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和歌歳時記:忘れ草 萱草(かんぞう/くわんざう) Daylily2010年07月19日

忘れ草(藪萱草)

和歌に「忘れ草」と詠まれてゐるのは、ユリ科の萱草(くわんざう)。藪萱草(ヤブクワンザウ)・野萱草(ノクワンザウ)など幾種類かある。夏、百合に似た橙色の花を咲かせる。英名"daylily"は一日花ゆゑ。若葉は美味で食され、根は生薬となる。歌に詠まれたのは花でなくもつぱら草葉である。

忘れ草わが紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため

万葉集巻三、大伴旅人。大宰府に在つて、故郷への慕情を断ち切りたいとの心情を詠んだ歌。
漢土で「忘憂草」すなはち「憂ひを忘れさせる草」と呼ばれたのは、食用とされる若葉に栄養分が多かつた故のやうだが、万葉人たちは身につければ恋しさを忘れさせてくれる草として歌に詠んでゐる。紐に付けるとは、いはば魂に結びつける擬態だらう。

忘れ草我が下紐に付けたれど(しこ)醜草(しこぐさ)(こと)にしありけり

万葉集巻四、大伴家持。数年間の離絶を経て、再び文通を始めた頃、従妹で将来の妻坂上(さかのうへの)大嬢(おほいらつめ)に贈つた歌。「恋を忘れるといふ忘れ草を下着の紐に着けたけれど、馬鹿草め、言葉だけのものでしたよ」。

藪萱草の若葉 鎌倉収玄寺にて
忘れ草の若葉

平安時代の歌を見ると、やはり「恋を忘れる草」には違ひないが、少しニュアンスが異つてくる。藤原兼輔の作に、

かた時も見てなぐさまむ昔より憂へ忘るる草といふなり

とあり、そばに置いて眺めるだけで憂へを忘れる草に変はつてゐるのだ。また同じ頃には住吉の海辺が忘れ草の名所となつてゐて、紀貫之は

道しらば摘みにもゆかむ住の江の岸におふてふ恋忘れ草

と、長途の旅をも厭はずこの草を摘みに行きたいと歌つた(古今集墨滅歌)。

一般にワスレグサと呼ばれるのは薮萱草で、文字通り薮陰などで野生化してゐるのをよく見かける。黄色の条が入つた色合はなかなか美しいが、重弁で、ちよつとゴテゴテした、くどい感じのする花だ。対して一重の野萱草は涼やかで、見入るうちに本当に憂ひも忘れてしまひさうだ。下に掲げる写真は鎌倉の「萩の寺」として名高い宝戒寺の庭に咲いてゐた野萱草。

野萱草
野萱草の花

因みに忘れ草と正反対の名を持つ「忘れな草」はヨーロッパ原産のムラサキ科の多年草。淡い青紫色の可憐な花をつけるが、古典和歌には詠まれてゐない。

**************

  『小町集』 小野小町
わすれ草我が身につまんと思ひしは人の心におふるなりけり

  『古今集』(題しらず) よみ人しらず
恋ふれども逢ふ夜のなきは忘草夢ぢにさへやおひしげるらむ

  『古今集』(詞書略) 素性法師
忘草なにをかたねと思ひしはつれなき人の心なりけり

  『古今集』(詞書略) 壬生忠岑
すみよしと海人は告ぐとも長居すな人忘れ草生ふといふなり

  『貫之集』(わすれぐさ) 紀貫之
うちしのびいざすみの江に忘れ草忘れし人のまたや摘まぬと

  『後撰集』(詞書略) 紀長谷雄
我がためは見るかひもなし忘れ草わするばかりの恋にしあらねば

  『拾遺集』(詞書略) よみ人しらず
わが宿の軒のしのぶにことよせてやがても茂る忘れ草かな

  『後拾遺集』(住吉に参りてよみ侍りける) 平棟仲
忘れ草つみてかへらむ住吉のきしかたのよは思ひ出もなし

  『金葉集』(恋歌よみけるところにてよめる) 源俊頼
忘れ草しげれる宿を来てみれば思ひのきよりおふるなりけり

  『拾遺愚草』(恋) 藤原定家
下紐のゆふてもたゆきかひもなし忘るる草を君やつけけん

  『夫木和歌抄』(嘉元元年百首、不逢恋) 冷泉為相
下紐につけたる草は名のみして心にかれぬ人の面影

  『亜槐集』(切恋) 飛鳥井雅親
つまばやな忘れははてぬ忘れ草やすめて心またつくすとも

  『晩花集』(恋の歌とて) 下河辺長流
我がためは摘むも拾ふもしるしなき恋忘れ草恋忘れ貝

  『赤光』 斎藤茂吉
萱草(くわんざう)をかなしと見つる眼にいまは雨にぬれて行く兵隊が見ゆ

  『秋天瑠璃』 斎藤史
思ひ草繁きが中の忘れ草 いづれむかしと呼ばれゆくべし

歌枕:いたち川(神奈川県横浜市栄区)2010年07月19日

いたち川 神奈川県横浜市栄区

先週の金曜、横浜市栄区に要あつて出向き、通りかかつた川のほとりに和歌の案内板を見かけた。兼好法師が「いたちがは」の名を各句の頭に詠みこんだ折句歌だといふ。

いたち川和歌案内板

いかにわが たちにしひより ちりのきて かぜだにねやを はらはざるらん

帰宅して『兼好法師集』を繙くと、次のやうに出てゐた。

さがみの国いたち河といふところにて、このところの名を句の(かしら)に据ゑて、旅の心を

いかに我がたちにし日より塵のゐて風だに閨を払はざるらん

締め切つた閨には風も吹かず塵が積もつたことだらうと、旅先から洛外の庵を思ひやつた歌。二度目の東下りの際の旅中詠で、相模国では他にこよろぎの磯(大磯市)、金沢(横浜市金沢区)でも歌を残してゐる。

さて《いたち川》は今も同じ名で呼ばれてゐる二級河川で、横浜市栄区を流れて柏尾川に注ぎ、柏尾川は藤沢市で境川に合流して相模湾に至る。「いたち」の字は「㹨」といふ珍しい字を用ゐるのが正式らしい。

いたち川遊歩道

川沿ひは緑豊かな遊歩道になつてゐて、木陰が心地よい。高度成長期にはコンクリートの護岸を築いたといふが、水質が悪化したため1980年代に水辺の復元工事を始め、今ではかなり自然が回復してゐる様子だ。都市河川の擬似自然護岸として、海外からも注目されてゐるといふ(参考:ウェブサイト「いたち川」)。
少し上流に溯ると、いたちの親子が遊んでゐた。魚を狙つてゐるのだらうか、ぴくりとも動かない。

いたちの親子

「いたち川」の語源は「いでたち川」かといふ(Wikipedia)。栄区は横浜市の南端、鎌倉市と隣接する地で、かつては相模国鎌倉郡に属した。古人はこの川を渡り、鎌倉から各地へ「出で立つ」て行つたのだらう。

兼好の歌以外に詠まれた例は見つからないので、《歌枕》と呼んでよいかにはためらひがある。もう少し探してみるとしよう。

(2012年10月10日加筆訂正)

雲の記録201007192010年07月19日

2010年7月19日午後6時59分鎌倉市二階堂

雲が多めの夕方、いつもより蜩が盛んに鳴き、時鳥も久しぶりに飛び鳴きを聞かせてくれる。犬と散歩の帰り道、ふと空を振り仰ぐと、さっきよりむしろ明るくなっているのは、夕焼が巻積雲に反映しているのだった。

雲の記録201007202010年07月20日

2010年7月20日午後7時4分鎌倉市二階堂

梅雨が明けて、夕焼の美しい季節となった。因みに俳句では「夕焼」は晩夏の季語とされている。

但能心靜即身涼2010年07月21日

イメージ写真 具満タンフリー素材

白氏文集卷十五 苦熱題恆寂師禪室
熱に苦しみ、恒寂師(こうじやくし)の禅室に題す 白居易

人人避暑走如狂  人人(しよ)を避け走りて(きやう)するが如し
獨有禪師不出房  独り禅師の(ばう)を出でざる有り
不是禅房無熱到  ()れ禅房に熱の到ること無きには(あら)
但能心靜即身涼  ()()く心静かなれば即ち身も涼し

【通釈】世の人々は暑さを避けて狂ったように家を逃げ出す。
独り禅師のみは房中に籠もったままでいる。
師の禅室にも炎熱が押し寄せないわけではない。
ただ心を静かに澄ませていれば、そのまま身も涼しくなるのである。

【補記】酷暑の候、恒寂師(不詳)の禅室に題した詩。和漢朗詠集の巻上夏「納涼」に第三・四句が引かれている。那波本は第三句「可是…」とし、この場合「(はた)して()れ…」と訓まれる。大江千里と一条実経の歌は第四句の、他は第三・四句の句題和歌である。因みに結句は()荀鶴(じゆんかく)の「滅却心頭火亦涼(心頭滅却すれば火も亦た涼し)」に似るが、白詩の方が時代は先んじる。

【影響を受けた和歌の例】
我が心しづけき時は吹く風の身にはあらねど涼しかりけり(大江千里『句題和歌』)
心をや御法の水もあらふらむひとりすずしき松のとざしに(慈円『拾玉集』)
嵐山すぎの葉かげのいほりとて夏やはしらぬ心こそすめ(藤原定家『拾遺愚草員外』)
しづかなる心ぞ夏をへだてけるてる日にもるる宿ならねども(寂身『寂身法師集』)
おのづから心しづけきむろの中は身さへ涼しき夏衣かな(藤原為家『為家集』)
人とはぬ深山の庵のしづけきに夏なきものは心なりけり(一条実経『円明寺関白集』)

雲の記録201007212010年07月21日

2010年7月21日午後7時9分鎌倉市二階堂

今朝、ミンミン蝉の声を初めて聞いた。梅雨明け直後のスカッとした夏空から、もやったような白っぽい青空に変わってしまったが、夕焼は今日もきれいだった。

和漢朗詠集卷上 夏 納涼2010年07月23日

夏日閑避暑 英明(えいめい)
夏の日(かん)にして暑を避く (みなもとの)英明(ふさあきら)

池冷水無三伏夏  池冷やかにして水に三伏(さんぷく)の夏無し
松高風有一聲秋  松高うして風に一声(いつせい)の秋有り

【通釈】池の冷やかな水には、三伏の夏も存在しない。
松の高い梢を吹く風には、はや秋の声を聞く感がある。

【語釈】◇三伏 立秋前後三十日の盛暑の候。夏至の後、第三の(かのえ)の日を初伏、第四の庚の日を中伏、立秋後の最初の庚の日を末伏と言い、合せて三伏と言う。西暦2010年で言えば7月19日から8月17日まで。

【補記】題は釈信阿私注による。原詩は散逸か。両句とも句題和歌の題とされている。また謡曲『天鼓』『東北』『西行桜』などに引かれている。

【作者】源英明は宇多天皇の皇子斉世親王の子。菅原道真を母方の祖父にもつ。従四位左近衛中将。生年未詳、天慶二年(939)没。

【影響を受けた和歌の例】
・「池冷水無三伏夏」の句題和歌
昆陽(こや)の池のみぎはは風の涼しくてここには夏を知らで()るかな(藤原隆房『朗詠百首』)
・「松高風有一聲秋」の句題和歌
松風のこずゑを渡る一声にまだきも秋のけしきなるかな(藤原隆房『朗詠百首』)
松陰や身にしむ程はなけれども風に先だつ秋の一声(土御門院『土御門院御集』)
いつもきく高嶺の松の声なれど今朝しもいかで身にはしむらん(一色直朝『桂林集』)
わが宿の松なかりせば大空の風を秋とも誰かさだめむ(香川景樹『桂園一枝』)
・その他
まとゐして夕涼みする松陰は梢の風に秋ぞ先だつ(藤原実房『正治初度百首』)
風わたる杜の木陰の夕涼みまだきおとなふ秋の一声(惟明親王『正治初度百首』)
夕暮や松吹く風にさそはれて梢の音に秋は来にけり(藤原忠良『老若五十首歌合』)
夏ふかみ木だかき松の夕涼み梢にこもる秋の一声(後鳥羽院『後鳥羽院御集』)
夏しらぬ池のこころのすずしきに汀の木々もかげひたすなり(伏見院『伏見院御集』)

(2010年7月24日加筆訂正)

月照平沙夏夜霜2010年07月24日

白氏文集卷二十 江樓夕望招客
江楼(かうろう)夕望(せきばう)(かく)を招く 白居易

海天東望夕茫茫  海と天と 東を望めば夕べ茫茫(ばうばう)たり
山勢川形濶復長  山勢(さんせい)川形(せんけい)(ひろ)くして()た長し
燈火萬家城四畔  燈火(とうくわ)万家(ばんか)城の四畔(しはん)
星河一道水中央  星河(せいか)一道(いちどう)水の中央
風吹古木晴天雨  風は古木(こぼく)を吹く 晴天(せいてん)の雨
月照平沙夏夜霜  月は平沙(へいさ)を照らす 夏の夜の霜
能就江楼銷暑否  ()江楼(かうろう)に就きて(しよ)()すや(いな)
比君茅舎校清涼  君が茅舎(ばうしや)に比すれば()や清涼ならん

【通釈】夕方、東方を望めば、海も空も茫々と暮れ、
山並も川の流れも、ゆったりとどこまでも続いている。
あまたの家々の灯火は城市の四辺まで行き渡り、
天の河が一すじ、川面の中央に映じている。
風は古木を吹いて、晴天の雨のように音を立て、
月は平らかな川砂を照らして、夏の夜に降りた霜のようだ。
君もこの川のほとりの楼閣に来て避暑が出来ないものか。
君の狭苦しい茅屋に比べれば、少しは涼しいだろう。

【補記】抗州の銭塘江のほとりの楼閣からの夕べの眺めの素晴らしさに、客を招こうと詠じた詩。和漢朗詠集巻上夏の「夏夜」に「風吹古木晴天雨 月照平沙夏夜霜」が引かれている。大江千里の歌は「月照平砂夏夜霜」の句題和歌。「夏月」の題詠でこの句を踏まえたと思われる和歌は少なからず見える。『新撰万葉集』の歌は「風吹古木晴天雨」を踏まえたものであろう。また謡曲『雨月』『経政』に両句を踏まえた章句が見える。

【影響を受けた和歌の例】
月影になべて真砂の照りぬれば夏の夜ふれる霜かとぞ見る(大江千里『句題和歌』)
夏の夜の霜やおけると見るまでに荒れたる宿をてらす月影(作者未詳『寛平御時后宮歌合』)
今夜かくながむる袖のつゆけきは月の霜をや秋とみつらん(よみ人しらず『後撰集』)
夏の夜もすずしかりけり月影は庭しろたへの霜と見えつつ(藤原長家『後拾遺集』)
雲きゆる空にや月のさえつらん庭もこほらぬ夏の夜の霜(西園寺実氏『弘長百首』)
ひさかたの照る日にあへどいかなれば霜と見ゆらん夏の夜の月(弁内侍『弁内侍日記』)
身にしみて月ぞ涼しき白妙の袖のひとへや夏の夜の霜(宗良親王『宗良親王千首』)
月もなほ残るみぎりの朝きよめ夏さへ霜をはらふとぞ見る(堯孝『新続古今集』)
夏の夜の霜には月もまがひけり雪とぞ見ゆる庭の卯の花(香川景樹『桂園一枝拾遺』)

(2010年7月31日加筆訂正)

百人一首なぜこの人・なぜこの一首 第12番:僧正遍昭2010年07月25日

僧正遍昭

天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ

【なぜこの人】
僧正遍昭も六歌仙の一人です。僧侶にして歌仙という意味では、先に見た喜撰法師と同じですが、喜撰が自由な立場の世捨て人であったらしいのに対し、遍昭は官僧であって、生涯朝廷との関係が切れることはありませんでした。喜撰を能因や西行といった隠遁歌人のみなもととすれば、遍昭は行尊や慈円といった僧綱歌人のさきがけと言えましょう。

俗名は良岑(よしみねの)宗貞(むねさだ)と言い、桓武天皇の孫で、大納言良岑安世の子。生年は弘仁七年(816)で、在原業平や小野小町とほぼ同時代の人です。朝廷に仕えて仁明天皇に寵遇され、三十そこそこの若さで蔵人頭の要職に就きましたが、嘉祥三年(850)、天皇崩御に際し、突然出家しました。「先皇崩じて後、哀慕()む無く、自ら仏理に帰し、以て報恩を求む。時の人(これ)(あはれ)む」と、『文徳天皇実録』はその行動を嘆賞するように記しています。

比叡山で天台宗を学び、修行に努め、すぐれた験力を得て、清和天皇の病を癒したという話も伝わります(今昔物語など)。仁和元年(885)、官僧の最上位である僧正となり、同年暮には七十賀を光孝天皇より受けました。因みに後世、後鳥羽院が定家の父釈阿(藤原俊成)の九十賀を祝ったのは、光孝天皇と遍昭の故事に倣ったものと言われています。晩年は花山(かざん)元慶寺(がんぎょうじ)に住んだので、花山(かざん)(華山)僧正の通称があります。

光孝天皇とは歌友でもあり、古今集前夜の宮廷歌壇において遍昭は重要な位置を占めます。古今集には十七首を載せ、業平・小町と共に、いわゆる「歌仙期」(小西甚一『日本文藝史』)を代表する歌人です。
古今集の序には六歌仙の筆頭として遍昭を挙げ、「華山僧正尤得歌体(華山僧正は尤も歌の体を得たり)」(真名序)と賞賛の語が見えます。古今集の歌風の最もすぐれた先駆者として、まことに当を得た評価と言うべきでしょう。もとより、その後は例によって辛口の批評が続きます。
「まことすくなし。たとへば、絵にかける(をうな)を見て、いたづらに心をうごかすがごとし」(仮名序)
あたかも「天つ風…」の歌のことを言っているかのようです。しかしこの評言を逆手に取れば、遍昭は言葉によって人の心を動かすほどの美しい絵が描ける手腕の持ち主だった、とも言えるのではないでしょうか。

【なぜこの一首】

天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ

光琳カルタ 僧正遍昭
光琳カルタ 僧正遍昭
古今集の詞書には「五節の舞姫を見てよめる」とあり、また作者名は「よしみねのむねさだ」とあるので、作者が官人であった時、宮中で少女楽の舞台を実際に見ての作と知られます。
禁中は「雲の上」に喩えられましたから、内裏を吹きぬける風はすなわち「天つ風」と見なされます。天つ風であれば、雲の通い路を吹き閉じるように、乙女らが舞台を出入りする通路を塞いでおくれ――と、古今集時代に特徴的な「見立て」の技法を用いて、舞姫たちが紫庭の舞台を立ち去ることを惜しんだ歌です。

尤も、詞書を伴わない百人一首の歌として味わう場合、「乙女」を五節の舞姫とする制約はなくなり、文字通り天津乙女の姿が空にある、幻想的な光景を思い描いてよいことになります。それを眺めているのが僧侶としての遍昭であっても少しも構わないわけです(小倉百首の歌人名はあくまでも「僧正遍昭」であって、「良岑宗貞」ではないのですから)。『百人秀歌』での蝉丸との合せからすれば、そう読んだ方が面白くもありましょう。逢坂山の隠者は地上の人々の流転のさまに会者定離の感慨を催し、一方花山の僧正は、空の彼方に消え去る天女との別れを名残惜しんでいるのです。

趣向の柄が大きく、百人一首の中でも華麗さにおいて際立つ一首でしょう。「天つ風」と視野を広く明るい響きで歌い出し、「吹きとぢよ」の命令形につなげて、参議篁の「わたの原」の歌に通じる気宇の大きさと調べの高さがあります。しかも結句「しばしとどめむ」には清々しい哀情が籠もり、定家が遍昭を「余情妖艶体」の歌人の一人として称揚した(『近代秀歌』)のも、この歌を読めば肯けることです。

なお、『百人秀歌』で前の組の奇数番、小野小町が容色の衰えを歎いた「花の色はうつりにけりな」に、「乙女の姿しばしとどめむ」の句が呼応することも面白く感じられます。因みに遍昭は小町と親しかったらしく、名高い贈答歌を残しています。
歌と歌が響き交わし、人と人が語り交わす。百人一首もこの辺りまで来ると、歌や人のつながりが複雑に絡み合い始め、私などは定家の撰歌の妙に陶然たる思いがしてくるのです。

(2010年9月29日加筆訂正)

雲の記録201007262010年07月26日

2010年7月26日午後6時58分

昨日(25日)はツクツクボウシを初めて聞いた。今日は油蝉を初めて聞いた。夕方7時少し前、バルコニーからわずかに見えた夕焼け雲。