和歌歳時記:花橘(はなたちばな) Citrus flower ― 2010年05月22日
古語の「たちばな」は特にニホンタチバナを指すこともあるが、また食用柑橘類の総称を兼ねる。ミカンの仲間といふことだ。初夏に咲く白い花はどれもよく似てゐて、温州みかんやら夏みかんやら、柚子やら金柑やら、私にはさつぱり区別がつかない。写真は奈良県天理市、山の辺の道沿ひの果樹園で撮つたもの。
「たちばな」の名の由来は神話の
五月 待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする
古今集、夏、よみ人しらず。
プルーストの『失はれた時を求めて』の語り手も紅茶に浸したマドレーヌの匂ひと味に触発されて「失はれた時」への旅に出発するが、匂ひといふものには遠い記憶を「たち」あげる不思議な力がある。
五月を待つて咲いた橘の花――その香をかいだ瞬間、ふいに昔の恋人の袖の香がした、といふ。「袖の香」とは、各種の香料を練り合はせて袖に染めた
橘の花は、陰暦五月といふ聖なる田植月、恋人たちが逢ふことを禁じられた忌み月を待つて咲くので、ましてやその香は切ない恋心を呼び起こしたことだらう。
この歌以後、花橘を詠んだ歌のほとんど全ては懐旧の情と結び付けて詠まれることになる。
『新千載集』 嘉元百首歌奉りける時、盧橘 贈従三位為子
袖の香は花橘にかへりきぬ面影みせようたたねの夢
うたた寝の夢に薫つた橘の花によつて、不意に昔の人の袖の香が甦つた。寝覚めて思ふ、香りだけでなく、いつそあの人の面影も見せてくれと。
前掲のよみ人しらず歌を、新古今集の式子内親王詠「かへりこぬ昔をいまと思ひ寝の夢の枕ににほふ橘」の夢の趣向を経由して本歌取りした、鎌倉時代末期の歌。現実には帰り来ることのない遠い恋ゆゑ、ただ夢に縋るしかない。さまざまな古歌の記憶を呼び起こし、重ね合はせて情趣を深めるところ、二条派和歌の真髄を見る思ひがする。
なほ、作者は間違はれやすいが、京極為兼の姉の為子でなく、二条為世の子で、後醍醐天皇との間に宗良親王を生んだ人。歌道家二条家の名花ともいふべき貴い閨秀歌人である。
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『万葉集』(花を詠める) 作者未詳
風に散る花橘を袖に受けて君が
雨間明けて国見もせむを故郷の花橘は散りにけむかも
『万葉集』(十六年四月五日独居平城故宅作歌) 大伴家持
橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ
鶉鳴く古しと人は思へれど花橘のにほふこの宿
『詞花集』(世をそむかせ給てのち、花橘を御覧じてよませ給ける) 花山院
宿近く花橘は掘り植ゑじ昔をしのぶつまとなりけり
『後拾遺集』(花橘をよめる) 相模
五月雨の空なつかしく匂ふかな花橘に風や吹くらむ
『千載集』(百首歌めしける時、花橘の歌とてよませ給うける) 崇徳院
五月雨に花橘のかをる夜は月すむ秋もさもあらばあれ
『新古今集』(題しらず) 藤原俊成
誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば
『式子内親王集』
いにしへを花橘にまかすれば軒のしのぶに風かよふなり
『新古今集』(百首歌たてまつりし時、夏歌) 式子内親王
かへりこぬ昔をいまと思ひ寝の夢の枕ににほふ橘
『新古今集』(守覚法親王、五十首歌よませ侍りける時) 藤原定家
夕暮はいづれの雲のなごりとて花たちばなに風の吹くらむ
『千載集』(花橘薫枕といへる心をよめる) 藤原公衡
折しもあれ花橘の香るかな昔を見つる夢の枕に
『新古今集』(題しらず) 俊成卿女
橘のにほふあたりのうたたねは夢も昔の袖の香ぞする
『土御門院御集』(夏)
ももしきの庭の橘思ひ出でてさらに昔をしのぶ袖かな
『玉葉集』(題しらず) 宇都宮景綱
五月待つ花のかをりに袖しめて雲はれぬ日の夕暮の雨
『新続古今集』(延文百首歌に、盧橘) 二条為明
うたたねのとこ世をかけてにほふなり夢の枕の軒の橘
『永享百首』(橘) 後崇光院
袖の香を花橘に残してもわが昔には思ひ出もなし
『草根集』(盧橘) 正徹
風さそふ花橘をそらにしておほふも雲の袖の香やせん
『新続古今集』(百首歌奉りし時) 飛鳥井雅世
言の葉の花橘にしのぶぞよ代々のむかしの風の匂ひを
『南都百首』(橘) 一条兼良
いにしへをみきのつかさの袖の香や奈良のみやこにのこる橘
『十躰和歌』(古郷橘) 心敬
なき玉や古りにし宿に帰るらん花橘に夕風ぞ吹く
『晩花集』(たち花) 下河辺長流
『漫吟集類題』(橘) 契沖
橘の陰ふむ道にしのべども昔ぞいとど遠ざかりゆく
コメント
_ ぱぐ ― 2010年05月22日 17時27分
_ 水垣 ― 2010年05月23日 14時23分
旅行していて、ちょっと更新をお休みしてました。早速のコメントありがとうございます。
この歌は初心者にも分かりやすく、和歌の入門編にはぴったりですね。
年を経て読むとまた味わいが深まったりもするでしょう。
花橘を詠んだ古歌は厖大な数にのぼりますが、そのほとんどがこの歌の本歌取りですから、いったいどれほどの影響歌を生んだことでしょう。それだけで一冊の歌集が出来そうです。
花橘は要するにミカンの花ですが、そう言えば童謡「みかんの花咲く丘」も「思い出の道 丘の道」「何時か来た丘 母さんと」と昔を懐かしく思い出す詞ですね。
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「五月(さつき)待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」
わたしがこの歌を知ったのは、わたしに古典の面白さを教えてくれた恩師の古典の時間(中学?中高一貫校でしたので)だったか、大岡信さんの「折々のうた」だったか……
これこそ古今集を代表する歌だと思ってきました。
京都御所の「右近の橘、左近の桜」も思い出しますしね。
なつかしい歌です。これを本歌取りにした歌は山ほどありますねえ。