(小島憲之『国風暗黒時代の文学』)、篁は白詩の最初期の受容者であったことが知られます。

白氏文集はやがて日本の貴族・文人の間で大流行し、王朝和歌や源氏物語に決定的な影響を与えることになります。藤原定家も白楽天の詩を愛すること甚だ深く、白詩に倣った漢詩句を自ら作ったりもしています。彼にとって白氏文集は詩想を汲む涸れない泉の如きものでした。
白楽天に並び立つと称された詩才の持ち主として、また和漢兼作の先駆者として、定家に限らず、当時の文人たちの篁に寄せる敬意には浅からぬものがあったことでしょう。

【なぜこの一首】
百人一首の参議篁の歌は、古今集では次のように詞書を付して載っています。

隠岐の国に流されける時に、舟にのりて出でたつとて、京なる人のもとにつかはしける

わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣舟

光琳カルタ 篁 上句
光琳カルタ 篁 下句
光琳カルタ 参議篁
承和五年(838)、遣唐副使であった篁は大使藤原常嗣(つねつぐ)の理不尽な要求に憤り、病と称して進発しなかった上、遣唐使をめぐって諷刺詩を作ったため、嵯峨上皇の怒りに触れ隠岐遠流(おんる)の刑に処されてしまいます。舟に乗って遠島の流刑地へ発つに際し、京にある人(家族でしょう)のもとに贈ったというのがこの歌です。

出航地は不詳ですが、難波と考えるのが普通です。瀬戸内海を航行し、関門海峡を抜けて日本海に出、隠岐を目指すというのが当時の一般的なルートでした。なればこそ「八十島かけて」には万感の思いが募りましょう。

悲愴な心情を詠みつつ、一首の調べは高い緊張を保ち、むしろ雄壮たる響きがあります。これは一つには、初二句が"watanohara yasosima kakete"とa音が多いため歌い出しに勢いがつき、その勢いのまま「人には告げよ」の命令形へ繋げているところに由来するでしょう。そして結句、人ならぬ「海人の釣舟」に呼びかけて一首の余韻を深くしています。「只今我に対する物は、釣舟ばかり也。仍大やうに人にはつげよといへり。心なき釣舟に人にはつげよといへる心、尤感ふかし」(『百人一首抄』)。戦国武将でもあった細川幽斎の評です。

この歌は藤原公任によって高い評価を受け、『金玉集(きんぎよくしゆう)』『深窓秘抄』『和漢朗詠集』といった彼の詞華選に採られて、平安時代すでに名歌の誉れ高い一首でした。
定家はと言うと、『定家八代抄』に撰入したくらいで、古歌を多く採った『秀歌大躰』にさえ入れず、篁のこの歌を決して秀逸とは見ていなかったようです。本歌取りをした形跡もなく、愛誦していたとも思えません。

ところが百人一首を撰する直前、『八代集秀逸(別本)』に突然この歌を採っているのは、どうしたことでしょう。
『八代集秀逸』は、定家の日記『明月記』の記事から、当時隠岐に流されていた後鳥羽院の発意になる撰集であると推測されています。隠岐への旅立ちを詠んだ篁の歌を撰んだのは、院に対する何らかのメッセージだったのではないでしょうか。

そこで注目されるのが『百人秀歌』における猿丸大夫との合せです。

07 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣舟
08 奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき

「一見意外な合せであるが、片や配所へ向けて漕ぎ出る人を、片や深山へ帰ってゆく小牡鹿を、見送る哀切を以てしたのであろう」と安東次男は暗示に富んだ指摘をしました(『百首通見』)。
二首を並べて見て、私は、遠島へと漕ぎ出た人を、見当外れの奧山に探して泣く鹿(あるいは猿?)――という、奇妙にして哀切な情景を思い浮かべます。両者が出逢うことは決してありません。
大海原の彼方、隠岐に流された後鳥羽院を想起せざるを得ない篁の歌に、定家は奥山の隠逸歌人猿丸大夫の歌を合せているのです。

なお、後鳥羽院に対する定家の複雑な心情を百人一首の撰集過程に跡付け、詳述したのは、私が知る限りでは樋口芳麻呂氏の論文「百人秀歌から百人一首へ」(昭和四十七年『文学』)とその続篇「『百人一首』への道」(昭和五十年『文学』)が最初です。これらに反論した石田吉貞の文章と共に、百人一首研究史を画する名論文でした。
後鳥羽院・定家の関係について私の思うところは、「なぜこの人、なぜこの一首」を追究しつつ、折々触れる機会もあるでしょう。

【なぜこの位置】
百人一首の配列でよく不審とされるのが、篁が小町より後に置かれていることです。というのも、一説に篁は小野小町の祖父とされているためです(尊卑分脉など)。もっとも、定家の時代にそうした説があったことは確認できません。小町は「承和比人歟」(三十六歌仙伝)、すなわち仁明天皇の頃の人とされ、嵯峨天皇の時代に既に文章生であった篁より後代の人という認識はあったと思います。そこで『百人秀歌』では篁が7番、小町が13番となっているのですが、百人一首では小町が9番に上がり、篁が11番に下がっています。この点については、喜撰法師の章で考察しましたので、そちらを御覧下さい。

(2010年10月26日加筆訂正)

コメント

_ ぱぐ ― 2010年06月13日 08時34分

おはようございます。
定家がこの歌を愛唱してなかったというのはおもしろいですね。
ご紹介下さっている初学百首を読むと、定家は純文学志向なんだなあと思わされます。わたしは国文出身ですが、中学生の時に司馬遼太郎にいかれて(笑)以来、「おもしろい読みもの」に惹かれてきたので、純文学がニガテで、文芸雑誌もほとんど読みません。
樋口芳麻呂(国文学者らしい名前ですね(^^)の論文については、「ミステリを読んでいるみたい」と丸谷才一が書いていました。実際、一時期ミステリに凝っていた時期があったそうです。
篁と蝉丸で一対というのはうなづける話ですね。

_ 水垣 ― 2010年06月13日 22時58分

こんばんは。
「定家が愛唱していなかった」と断言はもちろん出来ないのですが、あまり好みの歌ではなかったことは確かだろうと思います。
定家が「純文学志向」というのは面白いですね。確かに、分かりやすさや面白さを拒絶していたところはあると思います。
古典の和歌と漢詩を踏まえて、そこにさらに何か新しいものをどうやって付け加えてゆくかということを、突き詰めて考え続けていたような感じがします。「新しい」と言っても、珍しいとか新奇なものとかいうのではなくて、古典を継承しつつ変奏することを狙ってるので、読む方も細心の集中力を常に要求されます。

私は研究論文を読むのが余り好きでありませんが、樋口芳麻呂氏の論文は本当に面白かったです。丸谷才一氏が編集した文芸読本「百人一首」に収録されていたので、図書館に昔の雑誌を探しに行かなくても読めました。ありがたいことです。

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