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更新情報:千人万首に荒木田久老2010年01月14日

千人万首に荒木田久老をアップしました。六首。
江戸時代も後半に入った頃の人。代々伊勢神宮の神官を勤めた家に生まれ、神職を継ぐ一方、国学者・歌人としても活躍しました。若き日江戸に出て賀茂真淵に入門し、伊勢に帰った後も真淵の学を継承発展さすべく努め、主著は『万葉考槻の落葉』。
酒色を好む豪放不羈の人で、同じ伊勢の国学者でも本居宣長とは好対照でした。特に恋歌などからその人柄が髣髴とします。千人万首に恋歌は採らなかったので、ここに幾つか引きましょう。

吾妹子(わぎもこ)が玉手の枕六月(みなづき)の暑き夕べもあへて()き寝む
夏虫のひとへ衣も吾妹子に纏き寝む夜らは隔て苦しも
をとめ子が 笑まふゑまひの 眉引(まよびき)の 遠山ねろに 照る月の 足らへる妹が (おも)かたの 見まくほしけど ()がなげく おきその風に 夜霧かも 立ちやわたれる 吾が恋ふる 心おほしみ 天雲(あまぐも)の 隔てたるかも 夜ならべて 待てど見えこぬ はしき妹の子

更新情報:千人万首に久坂玄瑞をアップ2009年12月26日

千人万首に久坂玄瑞をアップしました。六首。
申すまでもなく幕末長州の志士。高杉晋作の盟友。禁門の変において二十五歳の若さで命を落とします。
詩人としての本領は漢詩にあり、和歌は遺文集『江月斎遺集』に五十余首を残すばかり。同書の前半は古今調、後半は万葉調と好対照をなし、前者は醇雅、後者は気魄に溢れています。いずれも心を動かされずにはおられません。

ふるさとの花をも見ずてはるかなる旅にさまよふ此の旅人(たびと)あはれ
おほぎみの御馬(みうま)の口をとりなほし吉野の山に桜狩せむ
さくら花手折りかざさんもののふの鎧の上に色香を見せて

千人万首に堀田一輝をアップ2009年12月10日

千人万首に堀田一輝をアップしました。三首。近世前期、徳川光圀と同時代の人で、幕府の御留守居を勤めた旗本です。
光圀が編ませた地下歌人の和歌撰集『正木のかづら』では光圀に次ぐ十四首を採られ、地下歌壇で重んじられていたことが知られます。入撰歌は佳詠ばかりと言って過言でなく、社会的地位の高さゆえ撰歌基準を甘くされたなどということはなさそうです。
千人万首には採らなかった歌よりいくつか挙げてみましょう。

  野春雨
矢田の野のあさぢ色そふ春雨にあらちの山の雪や消ぬらむ
  河夕立
駒とめて待つほどもなく晴れわたるひのくま河の夕立の空
  河月
水無瀬川水のうき霧末はれて山もと遠く月ぞほのめく
  霜
さゆる夜のあらしの後にむすぶらし朝の霜のあさぢふの庭

万葉集や代々勅撰集の名歌の語彙・歌枕・情趣などを巧みに取り入れ、しかも新味をひとふし添えています。音調にも細心の注意が払われ(最後の歌の「あ」の頭韻など)、よほど和歌に入れ込んでいないと作れないような歌ばかりです。武士が余技として和歌を楽しんだなどというレベルからは懸け離れています。
注目すべき幕臣歌人だと思うのですが、各種の人名辞典を調べても、この人の記載は見つからず、生没年も系譜も知ることができません。

千人万首に大倉鷲夫をアップ2009年12月04日

千人万首に大倉鷲夫をアップしました。五首。近世後期、文化文政天保と活躍した歌人です。
高知城下の商家の生まれ。四十を過ぎて土佐を脱し、大坂の阿弥陀池で人相見の占い師として生計を立てつつ、本居大平などに和歌を学びました。異色の経歴の歌人ですが、歌風も異色で、当時はまだ珍しかった、本格的な万葉調歌人です。
千人万首には採らなかった一首を挙げましょう。
陽炎(かぎろひ)の夕日のくだち見渡せば神さび立てり玉津島山
紀伊国和歌の浦に浮かぶ玉津島を詠んだ歌。「陽炎の」は「夕日」の枕詞。古い由緒を持つ歌枕に寄せる崇敬の情を、まことに純直に歌い上げています。生前から名は高かったようですが、維新後、歌壇で万葉尊重の気運が高まるにつれ、さらに評価が高まりました。現在では忘れられつつある人と言わざるを得ないようですが、忘れるにはあまりに惜しい歌人だと思います。

千人万首に菅沼斐雄をアップ2009年11月26日

近世後期の歌人、菅沼斐雄(すがぬまあやお)をアップしました。四首。
備中吉浜、今の岡山県笠岡市の庄屋の生れ。香川景樹の門人となり、桂園の四天王とも称された人です。文政元年(1818)、江戸歌壇制覇を目指した景樹に従い江戸に下り、師匠の帰京後も江戸に留まって桂園派の普及に努めました。浅草に歌塾を開き、大名・旗本などを弟子として威勢を振るったといいます。
師景樹の歌風をよく学び、家集を読むと印象鮮明な佳詠が散見されます。但し同門の熊谷直好・木下幸文のような醇乎たる詩魂は感じられません。生前の盛名が死後急速に衰えてしまったのも、無理はないように思われます。
千人万首に採らなかった作より幾つか。
  郭公
夕虹は消え行く空に顕はれて時鳥こそ鳴きわたりけれ
  冬夜難曙
明かしわび起き出てみれば星冴えていまだ夜深き鐘の音かな
  雨中待人
里遠き草の庵の雨ごもりさびしかりやととふ人もがな

千人万首に清水谷実業をアップ2009年11月22日

千人万首に清水谷実業をアップしました。近世初期の公家歌人です。
三条西家の血をひきますが、西園寺家の一門清水谷家の養子になり、権大納言を勤めました。元禄の内裏歌壇に重きを置いた歌人で、どの歌も腕の冴えを見せ、唸らされるような作品ばかりです。千人万首に採らなかった歌より幾つか。

  落花似雪
散りぬるを嵐の(とが)になしてみん消えだに残れ花のしら雪
  夏山
夕立の雲はふもとの峰こえて照る日かかやく雪の富士の嶺

追加更新2009年11月09日

山本春正に一首追加しました。

千人万首に山本春正をアップ2009年11月07日

千人万首は久々の更新です。近世初期の歌人、山本春正(しゅんしょう)をアップしました。二首。
木下長嘯子の高弟の一人で、長嘯子の歌文集『挙白集』を完成させた中心人物。また、水戸光圀の命になる、地下(じげ。宮廷に地位を持たない階層)の歌人の作を集成した歌集『正木のかづら』の編纂者でもあり、近世地下歌壇では重きを置かれる人物です。今では歌人としてよりも、代々継がれた蒔絵師としての名が知られているでしょう。華麗で装飾的な蒔絵は「春正塗」「春正蒔絵」と呼ばれ、尊ばれています。
活字になった限りの歌は読んでみて、さほどの秀歌を見出すことはできませんでしたが、やはり長嘯子の一番弟子、相当の力倆がうかがえます。
『正木のかづら』(木下長嘯子全集第四巻に翻刻されています)収録歌より幾つか引いてみましょう。
久方の空みつやまともろこしをおしなべて立つ春霞かな
かつ氷りかつはたばしる霰かな月すむ河の波の白玉
契りおきて限りあるべき道にだに遅れしものをきぬぎぬの空
須磨の浦や藻塩たれけむ昔まで煙にのこる夕暮の空