<< 2010/08 >>
01 02 03 04 05 06 07
08 09 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

RSS

白氏文集卷五 永崇裡觀居2010年08月01日

永崇裡(えいすうり)観居(くわんきよ)  白居易

季夏中氣侯  季夏(きか)中気(ちゆうき)の侯
煩暑自此收  煩暑(はんしよ)(これ)より収まる
蕭颯風雨天  蕭颯(せうさつ)たる風雨の天
蟬聲暮啾啾  蝉声(ぜんせい)暮に啾啾(しうしう)たり
永崇裡巷靜  永崇裡(えいすうり) (かう)静かに
華陽觀院幽  華陽観(くわやうくわん) (いん)(かす)かなり
軒車不到處  軒車(けんしや)到らざる(ところ)
滿地槐花秋  満地(まんち)槐花(くわいくわ)の秋
年光忽冉冉  年光(ねんくわう)忽ち冉冉(ぜんぜん)
世事本悠悠  世事(せいじ)(もと)悠悠(いういう)
何必待衰老  何ぞ必ずしも衰老(すいらう)を待ちて
然後悟浮休  然る後に浮休(ふきゆう)を悟らん
眞隱豈長遠  真隠(しんいん)()長遠(ちやうゑん)ならんや
至道在冥搜  至道(しだう)冥捜(めいしう)()
身雖世界住  身は世界に住むと(いへど)
心與虛無遊  心は虚無と遊ぶ
朝飢有蔬食  朝飢(てうき)蔬食(そし)有り
夜寒有布裘  夜寒(やかん)布裘(ふきう)有り
幸免凍與餒  幸ひに(とう)(たい)とを(まぬか)
此外復何求  此の(ほか)()た何をか求めん
寡欲雖少病  欲を(すく)なくして 少しく病むと(いへど)
樂天心不憂  天を楽しみて心憂へず
何以明吾志  何を以てか吾が(こころざし)を明かさん
周易在床頭  周易(しうえき)床頭(しやうとう)()

【通釈】晩夏も中気の候となり、
暑苦しさもこれから収まってゆく。
物寂しい音を立てて風が吹き雨が降り、
夕暮になると蝉の声が盛んだ。
永崇坊の路地はひっそりとして、
華陽観の中庭は奥深く静まっている。
馬車が乗りつけることもなく、
あたり一面(えんじゆ)の花が咲いている。
歳月はたちまち過ぎ去り、
世の雑事はもとより限りが無い。
人生無常を悟るのに、
わざわざ老衰を待つ必要があろうか。
真の隠逸は決して遠い彼方にあるのでなく、
まことの道は何処までも捜し求めることにある。
この身は俗世間に住むといえども、
心は虚無と遊ぶ。
朝の空腹には粗末な野菜の食事があり、
夜の寒さには綿入りの着物がある。
さいわい寒さと飢えは免れている。
これ以上に何を求めよう。
欲を減らしているから、少々病気があっても、
天命を楽しみ、心は憂えない。
どうやってこの我が志を証明しよう。
周易の書が、常に寝床のほとりにある。

【語釈】◇季夏中気 季夏は晩夏(陰暦六月)、中気は大暑にあたる。2010年の大暑は7月23日。◇啾啾 蝉の声の多いさま。◇永崇 長安の永崇坊。◇華陽観 代宗の五女、華陽公主の旧宅。白居易は元稹と共にここに住み、制科の受験に備えていた。◇軒車 身分の高い人の乗る車。馬車。◇冉冉 次第に進んでゆくさま。◇浮休 人生のはかないさま。荘子に拠る。◇冥捜 奧深く探究すること。◇虚無 道家の言う虚無。有無相対を超越した境地。◇朝飢 朝の空腹。◇蔬食 野菜ばかりの粗末な食事。論語郷党篇に見える。◇布裘 綿入りの着物。◇餒 飢え。◇周易 易経。陰陽説を基に天地の現象を明かし、吉凶禍福の循環を説く。◇床頭 寝床のほとり。

【補記】永貞元年(805)、友人とともに長安の華陽観に住み、制科の受験準備をしていた頃の作。作者三十四歳。「蝉声暮啾啾」あるいは「蕭颯風雨天 蝉声暮啾啾」を句題とする和歌が見える。

【影響を受けた和歌の例】
くれはどりあやにくに降る夕立にぬれぬれはるる蝉の声かな(慈円『拾玉集』)
空蝉の夕の声はそめかへつまだ青葉なる木々の下陰(藤原定家『拾遺愚草員外』)
小倉山岑の梢に啼く蝉もこゑしほれぬる夕立の空(八条院高倉『夫木和歌抄』)
暮るる日の山陰おほくなるままに梢の蝉は声たてつなり(一条実経『円明寺関白集』)

白氏文集卷五十五 新昌閑居、招楊郎中兄弟2010年08月02日

新昌(しんしやう)に閑居し、楊郎中(やうらうちゆう)兄弟(けいてい)を招く 白居易

紗巾角枕病眠翁  紗巾(さきん)角枕(かくちん)病眠(びやうみん)(をう)
忙少閑多誰與同  (ばう)少なく(かん)多く 誰と(とも)にか(おな)じうせん
但有雙松當砌下  ()双松(さうしよう)(みぎり)の下に当るあり
更無一事到心中  更に一事(いちじ)の心の中に到る無し
金章紫綬看如夢  金章(きんしやう)紫綬(しじゆ) ()るに夢の如く
皂蓋朱輪別似空  皂蓋(さうがい)朱輪(しゆりん) 別に(くう)に似たり
暑月貧家何所有  暑月(しよげつ)貧家(ひんか) 何の有する所ぞ
客來唯贈北窗風  (かく)(きた)れば()だ贈る北窓(ほくさう)の風

【通釈】紗の頭巾をかぶり、四角い枕に病んで眠る老翁。
忙しい時は少なく、閑な時は多くなって、誰と共に過ごせばよいのか。
屋敷にはただ二もとの松が軒下にあるばかり、
心の中にまで響くような事は一つとして起こらない。
朝廷に頂いた金と紫の印は、目にしても夢のようで、
黒い幌に朱塗りの馬車は、空しい幻影のようだ。
暑いこの月に、貧しい家で何のもてなしが出来よう。
客人が来ればただ北窓から風を送るばかりだ。

【語釈】◇紗巾 紗(薄絹)で作った頭巾。◇砌 軒下や階下に石を敷いた所。◇更無一事到心中 「心中には一事の気に掛かることもない」とする解もある(新釈漢文大系)が、ここは感動を誘うような事柄がないという否定的な意味で言ったものと思われる。◇金章紫綬 黄金の印章と、紫の印綬。秘書監を務めた時に賜わった物。◇皂蓋朱輪 「皂蓋」は黒い覆い。「朱輪」は朱塗りの車輪。貴人の乗る馬車。

【補記】長安の新昌坊に閑居していた時、楊氏の義兄弟を自宅に招待する時に作ったという詩。大和元年(827)、五十六歳。和漢朗詠集巻下雑「松」に第三・四句が引かれている。定家と慈円の歌は第七・八句「暑月貧家何所有 客來唯贈北窗風」の、土御門院の歌は「但有双松当砌下」の句題和歌。

【影響を受けた和歌の例】
・「但有双松当砌下 更無一事到心中」の句題和歌
庭の松よおのが梢の風ならで心の宿をとふものぞなき(慈円『拾玉集』)
我が宿の砌にたてる松の風それよりほかはうちもまぎれず(藤原定家『拾遺愚草員外』)
心にはそむる思ひもなきものを何のこるらむ軒の松風(寂身『寂身法師集』)
・「但有双松当砌下」の句題和歌
我も知り我も知られて年は経ぬみぎりに植ゑしふたもとの松(土御門院『土御門院御集』)
・「暑月貧家何所有 客来唯贈北窓風」の句題和歌
夏をとふ人やあはれにきても見んむなしくはらふ窓の北風(慈円『拾玉集』)
吹きおくる窓の北風秋かけて君が御衣(みけし)の身にやしまぬと(藤原定家『拾遺愚草員外』)
・その他
山里は砌の松の色ならで心にのこる一こともなし(宗尊親王『竹風和歌抄』)
風はらふ砌のもとの松も知れ心にかかる塵もなき身を(三条西実隆『雪玉集』)

雲の記録(暑中御見舞)2010年08月03日


2010年7月16日午後2時53分神奈川県横須賀市佐島

暑中お見舞い申し上げます。
七月は各地で記録的な猛暑だったとのこと。まだ暑さは続きますが、立秋も近づき、僅かながら秋のけはいも感じられるようになりました。
写真は今日のでなく、梅雨明けて間もない頃の三浦半島の海岸で撮ったものです。佐島という、浜木綿の北限の自生地とされるところです。

浜木綿



和歌歳時記:昼寝 Siesta2010年08月03日

豚蚊取りと団扇(具満タンフリー素材)

炎天下の過労を癒し、また暑苦しい夜に不足しがちな睡眠を補ふために、夏は昼寝が奨励される季節だ。宮本常一『ふるさとの生活』によれば、夏の昼寝を義務づけてゐる村もあつたといふ。大阪平野のある村では、半夏生から八朔まで、すなはち旧暦の六・七月の二ヵ月間は、昼飯が済むと、太鼓を叩いたり法螺貝を吹いたりして、皆人に寝よとの合図をする。そしてまた一時経つと、起きよとの合図をしたといふのだ。宮本は各地を旅して、さういふ慣はしのある村が全国方々にあつたと言つてゐる。
そんな村里の民俗を偲ばせる歌がある。

『海士の刈藻』 夏旅  大田垣蓮月

里の子が(はた)織る音もとだえして昼寝の頃のあつき旅かな

里をあげて昼寝してゐるのだらう、しづまりかへつた夏の白昼、一村を通り過ぎる旅人。その目には見知らぬ村里が一瞬夢幻の世界に映つたはずだ。

『調鶴集』 夏井  井上文雄

(しづ)()は昼寝してけり水あまる庭の筒井に熟瓜(うれうり)ひやして

こちらも江戸末期の歌人の作。題詠とは言ひ条、属目の景をもとにしたと思はれる歌ひぶりだ。丸井戸から溢れる冷たさうな水、そこに浮ぶまるまると熟れた瓜。無防備な村女の、なんと満ち足りた昼寝つぷり。
江戸つ子の作者は田舎の風俗を愛し、田園を散策して飽きることがなかつた。「田家鶴」といふ題では、「葦鶴(あしたづ)に門田あづけて昼寝する老翁(をぢ)は千代ふる夢やみるらん」と、こちらは老いた農夫の昼寝を詠んでゐる。太平の眠りをなほ醒まされることのなかつた農村の風景だ。

**************

  『好忠集』(六月をはり) 曾禰好忠
妹とわれ寝屋の風戸(かざと)に昼寝して日たかき夏のかげをすぐさむ

  『兼澄集』(五月五日、()のもとにてうち休みたりしほどに女の入りにければ) 源兼澄
うたたねの昼寝の夢にあやめ草むすぶとみつるうつつならなむ

  『禖子内親王家歌合』(ひるのこゑ) 播磨
ほととぎす昼寝の夢の心ちして森の梢を今ぞすぐなる

  『聞書集』(嵯峨にすみけるに、戯れ歌とて人々よみけるを) 西行
うなゐ子がすさみにならす麦笛のこゑにおどろく夏の昼臥し

  『亜槐集』(昼恋) 飛鳥井雅親
かづらきの神やはかくる面影に昼寝おどろく夢の浮橋

  『柏玉集』(昼恋) 後柏原院
わりなしや昼寝の床にみし夢もまばゆきかたに向ふ日影は

  『亮々遺稿』(苦熱) 木下幸文
何事もただ倦みはつる夏の日にすすむるものはねぶりなりけり

  『草径集』(枕) 大隈言道
うたたねの昨日の昼寝思はせてありし所にある枕かな

  『調鶴集』(夏声)井上文雄
昼寝する枕にひとつ名のる蚊のほそ声耳を離れざりけり

  『志濃夫廼舎歌集』(独楽吟) 橘曙覧
たのしみは昼寝せしまに庭ぬらしふりたる雨をさめてしる時
たのしみは昼寝目ざむる枕べにことことと湯の煮えてある時

  『水葬物語』塚本邦雄
ひる眠る水夫のために少年がそのまくらべにかざる花合歡

(2010年8月18日加筆訂正)

雲の記録201008042010年08月04日

2010年8月4日午前9時鎌倉市二階堂

しばらく白っぽい青空が続いていたが、今日は夏らしい青空と白雲が見られた。というより秋が近づいて空が澄んできたのだろうか。写真は朝、相模湾上の積雲。積乱雲に発達するかなと思ったが、このあとちぎれ雲になって風に流れて行った。 それにしても暑い日がよく続く。

お知らせ:田口尚幸先生の「山部赤人動画講義」無料公開中です2010年08月04日

万葉赤人歌の表現方法 表紙

伊勢物語や箏曲地歌歌詞などの研究でご活躍中の愛知教育大学教授 田口尚幸先生の「山部赤人動画講義」が無料公開中です。YouTubeを活用してのご講義の動画配信です。下のURLをクリックすると、目次ページへ行けます。

http://www.kokugo.aichi-edu.ac.jp/taguchi/akadouga.html

山部赤人はもとより和歌史上指折りの大歌人で、名歌を愛誦している方も多いことと思います。私も敬愛すること深い歌人の一人でしたが、赤人の歌は表現が大変明晰なので、ついすんなりと読み過ごしてしまいがち、という傾向があったような気がします。なぜ紀貫之たちが人麻呂と並ぶ歌仙として尊敬したのか、よくよく考えたことはありませんでした。今春、田口先生よりご著書『万葉赤人歌の表現方法 批判力と発想力で拓く国文学』を送って頂き、拝読して、一見平明にも見える赤人の歌が、いかに計算し尽くされたものであるか、蒙を啓かれる思いでした。厳密な読解の方法論からも教わるところ大でした。

動画講義は、ご著書の論旨を大変わかりやすく説明してくれるものです。一人でも多くの和歌愛好家の方に見て頂きたく、こちらでご紹介させて頂きました。

雲の記録201008052010年08月05日

2010年8月5日午後6時28分

昼間は浮雲が悠々と流れてゆく空だったが、夕方になって巻雲が見られた。高空の巻雲は白いが、低空のちぎれ雲は夕焼に染まっている。蜩、ミンミン蝉、油蝉、つくつく法師のにぎやかな合唱の中、家路を辿る。夕風の涼しさにも、秋のそう遠くないことが感じられた。

古詩十九首 十 迢迢牽牛星2010年08月07日

鶴岡八幡宮の七夕祭

古詩十九首 十

迢迢牽牛星  迢迢(てうてう)たる牽牛星(けんぎうせい)
皎皎河漢女  皎皎(かうかう)たる河漢(かかん)(ぢよ)
纖纖擢素手  繊繊(せんせん)として素手(そしゆ)()
札札弄機杼  札札(さつさつ)として機杼(きぢよ)(ろう)
終日不成章  終日(しゆうじつ)(しやう)を成さず
泣涕零如雨  泣涕(きふてい)()つること雨の如し
河漢清且淺  河漢(かかん)清く()つ浅し
相去復幾許  相去ること()幾許(いくばく)
盈盈一水閒  盈盈(えいえい)たる一水(いつすい)(かん)
脈脈不得語  脈脈(みやくみやく)として語るを得ず

【通釈】はるかに輝く彦星、
しらじら輝く織姫星。
しなやかに白い手を袖から抜き出し、
シャッシャッと(はた)()を操る。
ところが今日は一日織っても綾を成さない。
涙ばかりが雨のようにこぼれる。
天の川は清らかで浅い。
距離にしてもどれ程か。
満々と流れる一すじの川を挟んで、
延々と語り合えない日が続く。

【語釈】◇迢迢 遥かに遠いさま。◇牽牛星 わし座の首星アルタイルの漢名。◇皎皎 白く輝くさま。◇河漢女 織女星。琴座の首星ベガ。「河漢」は天の川。◇札札 ()を操る時に立てる音。「劄劄」とする本もある。◇機杼 機の()。緯糸を通す操作に用いる具。◇章 織物のあや。◇脈脈 ある状態がひそかに持続するさま。

【補記】天帝に逢瀬を禁じられて嘆く織女を中心に七夕伝説を詠んだ詩。文選では作者不明とし、玉台新詠では前漢の枚乗(ばいじよう)の作とする。牽牛・織女の名は詩経にも見えるが、二星を人格化し、普段逢瀬を禁じられているとした詩はこの「古詩十九首」が最初という。日本で二星の恋物語が盛んに歌に詠まれるようになったのは奈良時代以後で、山上憶良を始めとする多くの作が万葉集に残されている。

【影響を受けた和歌の例】
(たぶて)にも投げ越しつべき天の川隔てればかもあまたすべなき(山上憶良『万葉集』)
かきくもりけふ降る雨はたなばたの暮待ちわぶる涙なるらし(飛鳥井雅有『隣女集』)
晴れながらふりくる雨はたなばたの逢ふ夜うれしき涙なるらし(香川景樹『桂園一枝』)

(2010年8月8日加筆訂正)

和漢朗詠集卷上 七夕より三首2010年08月07日

七夕イラスト 具満タンフリー素材

二星適逢      二星たまたま逢へり
未叙別緒依依之恨  未だ別緒(べつしよ)依々(いい)の恨みを()べざるに
五更將明      五更(ごかう)まさに明けむとす
頻驚涼風颯颯之聲  (しき)りに涼風颯颯(さつさつ)の声に驚く

【通釈】牽牛・織女の二星は稀に逢うことができたのに、
まだ惜別未練の恨みごとも言い終わらないうちに、
もうじき夜が明けようとしている。
涼しい風がささと吹き、その度に二星は驚く。

【影響を受けた和歌の例】
たまさかに秋の一夜を待ちえても明くるほどなき星合の空(藤原隆房『新勅撰集』)
待ちえても星合の夜は秋の風うらみもあへじ天の羽衣(藤原為家『為家集』)

風從昨夜聲彌怨  風は昨夜より声(いよいよ)怨む
露及明朝涙不禁  露は明朝(めうてう)に及びて涙禁ぜず

【通釈】風は昨夜から吹きつのり、ますます恨みの声を高くする。
露は明くる朝しとどに置き、二星は涙をおさえられない。

【影響を受けた和歌の例】
暁の露は涙もとどまらでうらむる風の声ぞのこれる(相模『新古今集』)
明日かとも契りもおかぬたをやめの袖ふく風のこゑぞ恨むる(藤原家隆『壬二集』)

去衣曳浪霞應濕  去衣(きよい)浪に()きて(かすみ)湿(うる)ふべし
行燭浸流月欲消  行燭(かうしよく)流れに(ひた)りて月消えなむとす

【通釈】天の川に立ち込める霞は織女の去りゆく衣か。天の川の波に裾を引いて、湿っているに違いない。
月影は織女の道行きを照らす燭か。川の流れに浸かって、光はまさに消えようとしている。

【語釈】◇去衣 後朝に着て帰る衣服か。

【影響を受けた和歌の例】
程もなくたちやかへらむたなばたの霞の衣なみにひかれて(相模『相模集』)
今はとてかへる(あした)か秋のきる衣川なみ霧にしをれて(正徹『草根集』)

蛍火乱飛秋已近2010年08月08日

蛍の乱舞

全唐詩卷四百十五 夜坐
夜坐(やざ)   元稹

雨滯更愁南瘴毒  雨滞りて更に愁ふ 南瘴(なんしやう)の毒
月明兼喜北風涼  月明らかにして兼ねて喜ぶ 北風(ほくふう)(りやう)
古城樓影橫空館  古城の(らう)の影 空館(くうくわん)に横たはり
濕地蟲聲繞暗廊  湿地の虫の声 暗廊(あんらう)(めぐ)
螢火亂飛秋已近  蛍火(けいくわ)乱れ飛びて秋(すで)に近し
星辰早沒夜初長  星辰(せいしん)早く没して夜初めて長し
孩提萬里何時見  孩提(がいてい)万里(ばんり)(いづ)れの時にか見ん
狼藉家書滿臥床  狼藉たる家書臥床(ぐわしやう)に満つ

【通釈】雨が降り止まず、南方の瘴気の毒がさらに気がかりだったが、
夜になって月が明るく輝き、北方からの涼風が今から楽しみだ。
古城の高楼の影が、人のいない館に長々と横たわり、
湿地の虫の声が、暗い廊下にまとわりつく。
蛍の火は乱れ飛び、秋も既に近いことを感じさせる。
星々は早くも地平に没し、夜が長いことを初めて覚える。
幼な子は万里の彼方、いつの日か逢えるだろう。
妻のいない我が家、散乱した書物が寝床に満ちている。

【語釈】◇孩提 二、三歳の幼児。

【補記】元和年間、湖北の江陵に左遷されていた時の作であろう。家族を残して南国に夏を過ごす辛さと、秋を迎える安堵。和漢朗詠集巻上夏「蛍」の部に「蛍火乱飛秋已近 辰星早没夜初長」が引かれ、これを踏まえた和歌が少なくない。隆房・土御門院・実朝・直好の歌はいずれも「蛍火乱飛秋已近」の句題和歌。

【影響を受けた和歌の例】
夏たけて秋もとなりになりにけりすだく蛍のかげをみしま江(藤原隆房『朗詠百首』)
乱れ飛ぶ沢の蛍は秋ちかし空行く月の夏の暮れがた(藤原忠良『正治初度百首』)
沢水に秋風ちかしゆく蛍まがふ光はかげ乱れつつ(俊成卿女『千五百番歌合』)
うたた寝もふすほどすずし長き夜に蛍みだれて秋ぞちかづく(藤原行能『建保四年内裏百番歌合』)
小篠原しのにみだれて飛ぶ蛍今いくよとか秋を待つらん(土御門院『土御門院御集』『続拾遺集』)
飛びまがふみぎはの蛍みだれつつ蘆間の風に秋やちかづく(藤原為家『為家千首』)
かきつばたおふる沢辺に飛ぶ蛍数こそまされ秋やちかけん(源実朝『金槐和歌集』)
夏ふかき沢の蛍も乱れ葦の一夜ふたよに秋やきぬらん(宗尊親王『宗尊親王三百首』)
とぶ蛍ひかりみだれて久方の雲居にちかき秋風ぞふく(源親行『新和歌集』)
秋もはや一夜にちかき葦の葉にみだれていとど飛ぶ蛍かな(後崇光院『沙玉集』)
秋ちかみ思ひもなほや乱れまさる蛍とびかふ夏の暮れがた(同上)
みだれとぶ蛍としるやくるるよのいまいくかあらば秋かぜの空(三条西実隆『雪玉集』)
乱れとぶ入江の蛍影きえて残る漁に秋風ぞふく(望月長孝『広沢輯藻』)
吹きたたん秋風みえてわが中は蛍よりけに乱れ侘びぬる(武者小路実陰『芳雲集』)
ほに出でん秋もちかしと薄原みだれてのみも飛ぶ蛍かな(熊谷直好『浦のしほ貝』)