石蕗:草木の記録201010312010年10月31日

石蕗の花に止まる蝶と蜂

咲き始めた石蕗の蜜を求めて、早速蝶と蜂が来ていた。

本朝麗藻卷下 代迂陵島人感皇恩詩 源爲憲2010年10月31日

迂陵(うりよう)島の人に代りて皇恩を感ずる詩 (みなもとの)為憲(ためのり)

遠來殊俗感皇恩  遠来の殊俗(しゆぞく)皇恩に感ずれど
彼不能言我代言  彼言ふ(あた)はざれば我代りて言ふ
一葦先摧身殆沒  一葦(いちゐ)先に(くだ)けて身(ほとほ)と没す
孤蓬暗轉命纔存  孤蓬(こほう)暗転して命(わづ)かに存す
故鄕有母秋風涙  故郷に母有り秋風(しうふう)の涙
旅舘無人暮雨魂  旅館に人無し暮雨(ぼう)の魂
豈慮紫泥許歸去  ()(はか)らめや紫泥(しでい)帰去を許さんとは
望雲遙指舊家園  雲を望み遥かに指す旧家の園

【通釈】遠来の異国人は皇恩に感じ入っておりますが、
彼は我が国の語が話せませんので、私が代って申し上げます。
「一艘の小舟が先頃難破し、我が身は溺れかけました。
孤独な漂流者の運命は暗転し、僅かに命を繋ぎました。
故郷の島におります母を思えば、秋風に涙がこぼれます。
異郷の宿には私の外誰もおらず、夕暮の雨に魂は細ります。
ところが詔書で帰国をお許し下さるとは、思いも寄りませんでした。
雲を望み、遥かに故郷の家を仰いでおります」

【語釈】◇殊俗 異国。異国の人。◇一葦 小舟。◇孤蓬 風で遠くまで飛ぶ(よもぎ)。漂流者の譬え。◇紫泥 不詳。詔(天子の仰せ)のことか。詔書には紫の印泥を用いた。◇舊家園 故郷すなわち迂陵島の家の園。

【補記】我が国に漂着した迂陵島(鬱陵島)の人に代って作ったという詩。藤原公任の家集に「新羅のうるまの島人きて、ここの人の言ふ事も聞きしらずときかせ給ひて」云々の詞書が見え、同じ頃の作と思われる。新撰朗詠集巻下「行旅」の部に「故郷有母秋風涙 旅舘無人暮雨魂」が引かれ、両句は定家仮託の歌論書『三五記』『愚見抄』などにも引かれている。また『正徹物語』によれば、藤原定家は歌を案ずる時にこの詩句を吟ずることを人に勧めたと言う。

【影響を受けた和歌の例】
たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人こふる宿の秋風(藤原定家『新古今集』)
思ひやるとほきははその秋風に人なき宿の夕暮の雨(正徹『草根集』)

【作者】源為憲は生年未詳、寛弘八年(1011)八月没。筑前守忠幹の子。文章生を経て内記・蔵人・式部丞・美濃守などを歴任し、正五位下に至る。源順に師事し、漢詩文に秀でた。『本朝文粋』『本朝麗藻』などに漢詩文を、拾遺集に和歌一首を残す。

(2010年11月4日加筆訂正)