木香薔薇:草木の記録20110503 ― 2011年05月03日
山藤:草木の記録20110505 ― 2011年05月05日
卯の花(ウツギ):草木の記録20110508 ― 2011年05月08日
野薔薇:草木の記録20110511 ― 2011年05月11日
更新情報:永福門院改訂 ― 2011年05月13日
永福門院の歌を一部選び直し、排列なども改めました。注釈等は、後日付けるつもりです。
また、正治院百首の参考資料として、正治百首(初度・後度)の新古今入集歌をアップしました。
新緑:草木の記録20110514 ― 2011年05月14日
雲の記録20110514 ― 2011年05月14日
百人一首 なぜこの人・なぜこの一首:第十五番光孝天皇 ― 2011年05月16日
君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ
【なぜこの人】
光孝天皇は第五十八代天皇。皇太子正良親王(のちの仁明天皇)の第三子として天長七年(830)に生れました。
さて、まずは和歌の歴史を簡単に振り返ってみましょう。
額田王らが登場した天智天皇(第1番)の代を宮廷和歌の黎明期と呼ぶなら、次の持統天皇(第2番)の時代は、歌聖人麿(第3番)が活躍した宮廷和歌の黄金時代でした。都が飛鳥から平城に移ると、赤人(第4番)が宮廷歌人として登場し、大伴家持(第6番)や安倍仲麿(第7番)といった官僚知識層も和歌に親しむようになりました。ところが、都が平安京に移った頃から、宮廷では漢詩が隆盛を見せ、晴の文藝としての和歌は暗黒時代に入ります。桓武・平城・嵯峨天皇は僅かながら歌を残しているものの、淳和・仁明・文徳・清和の四代は御製を伝えておらず、仁明以下三代は宮中の公宴で和歌が詠じられた記録も皆無です。辛うじて、小野小町(第9番)ら六歌仙を始めとする歌人たちが、細々と歌の歴史を繋ぎ止めていました。
清和の次に皇位に就いたのが百人一首の歌を残す陽成院(第13番)ですが、天皇在位中に和歌を好んだという証跡はありません。そして光孝天皇の時代となるわけですが、ここでようやく宮廷和歌が復活の兆を見せ始めるのです。
『日本三代実録』によれば、光孝天皇は元慶八年(884)二月に即位すると、早くもその年十月の公宴において侍臣に「歌を為さしめ」ています。翌年の仁和元年(885)十月にも、紫宸殿で侍臣に宴を賜わった際、「日暮れて和琴を奏し、和歌を作り、群臣倶に酔ひ、歓を極めて罷め、禄を賜はる」とあり、同二年冬の公宴でも「王公並びに歌を作り、天皇自ら歌ひ給ひ、宴楽して景を
光孝天皇の和歌好きは、若い頃から親交があったらしい遍昭(第12番)や、父仁明天皇の後宮にいた小町、同天皇の寵臣であった業平(第17番)ら、すなわち六歌仙たちと同時代に青春を過ごしたことと無縁とは思えません。光孝天皇の御集『仁和御集』はわずか15首を収める小歌集ですが、殆どは恋歌で、貫之の言う「色好みの家に、埋れ木の人知れぬことと」なっていた和歌の一時代の、天皇自身が一人の担い手であったのです。因みに『仁和御集』からは14首もの歌が勅撰集に採られ、文字通り珠玉の歌集と言えましょう。
これだけでも和歌史上における光孝天皇の重みは理解頂けるのではないかと思います。しかし定家が光孝天皇を尊んだのには、別に大きな理由がありました。もとより歌の素晴らしさが第一の理由にはちがいありませんが、それは次節に廻すとして、ここでは藤原氏と光孝天皇の結び付きに少しだけ触れておきましょう。
『大鏡』の藤原基経の章には、基経の官位が低かった頃の話として、光孝天皇との因縁を語る条があります。二人は母方の従兄弟同士だったので、天皇がまだ親王と呼ばれていた頃から基経はその人柄に親しみ、敬意を抱いていましたが、ある日、叔父の大臣良房が催した
大饗の御馳走としては雉の足が必ず供される慣いでしたが、当日それが主賓の膳に見えません。慌てた給仕は、時康親王の膳から取り上げ、主賓の御前に据えました。その時、親王は手前の燈火をふっと消したといいます。
鴙 の足はかならず大饗に盛るものにて侍るを、いかがしけん、尊者の御前 に取り落としてけり。陪膳 の、親王 の御前のを取りて、まどひて尊者の御前に据うるを、いかがおぼしめしけん、御前の大殿油 をやをら掻い消たせ給ふ。
末席からこの取り成しを見ていた基経は、「『いみじうもせさせ給ふかな』と、いよいよ見めでたてまつらせ給」うたというのです。『大鏡』の著者は、このエピソードを述べた直後、陽成退位後の善後策を講ずる議場に場面を移し、源融(第14番)の自己推薦を退けて光孝天皇の即位を実現した基経の辣腕を語ります。
親王が燈火を消したのは、もとより陪膳の失態を隠してやる優しい心遣いでしたが、また同時に宴の主催者である良房に対する配慮でもありました。この短い一挿話からは、光孝天皇の謙虚で寛容な人柄、人に対する暖かな思いやり、そして臨機応変の行動力などが、鮮やかに伝わってきます。ささやかな行為のうちに発揮された人徳を見逃さなかった基経もまたさるものです。『大鏡』は一連の話を「さるべく契りおかせ給へる御仲にやとぞ、おぼえはべる」と結んでいます。申すまでもなくこの基経こそが我が国最初の関白となったのでした。
(【なぜこの一首】は次回掲載します。)
(2011年5月19日、28日加筆訂正)
エゴノキ:草木の記録20110517 ― 2011年05月17日
原っぱ:草木の記録20110519 ― 2011年05月19日
お屋敷の取り壊された跡に、一本だけ残された朴の木。万葉集には「ほほがしは」の名で出て来る。「かしは」は食器の意で、古人が食べ物を盛るのに用いたことを示す名だ。なるほど葉は大きくて立派だ。
白詰草と赤詰草が混じって咲く原っぱ。
こちらは穂の出た茅(チガヤ)に占領された原っぱだ。
まだ夏草が煩くない今ごろの原っぱは、それぞれに異なった表情を見せている。
(2011年6月2日加筆訂正)
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