新刊のお知らせ 会津八一全歌集 ― 2015年08月05日
『会津八一全歌集 新字版』、『會津八一全歌集 舊字版』をAmazonより出版しました。昭和26年刊本の電子復刊です。
楽天Koboでも刊行予定です。追ってお知らせ申し上げます。
画像をクリックするとAmazonの商品詳細ページに移動します。
今回、新しい試みとして「新字版」「旧字版」を揃えてみました。会津八一の歌は漢数字と外来語を除き全て平仮名で表記されているので、歌自体には新字も旧字もないのですが、序文や詞書などは荘重な文語体で書かれており、漢字が多いので、新字と旧字で随分感じが違ってくると思います。私自身は会津八一の文を新字体で読みたいとは思わないのですが、今なお新字体の会津八一全歌集は未刊行のようですので、新しい読者を獲得するきっかけになってくれれば、というような思いから、新字版を作ってみたものです。
関連書籍
会津八一全歌集(旧版)と同増補版
新刊のお知らせ(続報) ― 2015年08月07日
楽天Koboからも会津八一全歌集(旧字版・新字版)が発売されました。
千人万首メモ 宜野湾朝保 春 ― 2015年08月11日
宜野湾朝保 ぎのわんちょうほ 文政六~明治九(1823-1876) 唐名:向有恒 号:松風斎
文政六年三月五日、沖縄首里赤平村に生まれる。父は尚育王時代の三司官、宜野湾親方朝昆(唐名向廷楷)。十三歳の時、父が没し宜野湾間切を襲領する。接貢船修甫奉行・異国船御用係・学校奉行・系図奉行などを歴任し、この間たびたび清国・内地へ使者として派遣された。
三十六歳になる安政五年(1858)、薩摩に赴いた際には八田知紀らの知遇を得た。帰国後、別業を営み、悠然亭と号し、和歌を講じた。門人は数百人に及んだという。
文久二年(1862)、三司官となり、尚泰王を助けて信任を得る。維新後の明治五年(1872)、伊江王子の副使として東京に赴き、正使を助けて中山王を藩王に封ずるとの朝命を遵奉した(いわゆる琉球処分の始まり)。しかしその後清国への進貢を絶つなどの条項が琉球国内で反発を呼び、朝保の時論は容れられず、職を退いた。以後、悟性亭を邸内に結び、書画を友とする暮らしを送った。明治八年(1875)、尚泰王の次男尚寅が宜野湾間切を賜り宜野湾王子を称したため、宜野湾の名を避け宜湾と改めた(普通「ぎわん」と読まれるが、前姓と同じく「ぎのわん」と読むべきだとの説もある)。明治九年(1876)、五十四歳で死去。
香川景樹の流れを汲む桂園派に属する歌人。明治九年、琉球人の和歌集『沖縄集』二編を編む。門下の歌人護得久朝置の編になる家集『松風集』が明治二十三年に刊行された。他に著作は多かったというが殆どは散佚して伝わらず、『上京日記』等を存するのみである。
「容貌傀偉、性質豁達、幼にして大度の聞あり。壮年に及で学和漢を兼ね、又能く和漢の語に通じ、略英語を解す」(松風集所収の略伝)。
春
年内立春
幾夜ねて年をとるかと稚子がをよび折るまに春は来にけり
「あと幾夜寝ると年を取るのかと、幼な子が指を折るうちに春はやって来てしまった」の意。
「をよび」は指。「を」は親愛の情を示す接頭語。
旧年中に立春となった際の心を詠む。古今集冒頭歌があまりに有名であるため難題とされた「年内立春」の主題を、意想外の可憐な趣向で詠んでいる。作者には大人の風格とともに天真なところがあった。因みに同題で詠んだ歌「うなゐ子が年のはじめの花衣たちぬはぬまに春風ぞ吹く」も新鮮。
花
花ちらす風なかりせばあこがれし心はここに帰らざらまし
「もし花を散らす風がなかったなら、離れていった心魂はこの私の体に帰って来なかっただろう」の意。
「あこがれ」は古くは「あくがれ」。ものが本来あるべき場所から離れてゆくことを言う。
桜の美しさに惹かれて身体から遊離してしまった魂が、花が散った後、ようやく戻って来た。もし風が吹かなければ、そのまま魂はさ迷い続けていただろう。花をめぐり心身について内省し、西行を思わせるところがある。
千人万首メモ 宜野湾朝保 夏 ― 2015年08月12日
首夏雨
昨日今日みづ枝涼しく降る雨は花のなごりをそそぐなりけり
「昨日今日と、瑞々しい枝も涼しげに降る雨――それは春の花のなごりを洗い流すのであった」。
「そそぐ」は「濯ぐ」、洗い落とす意。
「首夏雨」は室町時代以後に見られる歌題。春から夏に移って間もない頃の雨である。朝保の歌は生気溢れる涼感に結びつけると共に、春の花(桜)に対する名残惜しさを除き去る雨として捉えている。
因みに沖縄では陰暦三月頃が初夏に当たるが、この季節を言い表すものに「うりずん」という語がある。「潤い初め」のことといい、乾季を過ぎて暖かくなり、若葉が茂り花が咲き、大地の潤ってゆくさまを表す言葉だそうだ。朝保の歌は、あくまで伝統的な和歌の範疇のうちで、多少の新味を添えようと詠まれたものと思われるが、どこか南島らしい風土の感性が感じられてしまうのである。
馬上郭公
ほととぎす雲井はるかにおひ行かん我がのる駒は龍ならねども
「時鳥を、雲の上遥かまで追ってゆこう。私の乗る馬は竜のように天翔ることはできないけれども」。
気宇の大きさが感じられる歌だ。「馬上郭公」は為忠家後度百首に初見の題で、すなわち平安後期からある歌題。自撰の『沖縄集』に収録されており、自信作だったのだろう。
梅雨晴
さみだれの雨ににごりし大空の海もみどりに成りにけるかな
「雨のせいで濁った海のようだった大空も、梅雨があけて、紺碧になったことであるよ」。
「梅雨晴」あるいは「五月雨晴」は中世以後に見える歌題。印象鮮明な歌いぶりで、師の景樹の美風を継ぐものだ。
小さな島々だけれど、海と空は果てしなく大きな琉球。南島人の心のスケールの大きさが感じられる。
同題に「さみだれの日数を出でて世の中のひろく成りたる心ちこそすれ」。さすがに朝保には夏の佳詠が多い。
千人万首メモ 宜野湾朝保 秋 ― 2015年08月13日
九月十三夜
めでそめし世も長月の月みればおくれたるこそ光なりけれ
「(秋の初めに)賞美し始めた時からも長い時が経った長月の月――その月を見ていると、遅くなった月こそが最も賞美される光なのだった」。
秋の真っ盛りである八月十五夜に対し、晩秋の月として賞美された九月十三夜を詠む。眺め眺めしてついに末を迎えた秋の月、名残惜しさがその光をひときわ美しくする。陰暦九月の異称「長月」の名を活かし、巧みに歌い上げている。朝保の大方の歌は、このように知巧に重きを置いたものなのであるが、これは情も籠った有心の秀詠であろう。結句は定家の「…秋こそ月の光なりけれ」(新勅撰集)を思わせる。
『沖縄集』より。なぜか『松風集』には漏れた歌。
秋歌余録
会友見月
まどゐして月にうたへる声きけば共にみちたる心なりけり
旅宿虫
夢路より行きて聞くこそあはれなれ吾がふるさとの松虫のこゑ
雨後紅葉
立ち出でて雨の晴間に見つるかなきのふは染めぬ嶺のもみぢ葉
千人万首メモ 宜野湾朝保 恋 ― 2015年08月14日
歳暮恋
年なみの流れの末に漕ぎ出でし恋の小舟ぞ行くへ知られぬ
「波が絶えず寄せるように年が寄る、歳月の流れの末に、今更漕ぎ出したわが恋の小舟。行方も知られぬことよ」。
「歳暮恋」は平安末頃から見える歌題。年の暮に際しての(或いはそれに絡めての)恋の心を詠む。朝保は「年波」の「波」の縁から発想したものと思われる。あてどのない恋の道を、波のまにまに漂う小舟に寓するというのは昔からある趣向であるが、「歳暮」を人生の暮ともして、老いらくの恋の頼りなさ、心細さが哀れだ。同題の歌に「この年もはや暮れはてて老いななん恋の心もおとろへぬべく」。
恋歌余録
寄月恋
あはれとや月も見るらん宵々に我が影ばかり我にそひつつ
千人万首メモ 宜野湾朝保 雑 ― 2015年08月15日
写真は維新慶賀使の正使伊江王子(向かって右)と副使宜野湾朝保(同左)。
海路日暮
行く舟の和田の岬をめぐるまは波にいざよへ夕月の影
「進んでゆく船が和田の岬を巡る間は、夕月の影よ、波にたゆたっていておくれ」。
「和田の岬」は今の神戸港の南西端をなす岬。畿内と西国を往来する際には、必ず近くを通過する岬である。
海路で迎えた日没。夕月も太陽を追うように海の彼方へ沈もうとするが、岬を巡れば畿内の港は近い。もうしばらく波間に光を漂わせて、航路を照らしてくれ。
題詠ではあるが、官人としてたびたび内地に派遣され、船旅を多く経験した作者にとっては親しい題材であったろう。
扁舟暮帰
夕餉焚く煙や沖に見えつらん帰るさいそぐ海人の釣舟
「家で夕飯を炊く煙が沖にまで見えたのだろうか。帰路を急ぐ海人の釣舟よ」。
「扁舟暮帰」は中世から見える歌題。「扁舟」は底の平たい小舟で、漢詩では捕われのない自由気ままな身の譬えなどとされた。いかにも漢詩の風韻が匂う四字題であるが、朝保の歌に漢心は感じられない。どこの港にも見られるであろう日常の、懐かしい風景である。
水石契久
動きなき御世を心の岩が根にかけて絶えせぬ滝の白糸
「微動だにせぬ大君のご治世を我らの心の堅固な支えとして、滝の白糸が大岩に水を注ぐように、絶えず忠心をお寄せ申し上げよう」。
明治五年(1872)、維新慶賀の一行の副使として上京した朝保は、多大な歓迎を受けたが、吹上御所の歌会に陪席した折、兼題「水石契久(水石ノ契リ久シ)」に応じた一首を披露した。庭園の岩が根に「動き無き御世」を託し、大岩と滝水の因縁に日本・琉球の長久の結びつきを言祝いだ一首である。大海のかなた辺土からの使者が、かくまで巧緻にして意味深長な和歌を詠出してみせたことに、内地人の陪席者の驚きは如何ばかりであったろう。
いわゆる「琉球処分」の受容を象徴するような一首として名高い。この果断ゆえに伊波普猷は朝保を「琉球の五偉人」の一人に数え上げたのである。
題は『散木奇歌集』に初見、以後たびたび出題されたものである。
寄月述懐
おもしろき月になりても敷島の道の外には行くかたもなし
「興の惹かれる月夜になったけれども、さて私はどこへ行こうか。和歌の道のほかには行く場所もない」。
月に寄せた述懐歌。古来の歌題である。早い晩年、三司官を辞して邸内に悟性亭を結び、和歌や書画に没頭していた(没頭するほかなかった)頃の作と思われる。政治家としては今なお毀誉褒貶甚だしい朝保であるが、内地と琉球の架け橋としての生涯を全うしたとは言えるであろう。
新刊のお知らせ 松風集・琉球の五偉人 ― 2015年08月17日
Amazonより電子書籍を刊行しましたのでお知らせ申し上げます。
先日当ブログで紹介しました宜野湾朝保の家集『松風集』と、この朝保を偉人の一人と讃えた伊波普猷・真境名安興著『琉球の五偉人』の二冊です。下の画像をクリックするとAmazonの商品詳細ページに移動します。
『松風集』は明治23年個人出版されたものが原本になります。以後長く復刻されることもなく、歌人の朝保も忘れられた存在になりつつあるようでした。先年、沖縄のひるぎ社より『近世沖縄和歌集』が刊行され、『松風集』の翻刻テキストも収録されたのですが、幾つか誤刻があり(注)、また注釈なども一切附いておりませんので、今回正確なテキストを作り、語釈を附して電子書籍として復刊した次第です。
幕末頃から戦前にかけて沖縄では伝統和歌の創作が盛んだったようですが、その土壌を作ったのが宜野湾朝保その人だったと言っても過言ではないでしょう。内地の歌人と比較しても、同時代にこれほどすぐれた歌人はあまりいないことは、ブログで引用した幾つかの歌からもお判り頂けるかと思います。
『琉球の五偉人』は大正五年に沖縄で出版された本が原本になります。朝保の事蹟を調べる中で出逢った本でしたが、非常に感銘を受けました。伊波普猷による「三偉人とその背景」(本書の前半部をなします)は、近世琉球の歴史を背景に、偉人達の活躍と苦悩を活写しています。その一人宜野湾(宜湾)朝保については、島津藩による支配という「一種の奴隷制度」から琉球を解放した政治家として高く評価しました。
『伊波普猷全集』第七巻に「琉球の五偉人」の名で収録されているのですが、他書と内容が重複しているため、ほとんどの章が割愛されてしまっています。その殆どは同全集の第二巻で読むことができるものの、ばらばらに収録されているので、一冊の本としては読めない現状です。新書や文庫にも入っていないのは大変残念で、沖縄問題が焦眉の課題とされている現在なおさら多くの方に読んで頂きたいと、電子書籍化したものです。
関連書籍
(注)近世沖縄和歌集収録の松風集の誤刻(数字は歌番号)
206 者× 物○
226 ほととぎす× ほとゝぎす○
281 夕火かげ× 夕日かげ
418 松の× 松に○
495 いづれは× いづれば○(これは翻刻者の誤読に基づくもの)
542 嘆き× 歎き○
615 嘆き× 歎き○
(歎は嘆の旧字でも異体字でもない)
翻刻者の方の名誉のために附言しますと、この程度の誤刻は専門の学者の本でも普通にあるもので、この本などはむしろ非常にすぐれた翻刻の部類に入ると思います。
新刊のお知らせ 伴林光平全集第一・二巻 ― 2015年08月31日
新たに電子書籍を刊行しましたのでお知らせ申し上げます。下の画像をクリックするとAmazonの商品説明ページに移動しますので、詳しくはそちらをご覧下さい。
楽天koboへは下記リンクよりどうぞ。
【はじめての方限定!一冊無料クーポンもれなくプレゼント】伴林光平全集第一巻勤皇編【電子書...
【はじめての方限定!一冊無料クーポンもれなくプレゼント】伴林光平全集第二巻国学編【電子書...
伴林光平というと、天忠組(天誅組)に加わって義挙の一部始終を記録した『南山踏雲録』を遺し、また荒廃した河内の山陵を調査するなどした勤皇家として名高いと思いますが、のみならず幕末屈指の歌人でもありました。加納諸平の数多い弟子の中でも傑出した才の持ち主です。また蔵鋒体の特異な書家としても評価の高い人で、その手跡は今も少なからず市場に流通しています。
私は光平の歌と書を愛する心深く、自筆の書画や短冊を長年集めていて(上の画像はその一つです)、いつか旧版の歌集に増補した光平の家集を編みたいと思っていたのですが、なかなか実現はおぼつかない現状です。とりあえず、これまでで最も完備した歌集と思われる湯川弘文社版全集の歌集編を電子化して出版しようと思い立ちました。
最初は歌集だけのつもりだったのですが、光平の歌は「南山踏雲録」を始め様々の著書に鏤められていますし、また彼の全体像や思想を知るためには当然歌書以外の書にもあたる必要があり、いっそ全集すべてを電子化することにしたものです。
原本の全集は800ページを超す大冊で、勤皇編・国学編・歌学編・詞藻編・日記書簡編・補遺に部類されています。電子書籍では、各編を分冊して全五巻とし、補遺は最終巻に併録する予定です。
【おすすめの伴林光平関連書籍】
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