雲の記録20100101 ― 2010年01月01日
和歌歳時記:屠蘇 New Year's sake ― 2010年01月03日
明けましておめでたうございます。本年もどうぞよろしくお願ひ申し上げます。
正月三日の夜も更けましたが、まだお屠蘇気分に浸つておいでの方も多いことでせう。
さてその「お屠蘇」ですが、本来はさまざまな薬草を調合した「屠蘇散」を袋に入れて浸した中国の薬酒で、一年の邪気を払ひ長寿を願つて飲まれる祝ひ酒でした。後漢末の名医
楚の民間の風俗を記し、中国現存最古の歳時記と言はれる『荊楚歳時記』(西暦6世紀成立)の正月一日の項には次のやうな記事が見えます。
長幼悉 く衣冠を正し、次を以て拝賀し、椒柏酒を進め、桃湯を飲み、屠蘇酒を進む
日本には平安時代に伝はり、朝廷の元日行事として屠蘇を飲むことが採り入れられました。『土左日記』の承平四年(934)の年末の記事に「
調合する薬草には
『年中行事歌合』 供屠蘇白散 冷泉為秀
春ごとにけふなめそむる薬子は若えつつみん君がためとか
「毎春の今日元日、最初にお味見する薬子は、何度も若返り千世を見る大君の御為であるとか」。
南北朝時代の貞治五年(1366)十二月、二条良基が主催した歌合に出詠された歌。有職故実に通じてゐた良基は判詞で屠蘇についての薀蓄を披露してゐます。
屠蘇白散といふ薬は、一人これを飲みぬれば一家に病ひなし、一家飲みぬれば一里に病ひなしといふ目出たき功能侍れば、年のはじめ清涼殿にて聞こし召すなり。薬子とは幼き童女にて侍り。これも屠蘇は小児より飲むといふ本文にてあれば、まづ御薬をこれになめさせられて聞こし召すにや。
屠蘇を年少者から順に飲む風習はやはり中国由来で、毒見役に童女を置くといふしきたりもこれに基づくものであらうと良基は推察してゐます。
屠蘇を天皇より先に童女が舐めることは、どうやらお毒見といふよりも、若返りを願つての儀式的な意味合ひが強かつたやうに見えます。為秀の歌も、さうした知識を踏まえてのものでせう。
今も年末に屠蘇散を用意する薬局はあり、安価ですし、入手は難しくありません(因みに現在では毒性の強い薬草を含まないので、全く安全とのことです)。屠蘇散は酒の香りを良くし、風邪の予防などにも効果があるさうです。元旦、古を偲びつつ本当のお屠蘇を味はつてみるのも良いのではないでせうか。
-----------------------------------------------------『雲玉集』(屠蘇白散の心をよみ申せし) 馴窓
おしなべて誰えつつみむ白く散る春さへ雪のむらさきの庭
『うけらが花』(薬児の絵に) 橘千蔭
ことしより生ひ先こもる薬児にあえなむ春ぞ限りしられぬ
『竹乃里歌』 正岡子規
新玉の年の始と
『赤光』 斎藤茂吉
『風雪』 吉井勇
大土佐の
和歌歳時記:福寿草 Pheasant's eye ― 2010年01月04日
キンポウゲ科の多年草。福づく草、元日草、さちぐさとも。ちやうど旧暦正月頃に開花するので、縁起の良い花として新年の床飾りに用ゐられるやうになつたのは、江戸時代のことである。陽暦の今も正月の花として好まれ続け、歳末初春の市で鉢植が売買される。
今滋 が近きわたりなる友どちの許 に行きける帰るさ、福寿艸 の有りけるを買ひて、おのれに家づとにせむとてもてかへり、机上 にすゑて、これ見給へといひける時
正月 立つすなはち華のさきはひを受けて今歳 も笑ひあふ宿
幕末の歌人
『霞関集』(かしこより金山の福寿草を押花にして添へてつかはす歌) 石野広通
これぞこの黄金の山に咲きそひてその色見する花の春草
『鈴屋集』(福寿草といふもの書きたるに) 本居宣長
人みなのいはふ名おひてあらたまの年のはじめに咲くやこの花
『蜀山人家集』(福寿草の画讃) 大田南畝
元日の草としきけば春風のふくと寿命の花をこそもて
『草径集』(元日草) 大隈言道
うれしくも年の始めのけふの日の名におひいでてさくやこの花
『白桃』 斎藤茂吉
『晴陰集』 吉野秀雄
朝にほふ緋氈の上に
百人一首 なぜこの人・なぜこの一首:第1番天智天皇 ― 2010年01月05日
秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ
【なぜこの人】
百人一首は、上代より藤原定家の同時代(鎌倉時代初期)にわたる歴代の歌人から一首ずつ、計百首を撰んだ秀歌撰です。百人の顔ぶれを見れば、宮廷詩としての和歌の全歴史を貫こうとした編者の意図は明らかです。
百人一首以前にも、上代歌人を含めた歌仙秀歌撰はいくつか編まれています。藤原公任の『三十六人撰』、具平親王の『三十人撰』、後鳥羽院の『時代不同歌合』など。いずれも巻頭を飾るのは歌聖柿本人麻呂でした。天智・持統両天皇の歌を以て始まる百人一首は、その冒頭からして異例の王朝秀歌撰と言わざるを得ません。
百人一首の最初の歌人として、藤原定家は何故天智天皇を撰んだのでしょうか。
まず、和歌の歴史を繙いてみましょう。万葉集の巻頭、雄略天皇の御製一首に始まり、すぐ舒明天皇代に移って五首、また皇極・斉明天皇代に至り額田王が登場します。そして天智天皇の御代となり、額田王の春秋優劣を競う歌、大海人皇子との唱詠「あかねさす紫野ゆき…」「紫のにほへる妹を…」などが続いて、いよいよ華やかな歌の時代の始まりを告げます。
このように天智天皇の御代は宮廷詩としての和歌の黎明期と重なり、人麻呂や赤人が登場する宮廷和歌の黄金時代を準備した、和歌史上きわめて重要な時代でした。
しかも、天智天皇は平安王朝の直系の祖先として格別に尊ばれた天皇です。
奈良時代の天皇は天智の弟である天武天皇の血筋が正統とされたのですが、奈良朝末期、称徳天皇でその系列は途絶え、天智天皇の孫にあたる白壁王が擁立されました(光仁天皇)。平安京に都を遷したのは、光仁の子である桓武天皇です。以後、天智系の血統が守られ続けて定家の時代に至ります(もとより今上天皇も天智系でいらっしゃいます)。

桓武天皇を遡る直系の祖先で、すぐれた歌を残している天皇と言えば、舒明天皇と斉明天皇もいます。しかし、両天皇とも勅撰和歌集では定家死後二十年以上も経った文永二年(1265)奏覧の続古今集が初出となります。百人一首は代々の勅撰集入撰歌から撰ぶという方針が貫かれているので、定家はこのお二方を撰ぶことは出来なかったのです。
平安王朝の直系の祖先にあたる天皇で、かつ勅撰入集歌人を上代にまで遡って求めれば、天智天皇しか残りません。王朝和歌全史にわたる秀歌撰である百首歌の巻頭という重い位置には、然るべき天皇を置かなければならない――もし定家がそう考えたとしたら、天智天皇以外に選択肢はなかったでしょう。
【なぜこの一首】
万葉集には天智天皇御製として四首が見え、なかでも巻一の「わたつみの豊旗雲に入日さしこよひの月夜さやけくありこそ」は荘厳な傑作として名高い歌ですが、勅撰集への入集は鎌倉末期の玉葉集まで待たねばなりませんでした。
定家の時代、天智天皇の勅撰入集歌は二首あるのみでした。一首は後撰集の「秋の田の…」すなわち百人一首に採られた歌。もう一首は新古今集の「朝倉や木の丸殿に我がをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」です。前者は万葉集巻十一の作者不明歌「秋田苅る仮庵を作りわが居れば衣手寒し露ぞ置きにける」の異伝とする説が有力であり、後者は催馬楽に原型を持つ歌で、いずれも天智天皇の真作とは信じがたいものです。
それはともかく、新古今集の撰者の一人であった定家は「朝倉や…」の歌の推薦人に名を連ねており、また『定家八代抄』にも採って、高く評価していたことが窺えます。一方「秋の田の…」の歌はと言えば、『定家八代抄』『詠歌大概』『近代秀歌』『秀歌大躰』『八代集秀逸』といった、百人一首以前に定家が編んだ秀歌撰のほとんどに採られており、評価の高さは比較を絶しています。歌の撰定についても、選択肢は他になかったと言えましょう。
しかしなぜ定家は「秋の田の…」の御製をそれほど高く買ったのでしょうか。
秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ
秋、収穫を控えた田のほとりの小屋で番をする我が袖は、覆いの苫が粗いので、隙間を漏れる夜露に濡れつづける――。
まず確認しておきたいのは、後撰集の時代も新古今集の時代も、この御製が天智天皇の残した題詠歌として鑑賞されたはずだということです。作者のなまな体験を歌うのでなく、定められた主題のもと、人物や場面を仮構して歌を作る、というのが当時の普通の作歌法でした。後撰集の配列からすると、「露」という秋の風物を主題とした歌として撰者たちはこの歌を採ったようです。しかし単に「露に濡れつつ」田の番をする農民の労苦を詠んだ歌と読むことはできません。
例えば天智御製によく似た歌が古今集秋歌に見えます。
穂にも出でぬ山田を守 ると藤衣稲葉の露に濡れぬ日ぞなき
古今集の配列からして《秋の田》を主題とした歌ですが、「穂に出づ」は「
かように、技法的には紛れもなく平安王朝ぶりの歌です。しかし、一首の詞つきを見れば、「かりほのいほ」の繰り返し、「苫をあらみ」のいわゆる《上代のミ語法》、結句の「つつ」止め、いずれも上代の歌に多く見られる語法で、定家の時代から見ても古風を留めた歌と言えます。初句から第四句まではo音を多く用いておおらかに流れ(akinotano karionoiono tomawoarami wagakoromodewa)、結句は対照的にu音が多く鬱々と沈んだ調子になり(tuyuninuretutu)、一首の調べはまことにうるわしい。いわゆる《至尊調》《帝王調》とはちょっと違うのですが(そもそも百人一首に至尊調の天皇御製は一首もありません)、上代の御製にふさわしい格調を具えているとは言えるでしょう。
なお、後撰集にこの歌が天智御製として採られたのは、やはり農事と天智天皇の結びつきに因るものでしょう。天智天皇は日本最初の全国的な戸籍『庚午年籍』を作成し、「諸国ノ百姓ヲ定メ民ノカマドヲシルス」(慈円『愚管抄』)英帝として仰がれました。農民の立場に寄り添うように詠まれたこの歌こそ、慈悲深い聖帝の御製に似つかわしい――古人はそう認めて疑わなかったのです。
(2010年2月12日・28日加筆訂正)
雲の記録20100106 ― 2010年01月06日
雲の記録20100107 ― 2010年01月07日
雲の記録20100108 ― 2010年01月08日
論語 述而編十五 ― 2010年01月09日
不義而富且貴
子曰、飯疏食飮水、 子の
曲肱而枕之、樂亦
在其中矣、不義而 其の
富且貴於我如浮雲 富み
【通釈】先生が言われた、「粗末な飯を食べ、水を飲み、腕を枕にして寝る。楽しみはやはりそんな暮らしにもあるものだ。義に背いて富を得、高い地位を得ても、私にとってそんな生活は浮雲のようにはかない」。
【補記】述而編第七の十五の全文を引用した。富については里仁編にも言及があり「富と貴きは、是れ人の欲する所なり。其の道を以て之を得ざれば、
「不義而富且貴於我如浮雲」を句題とした和歌が南北朝時代の勅撰集『新千載和歌集』に見える。
【影響を受けた和歌の例】
身にたへぬ我が名もよしや
和漢朗詠集卷上 氷 ― 2010年01月12日
失題
霜妨鶴唳寒無露 霜
水結狐疑薄有氷 水
【通釈】この寒さに露は残らず霜となり、鶴の声も震えている。
水面はうっすらと氷が張って、狐はためらいつつ川を渡る。
【語釈】◇妨鶴唳 鶴の鳴き声を妨げる。霜が置くほどの厳しい寒さが、鶴の鳴くことを邪魔するのである。◇結狐疑 狐に疑いをもたらす。「狐疑」は疑いためらうこと。狐は疑り深い動物とされ、氷の下に水音のないことを確かめてから渡るという言い伝えがある。
【作者】
【補記】出典は不詳。「霜妨鶴唳寒無露」を踏まえたかと思われる和歌が古くから散見される。『土御門院御集』の歌は、この句を題として詠んだもの。
【影響を受けた和歌の例】
さ夜ふけて声さへさむき
霜ふかき沢辺の蘆に鳴くつるの声もうらむる明暮の空(藤原定家『拾遺愚草』)
おく露のむすべばしろき霜のうへに夜ふかきつるの声ぞさむけき(土御門院『土御門院御集』)
冬の夜に声さへさむき葦鶴のなくねも霜やおきまよふらむ(藤原秀能『如願法師集』)
冬枯れの網代のたづも声たえぬ野沢の水のこほる霜夜に(藤原内経『文保百首』)
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