佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大阪神戸附近4 大阪(難波) ― 2015年05月01日
大阪
大阪湾に臨む、古の難波の地。
心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを
難波の市いづち見るにも所せき家のはざまの初しぐれかな
夏近し心斎橋の扇屋のみの屋の店のみせ飾りかな
広重の水と町とをおもほゆる道頓堀のあるゆふべかな
春一日文楽にくれてそのかみの女のために涙そゝぎし
兵営の槐樹の梢ほの白う狭霧の中を鴉むれとぶ
雨空に月は大きうぼやけたり葛城の裾くろぐろと見ゆ
畑の井の釣瓶の竿のすいすいと立てる向うの葛城の山
補録
難波・大阪
昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり
海原のゆたけき見つつ蘆が散る難波に年は経ぬべく思ほゆ
夕波の花にもかけて梅が香をさそふ難波のさとの春風
露と落ち露と消えにし我が身かななにはの事も夢のまた夢
あしがちる難波の里の夕ぐれはいづくもおなじ秋風ぞ吹く
西の京大阪かけてはしきやし吉井勇のあそぶ初夏
たはれをの心のごとく流るるや南し北す大阪の水
大阪に着きてはじめて見し空を元禄の世の空とおもひぬ
難波津
難波江の要港。上代、倉庫や商館が立ち並ぶ物流の一大拠点であった。
難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
難波津に御船下ろ据ゑ八十楫貫き今は榜ぎぬと妹に告げこそ
難波津を今日こそみつの浦ごとにこれやこの世をうみわたる舟
難波江・難波潟
大阪市中心部(上町台地以西)とその周辺部には、かつて水深の浅い海や葦におおわれた低湿地が広がっていた。その辺りを難波潟とか難波江とか呼んだ。蘆の名所であり、澪標が名物とされた。
難波潟潮干の名残よく見てむ家なる妹が待ち問はむため
直越のこの道にして押し照るや難波の海と名付けけらしも
難波潟みじかき葦のふしのまもあはで此の世をすぐしてよとや
わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしてもあはむとぞ思ふ
秋風に潮みちくれば難波江の葦の穂よりぞ舟もゆきける
津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり
難波江の葦のかりねの一よゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき
忘れじな難波の秋のよはの空こと浦にすむ月は見るとも
難波江やあまのたくなは燃えわびて煙にしめる五月雨のころ
夕月夜しほみちくらし難波江の蘆の若葉にこゆる白波
難波江や冬ごもりせし梅が香のよもにみちくる春の潮風
難波がた月のでしほの夕なぎに春の霞のかぎりをぞ知る
難波がた霧間の小舟こぎかへり今日も昨日もおなじ夕暮
佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大阪神戸附近4 安治川~天王寺 ― 2015年05月05日
写真は四天王寺。
安治川
大阪市を貫流せる淀川の海に近き下流を安治川といふ。川村瑞賢の改修によりてその名を負へるなり。また川口ともいふ。船舶輻湊せり。
西吹くと思ひもあへず安治川の川瀬をのぼるかずの船の帆
いそがしき安治川口の船つきに春の日中を男釣する
円珠庵
大阪市の東部にあり、契沖阿闍梨旧棲の地。
(水垣注:大阪環状線玉造駅より西約五百メートル。天王寺区空清町。契沖の墓あり。通常非公開。)
春雨の世にふることも知らであらむ難波の芦のめぐみ初ずは
たらの葉の蔭しめながら外山なる楢の木葉をかきつめしはや
夕陽が丘
市の東南部、夕陽丘女学校構内に藤原家隆の墓あり。
(水垣注:夕陽丘女学校の後身である府立夕陽丘高校は移転したため、現在家隆の墓は学校構内ではなく、住宅地の一角に史跡として保存されている。地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽丘」下車、西約百メートル。)
契あれば難波の里にやどりきて浪の入日を拝みけるかな
天王寺
大阪市の東南端にあり。聖徳太子の草創。
濁なき亀井の水を結びあげて心のちりをすすぎつるかな
人とほらぬ四天王寺の蓮池に亀うかびたり秋の日をよみ
小春日和四天王寺の敷石に群れ居る鳩に豆などやりぬ
補録
安治川
紀津川に安治川に入る船の帆の行く方わかつ住吉の沖
円珠庵
正紹とともに、はじめて円珠庵の契沖阿闍梨の墓にまうでて、九月の末つかた
あととめん道こそしらね庭ざくら秋の木の葉と散りつもりつつ
夕陽が丘
鵙のなく夕日の岡の秋はぎは末葉までこそ色付きにけれ
天王寺
万代をすめる亀井の水はさは富緒川のながれなるらん
さはりなく入る日を見ても思ふかなこれこそ西の門出なりけれ
難波津に人のねがひをみつしほは西をさしてぞ契りおきける
世をすくふ誓ひの海の入日こそ難波の水のてらすなりけれ
み仏のみ手のいとゆふ見ゆるかな西に入日のかげのうちより
打ちわたす海のかぎりは遠けれどたなびきあまる春霞かな
厩戸の皇子がかゝせる十あまり七條憲法見るがたふとさ
佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大阪神戸附近6 住吉 ― 2015年05月06日
住吉
大阪市の南端より約一里の南にあり。官弊大社住吉神社あり。
住の江の岸の松が根うちさらし寄り来る波の音の清しも
われみても久しく成ぬ住のえの岸の姫まつ幾よへぬらん
住の江の松を秋風吹くからに声うち添ふる沖つしらなみ
おきつかぜ吹きにけらしな住吉の松のしづえをあらふしら浪
住吉の松の木間より見渡せば月おちかゝる淡路しま山
雁はなどやすらふ心なかるらむ松原かすむ住の江の浦
淡路島見つゝゆけとや住吉のあらゝまつ原まばらなるらむ
補録
住吉
(水垣注:上代は「すみのえ」と呼ばれ、これに「住吉」の字を宛てたが、平安時代から「住吉」を「すみよし」とよむようになり、こちらの呼び方が普通になった。)
白浪の千重に来よする住吉の岸の黄土ににほひてゆかな
住吉の得名津に立ちて見渡せば武庫の泊ゆ出づる船人
暇あらば拾ひにゆかむ住吉の岸によるといふ恋忘れ貝
道しらば摘みにもゆかむ住の江の岸におふてふ恋忘れ草
すみの江の岸による波よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ
あまくだるあら人神のあひおひを思へば久し住吉の松
いくかへり花咲きぬらむ住吉の松も神代のものとこそきけ
住吉の松のうれよりひびき来て遠里小野に秋風ぞふく
我が道をまもらば君をまもるらむよはひはゆづれ住吉の松
住の江や春のしらべは松風もひとつみどりの色にかすみて
佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大阪神戸附近7 浅沢・遠里小野 ― 2015年05月07日
補録
浅沢
住吉神社の近くに「浅沢小野」と呼ばれる野があり、また「浅沢沼」と呼ばれる沼があった。杜若と忘れ水の名所。住吉区上住吉に住吉大社の末社浅澤社がある。
住吉の浅沢小野のかきつはた衣に摺り付け着む日知らずも
住吉の浅沢小野の忘れ水たえだえならで逢ふよしもがな
五月雨に浅沢沼の花かつみかつ見るままに隠れゆくかな
かきつばた浅沢沼のぬま水に影をならべて咲きわたるかな
風吹けば浅沢小野の花薄ひとつにつづく沖つ白波
春の野に若菜摘まむときて見れば浅沢水はいまだ氷れり
浅沢の水のゆくへも知られけりひとすぢ白き月のひかりに
遠里小野
大阪市住吉区から堺市にかけての丘陵地。大阪府住吉区と堺市堺区に「遠里小野」の地名が残るが、いずれも現在は市街地である。萩の名所とされた。
住吉の遠里小野の真榛もち摺れる衣の盛り過ぎゆく
住吉の松のうれよりひびき来て遠里小野に秋風ぞふく
咲きにけり君がみるべき行末は遠里小野の秋萩の花
真萩ちる遠里小野の秋風に花ずりごろも今やうつらん
誰かまたここにとひこんゆく道もとほざと小野の花を尋ねて
新刊のお知らせ 祇園三女歌集 蓮月式部二女和歌集 ― 2015年05月08日
近世女流歌人の歌集二冊(電子書籍)を新たに出版しました。
『祇園三女歌集(補訂版・口語訳付)』
江戸時代中期、京都祇園社(八坂神社)の茶店で三代にわたって女将をつとめた祇園梶子・百合子・町子(池玉瀾)の歌を集めた『祇園三女歌集』(明治四十三年祇園風流刊)の電子書籍版です。
他本を参照して最小限の補訂を加え、また口語訳を附しました。訳を添えたのは、和歌のレトリックを極めて巧緻に駆使した歌があり、現代の読者には理解しづらいものが少なくないと思われるためです。
言うまでもなく江戸元禄頃は町人文化の頂点と言われる時代で、梶子などもその一翼を担う人でしょう。誰に教えられたわけでもなく、幼くして和歌を口吟みはじめ、やがて王朝和歌の骨法を会得した、やはり元禄という時代が生んだ天才と言うほかない人だと思います。家集『梶の葉』は新編国歌大観に収録されていますが、百合子の『小百合葉』と町子の『白芙蓉』はなかなか読む機会さえない現状ですので、古書を復刊した次第。
もう一冊は『蓮月式部二女和歌集(補訂版・注釈付)』。
大正三年十二月に珍書会から刊行された『蓮月式部二女和歌集』(宮崎璋蔵校訂・発行)を電子書籍として復刊したものです。
「珍書会」なるものは、どうやら宮崎璋蔵(1859-1919)の個人出版だったようです。三昧道人の別号も持つ、歴史作家としても知られた人ですが、晩年、稀書・珍書の類を校訂して「賞奇楼叢書」と名づけ多数出版しました。上で触れた『梶の葉』『小百合葉』、山口素堂の『とくとくの句合』、妖怪狂歌の秀逸『百鬼夜狂』などなど。今ではどれも稀覯本です。
さて幕末の二大女流歌人、大田垣蓮月と高畠式部については説明するまでもないでしょう。二人の秀歌を部類し交互に並べるという面白い趣向の歌集に、蓮月の味わい深い一文「大仏のほとりに夏をむすびける折」を併載しています。
やはり諸書を参照して最小限の補訂を加え、また注(語釈)を添えました。蓮月・高畠式部の歌は平明なので口語訳するまでもないでしょうが、やはり掛詞・縁語といった修辞法は駆使されているので、最低限の語釈を附けたものです。
巻末には、原本が底本とした金屏堂蔵板本の画像(国立国会図書館提供)と翻刻を収めました。
佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大阪神戸附近8 和泉国(浜寺~信田の森) ― 2015年05月13日
写真は葛葉稲荷神社の和泉式部歌碑。
浜寺
堺市南方の松原。むかし高師の浜といへりき。
わたの原うかべる船の真帆片帆ちる花なせり海上をよろしみ
信田の森
和歌山線葛葉駅より見ゆ。
(水垣注:現在、信太森葛葉稲荷神社へはJR阪和本線北信太駅が最寄りである。西二百メートルほど。)
おもふこと千枝にや茂き呼子鳥信田の森のかたに鳴くなり
補録
浜寺・高師の浜
大伴の高師の浜の松が根を枕きて寝る夜は家し偲はゆ
沖つ浪たかしの浜の浜松の名にこそ君を待ちわたりつれ
音に聞く高師の浜のあだ浪はかけじや袖のぬれもこそすれ
よる波もたかしの浜の松風のねにあらはれて君が名もをし
信田の森
和泉式部、道貞に忘られて後、ほどなく敦道親王にかよふと聞きて、つかはしける
うつろはでしばし信太の森を見よかへりもぞする葛のうら風
秋風はすごく吹くとも葛の葉のうらみがほにはみえじとぞ思ふ
過ぎにけり信太の森の時鳥たえぬしづくを袖に残して
夕立の名残り久しきしづくかな信太の杜の千枝の下露
吹飯の浦
大阪府泉南郡岬町あたりの沿海。大字深日の名は「ふけひ」からの転訛であろうか。『万葉集』の歌により「時つ風」「沖つ風」などと共に詠まれることが多い。深日港へは南海多奈川線深日港駅下車。なお紀伊国の歌枕「吹上の浜」の異称として用いられることもある。
時つ風吹飯の浜に出で居つつ贖ふ命は妹が為こそ
天つ風ふけひの浦にゐる鶴のなどか雲居にかへらざるべき
佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大阪神戸附近9 金剛山・葛城山 ― 2015年05月23日
写真は葛城山。写真ACフリー素材。
金剛山
大阪市の東南にあたりて遠望すべし。楠公が千早の城址はその西面の山ふところにあり。
(水垣注:「葛城や高間の山」と詠まれた「高間の山」が金剛山の古称とされる。花の名所として歌に詠まれたが、今も山頂は桜の名所である。)
千早ぶる敵を千早にふせぎけり神代もきかぬことはかりして
葛城山
金剛山の北にこれと連立せり。
(水垣注:古歌などに「葛城や高間の山」といった呼び方がされているので、「葛城山」は金剛葛城連山の総称とも考えられている。桜の名所。なお今「葛城」を「かつらぎ」とよむが、古くは「かづらき」とよんだ。)
かつらぎや高まの山の峯の寺さむき日かげに花もさきけり
白雲のこころや空にみだるらむかつらぎ山の峯のあき風
補録
金剛山(高間の山)
よそにのみ見てややみなむ葛城や高間の山の嶺のしら雲
葛城や高間の山のさくら花雲ゐのよそに見てや過ぎなむ
雲さそふ天つ春風かをるなり高間の山の花ざかりかも
葛城や高間の桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲
かづらきや高間の桜ながむれば夕ゐる雲に春雨ぞ降る
いつかその雲をしのぎしあととめて我も高まのやまと言の葉
天の下はらふ千早の一おろし神とも神のしわざなりけり
葛城山
桜花咲きぬるときは葛城の山のすがたにかかる白雲
白雲のたえまになびく青柳のかづらき山に春風ぞ吹く
うつりゆく雲に嵐の声すなり散るかまさきのかづらきの山
白雲や花よりうへにかかるらむ桜ぞたかき葛城の山
すげ笠にあるべき歌と強ひゆきぬ若葉よ薫れ生駒葛城
雲を見ず生駒葛城ただ青きこの日なにとか人を咀はむ
佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大阪神戸附近10 生駒山 ― 2015年05月29日
生駒山
大阪市の東方に聳ゆ。大和河内の国境に立てる山。
おとなしき生駒の山の秋姿入日のあとの紫のよさ
補録
難波門を漕ぎ出でて見れば神さぶる生駒高嶺に雲ぞ棚引く
妹がりと馬に鞍置きて生駒山うち越え来れば黄葉散りつつ
君があたり見つつを居らむ生駒山雲なかくしそ雨は降るとも
秋篠や外山の里やしぐるらん伊駒の嶽に雲のかかれる
生駒山あらしも秋の色に吹く手染めの糸のよるぞかなしき
思ふことそなたの雲となけれども生駒の山の雨の夕暮
はるかなるながめもすずし難波がた生駒の雲のゆふだちの空
波の上にうつれる月はありながら生駒の山の峰ぞ明けゆく
我こそは面がはりすれ春霞いつも生駒の山に立ちけり
最近のコメント