和歌歳時記:海棠 学名:Malus halliana ― 2010年04月19日
海棠はバラ科の落葉小高木。桜に少し遅れて薄紅の花をつける。蕾から咲き初めたばかりの頃が濃やかで美しく、咲き切つてしまふと色は薄れて見劣りがする。桜にもまして見頃は短く、艶麗とは言へはかない花だ。
実の生る実海棠と実のない花海棠があり、公園や寺社で普通見かけるのは花海棠の方である。大陸から渡来したのは近世初期といふ。「からはねず」の和名があるが、江戸時代より前に和歌で詠まれた例は未見である。
中国では牡丹等と並んで最も愛された花の一つ。宋代の小説『楊太真外伝』には、酔つた楊貴妃を見た玄宗皇帝が「これ妃子が酔ひ、直(ただ)に海棠の睡り未だ足らざるのみ」と、その眠たげな姿を海棠の花に喩へる場面がある。咲き初めの海棠はうつむき気味で、いかにも柔弱たる美女の趣だ。
漢詩では「雨中海棠」の題が好まれたが、雨に濡れると嫋やかな風情がひとしほまさり、春雨にこれほど引き立つ花も珍しい。
『惺窩先生倭謌集』 海棠 藤原惺窩
あかぬ夜の春のともし火きゆる雨にねぶれる花よねぶらずを見む
いつまでも飽きることのない春の夜、燈火が雨に湿つて消えてゆく――その雨に濡れて眠つてゐる花よ、私は眠らずに見てゐよう。
楊貴妃の化身の如き「ねぶれる花」を、雨中海棠の趣向と結びつけ、この花の本意を余すところなく詠みきつた傑作である。
作者は江戸朱子学の祖として知られる大学者であるが、
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『悠然院様御詠草』(海棠瑠璃鳥) 田安宗武
からはねず咲くなる枝にあをに鳥きぬるを見ればいつくしきかも
『良寛歌集』 良寛
けふもまた海棠の実を
『志濃夫廼舎歌集』(海棠) 橘曙覧
くれなゐの唇いとどなまめきて雨にしめれる花のかほよさ
『みだれ髪』 与謝野晶子
ゆふぐれを籠へ鳥よぶいもうとの爪先ぬらす海棠の雨
『恋衣』 与謝野晶子
里ずみの春雨ふれば傘さして君とわが植う海棠の苗
『遊行』 上田三四二
海棠はまだ咲きそめの実のごとき小花ぞゆらぐかぜふきしかば
『渉りかゆかむ』 斎藤史
青墨をすりつつあれば夕くれて海棠残花奥ふかまりぬ
和歌歳時記:土筆 つくし Horsetail ― 2010年03月23日
土筆は羊歯植物である杉菜の胞子茎。ちやうど桜の咲き始める頃、川の堤や原つぱの土の中から、筆先に似た頭をもたげる。和へ物や酢の物として春の食卓に上る。
古くは「つくづくし」あるいは「つくつくし」と言つた。語源は「付く付く子」とも「突く突く子」とも言ふ。「つくしん
源氏物語(早蕨)に宇治山の阿闍梨が傷心の
比較的早い時期の作例としては、鎌倉初期の為家の歌がある。
『夫木和歌抄』 土筆 藤原為家
佐保姫の筆かとぞみるつくづくし雪かきわくる春のけしきは
残雪をかき分けるやうに頭を出した土筆を、佐保姫のための筆かと見た(「かき」は「書き」の意を帯びて筆の縁語になる)。与謝野晶子は土筆を「金色」と言つてゐて(下記引用歌参照)この人の色彩感覚に感嘆させられるけれども、私には淡い褐色を帯びた人肌の色に見える。若々しくなまめかしいばかりに美しい色が雪間に映えれば、春の女神への捧げ物にこれほど似つかはしいものはない。
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『元真集』(つくつくしを十三にて) 藤原元真
雲かかる浦にこぎつくつくし船いづれかけふのとまりなるらん
『秘蔵抄』 伝大伴家持
片山のしづが
『挙白集』 木下長嘯子
花ざかりとはではすぎな君をのみ待つに心をつくづくしかな
『漫吟集』 契沖
あさぢふの菫まじりのつくつくしまだ野辺しらぬをとめ子ぞつむ
『琴後集』(つくづくしの絵に) 村田春海
つくづくし春野の筆といふめれば霞もそへて家づとにせむ
同上(桜の枝とつくづくしを籠に入れたるかた)
一枝の花にまじへて山づとのあはれを見するつくづくしかな
『浦のしほ貝』(人のもとに土筆をおくるとて) 熊谷直好
霞たつ野べのけしきもみゆるまで摘みつくしたる初草ぞこれ
『草径集』(土筆) 大隈言道
ゆく人を
『明治天皇御集』(土筆)
庭のおもの芝生がなかにつくつくし植ゑたるごとくおひいでにけり
『竹乃里歌』(詞書略) 正岡子規
くれなゐの梅ちるなべに
『長塚節歌集』
つくしつくしもえももえずも
『心の遠景』 与謝野晶子
金色のいとかすかなるものなれど人土筆摘むみづうみの岸
和歌歳時記:早蕨 さわらび Bracken shoot ― 2010年03月15日
啓蟄も過ぎたうららかな日、山に入つてみると、道端の崖地に早蕨が萌え出てゐた。茎の生毛が春の光に輝いて美しい。
『万葉集』 志貴皇子の
懽 の御歌一首
石 ばしる垂水 のうへの早蕨の萌え出づる春になりにけるかも
「
蕨は山、野、谷、至るところに見られる羊歯植物。萌え出て間もないものを「さわらび」「うちわらび」「したわらび」「かぎわらび」などと言ひ、また初物を「初わらび」と言つた。
さわらびは「早蕨」と書くのが普通になつてゐるが、元来「さ」に「早」の意は無い。田に移し変へる頃の苗を「さ苗」と言ひ、神を降す神聖な場所を「さ庭」と呼ぶやうに、この「さ」は聖なるものに讃美や畏敬の心をこめて冠した接頭語のやうだ。
やがて1メートル近くまで伸びる葉の生命力を小さな芽のうちに詰め込んだ若い蕨は、春の聖なる食物でもあつた。平安時代、貴族たちも蕨狩を楽しんだことが数多の和歌によつて知られる。
『堀河百首』 早蕨 祐子内親王家紀伊
まだきにぞ摘みに来にけるはるばると今もえ出づる野べのさわらび
遥々と摘みにやつて来たところが、野辺の蕨は今しも萌え出たばかりであつた、といふ歌。「まだきにぞ」に蕨摘みを待ちきれない心が籠もり、また「はるばると」には「春」が重ねられて、いよいよ盛春を迎へる心の躍動が感じられる。
早蕨が萌え出る頃には菫の花や菜の花も咲き始め、鶯は里に出て鳴き、桜の花芽もふくらんでゐる。早蕨はその赤子のやうな小さなこぶしのうちに、すべての春の喜びを握り締めてゐるかのやうだ。
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『源氏物語・早蕨』 中の君
この春はたれにか見せむなき人のかたみにつめる峰のさわらび
『夫木和歌抄』 小式部内侍
さわらびのもえ出づる春の夕暮は霞のうへに煙立ちけり
『金葉集』(奈良にて人々百首歌よみ侍りけるに早蕨をよめる) 永縁
山里は野辺のさわらびもえいづる折にのみこそ人はとひけれ
『堀河百首』(早蕨) 源俊頼
春くれど折る人もなき早蕨はいつかほどろとならむとすらん
『堀河百首』(早蕨) 藤原公実
春日野の草葉は焼くと見えなくに下もえわたる春の早蕨
『夫木和歌抄』(早蕨) 源仲正
鍬たてて掘り求めせしうちわらび春はおほ野にもえ出でにけり
『源三位頼政集』(折蕨遇友) *源頼政
めづらしき人にも遇ひぬ早蕨の折らまく我も野辺に来にけり
『山家集』(早蕨) 西行法師
なほざりに焼き捨てし野のさわらびは折る人なくてほどろとやなる
『壬二集』(早蕨) 藤原家隆
つま木には野辺のさわらび折りそへて春の夕にかへる山人
『拾遺愚草』(早蕨) 藤原定家
いはそそぐ清水も春の声たてて打ちてや出づる谷の早蕨
『遠島百首』 後鳥羽院
もえ出づる峰のさわらび雪きえて折すぎにける春ぞ知らるる
『新千載集』(題しらず) 亀山院
焼きすてし煙の末の立ちかへり春はもえ出づる野べの早蕨
『尭孝法印集』(早蕨未遍) 尭孝
雪きゆる垂水のうへはもえ
『春夢草』(早蕨) 肖柏
『雪玉集』(暮采山上蕨) 三条西実隆
なれにける山路はかへる程もあらじ夕日に折らん嶺のさわらび
『晩花集』(わらび) *下河辺長流
おもふ人すむとはなしに早蕨のをりなつかしき山のべの里
『巴人集』 四方赤良
早蕨のにぎりこぶしをふりあげて山の横つらはる風ぞ吹く
『草径集』(春夢) 大隈言道
まどろめば野をちかづけて枕べにあるここちする菫さわらび
『ともしび』 斎藤茂吉
あづさゆみ春ふけがたになりぬればみじかき蕨朝な
和歌歳時記:沈丁花 (ぢんちやうげ) Sweet daphne ― 2010年03月04日
夜道を歩いてゐて、沈丁花の香りに驚かされることの多い時節になつた。梅は風でも吹かないと匂ひが届かないけれど、この花の香り高さには風も不要だ。
ヂンチヤウゲ科の常緑灌木。最初の一字を濁らず「ちんちやうげ」とも言ふ。大陸から渡来したのは室町時代・江戸時代両説あるやうだ。漢名は瑞香。
花は外側が紅紫色で、内側が白い。全体が白い花もあり、
紅い蕾の間にぽつりぽつり白花がひらき始めた頃の色合は殊に美しい。尤も、その頃はまださほど強い芳香は漂はせない。
この花を詠んだ歌は、江戸時代以前には見あたらない。近代以降は盛んに詠まれ、佳詠も少なくないだらう。
『常磐木』 佐佐木信綱
若き日の夢はうかびく沈丁花やみのさ庭に香のただよへば
大正十一年(1922)、歌人五十歳の作。「夢はうかびく(浮かび来)」に対して「沈」む花、美しい字面も巧みに活かした、優婉な歌だ。
『橙黄』 葛原妙子
沈丁の瓶を障子の外に置き春浅きねむり
邃 くあらしめよ
匂ひに過敏な人、あるいは眠りの浅い人には、沈丁花の香りは睡眠を妨げるほどなのだらうか。しかし遠ざけたくはない、だから「障子の外に」置く。昭和二十五年(1950)刊、第一歌集より。
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『山河』 金子薫園
沈丁花雨しめやかにいたる夜の重き空気のなかににほへり
『路上』 若山牧水
沈丁花青くかをれりすさみゆく若きいのちのなつかしきゆふべ
『無憂華』 九条武子
『朝雲』 岡麓
沈丁花白きつぼみはうす色の黄ばみさびしくおもほゆるかも
『短歌行』 山中智恵子
そのはじめしられぬことのはるけさに
和歌歳時記:春雪 Spring snow ― 2010年02月24日
春に降る雪、あるいは春になつても降り積もつてゐる雪。ほぼ同意の歌題に「
万葉時代から春の雪は好まれた主題でした。
我が背子に見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば
巻八春雑歌、春の野山での遊興を詠んだ「山部宿禰赤人歌四首」の第三首。続く一首は若菜摘み(若い女性の仕事)を詠んでゐるので、この歌も女性の立場で詠まれた虚構の作と見えます。ある日、春の野にみごとな白梅の花を見つけた少女は、これを恋人に見せたいと心に願つた。その後、つひに恋人を誘ひ出し、梅の木のあつた場所へ連れて来たところが、枝といふ枝には雪が降り積もり、その色にまぎれてどれが花とも分からない――。けなげな乙女の嘆きを詠んだ、可憐な歌です。
色と香で春を告げるのが梅の花なら、春の訪れを耳に届けるのは鶯。その歌声をつつむやうに降りしきる雪といふ趣向も大変好まれたものです。
梅が枝に鳴きてうつろふ鶯のはね白妙に沫雪 ぞふる
万葉集巻十の作者未詳歌。梅の木に鳴きながら枝うつりする鶯――その地味な色の羽が、今は降りしきる春の沫雪で真白になつてゐる。
「沫雪」は
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『万葉集』 山部赤人
明日よりは春菜摘まむと標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ
『古今集』(雪のふりけるをよめる) 紀貫之
霞たちこのめも春の雪ふれば花なき里も花ぞちりける
『源氏物語・若菜』(女三宮)
はかなくてうはの空にぞ消えぬべき風にただよふ春のあは雪
『風雅集』(題しらず) 藤原基俊
春山の佐紀野のすぐろかき分けて摘める若菜に淡雪ぞふる
『式子内親王集』
春くれば心もとけて淡雪のあはれふりゆく身を知らぬかな
『続拾遺集』(千五百番歌合に) 藤原定家
消えなくにまたや深山をうづむらん若菜つむ野もあは雪ぞふる
『風雅集』(春雪を) 土御門院御歌
春もいまだあさるきぎすの跡みえてむらむらのこる野べのしら雪
『新後撰集』(弘長元年、後嵯峨院に百首歌たてまつりける時、春雪) 藤原為家
まづ咲ける花とやいはんうちわたす遠かた野べの春のあは雪
『玉葉集』(宝治二年百首歌たてまつりけるに春雪を読み侍りける) 同上
あは雪はふりもやまなんまだきより待たるる花の散るとまがふに
『続拾遺集』(百首歌に) 花山院師継
庭のおもは積もりもやらずかつ消えて空にのみふる春のあは雪
『新後撰集』(題しらず) 後宇多院
春くれば雪とも見えず大空の霞をわけて花ぞちりける
『続千載集』(春の雪をよませ給ひける) 伏見院
春とだにまだしら雪のふるさとは嵐ぞさむき三吉野の山
『風雅集』(春雪をよませ給ひける) 後伏見院
たまらじと嵐のつてにちる雪にかすみかねたるまきの一むら
『風雅集』(春雪を) 鷹司基忠
かききゆる庭には跡もみえわかで草葉にうすき春のあは雪
『続後拾遺集』(嘉元々年後宇多院に百首歌奉ける時、春雪) 二条為藤
吹きまよふ磯山あらし春さえて沖つ潮あひに淡雪ぞふる
『慶運法印集』(春雪)
雲こほる空にはしばし消えやらで風のうへなる春のあは雪
『延文百首』(春雪) 二条為定
天の川空より消えてとまらぬや流るるみをの春のあは雪
『新拾遺集』(野春雪といふことを) 覚誉法親王
野べはまだ
『新葉集』(百首歌よませ給うけるに、春雪を) 後村上天皇
かつ消えて庭には跡もなかりけり空にみだるる春の淡雪
『雪玉集』(立春雪) 三条西実隆
このねぬる夜のまの雪の晴れそめて今朝立つ春の光みすらし
『鹿鳴集』会津八一
もりかげ の ふぢ の ふるね に よる しか の ねむり しづけき はる の ゆき かな
和歌歳時記:追儺・鬼やらひ Japanese ceremony of driving out the devils ― 2010年02月03日
節分の豆まきは、大晦日の夜に宮中で行はれれた
もろ人の儺 やらふ音に夜はふけてはげしき風に暮れはつる年
藤原定家の『拾遺愚草』に見える、建久二年(1191)の作。定家三十歳、あたかも源頼朝が征夷大将軍に任命される前の年。時代の「はげしき風」の中、大宮人たちの鬼やらひの声も切実に響いたに違ひありません。
追儺の行事は近世寺社でも行はれるやうになり、やがて民間に広まりました。近世初期、半井卜養の狂歌に「福は内へ鬼は外へと打つ豆の腹に当りてあらくさやふん」といふのがあり、この頃既に現在の豆まきのやり方が定着してゐたと知られます。文化文政から天保にかけて活躍した歌人香川景樹には次のやうな歌があります。
家ごとに儺 やらふ声ぞ聞ゆなるいづくに鬼はすだくなるらむ
家々から追ひ払はれた鬼どもはどこに群れ集まつてゐるのかと戯れた歌。
親が鬼のお面をつけ、子に追はれるといつた現代の家庭風景は、私が子供時代を過ごした昭和三十~四十年代の東京山の手では見られなかつたもので、おそらくごく最近の風潮ではないでせうか。しかし、そもそもの起源を尋ねれば、やはり朝廷の行事に遠く遡ることができるのです。
(写真は鎌倉大塔宮の豆まき風景)
『賀茂保憲女集』
年ごとに人はやらへど目に見えぬ心の鬼はゆく方もなし
『亜槐集』(除夜) 飛鳥井雅親
なやらふをいそぐばかりに行く歳もをしまぬほどの雲の上人
『松下集』(歳漸暮) 正広
老の浪それをばおきてはかなくもなやらふ音に我ぞおどろく
『雪玉集』(歳暮) 三条西実隆
遠近になやらふ声も行く歳をげにおどろけとなれる夜はかな
『通勝集』(除夜) 中院通勝
けふといへばなやらふ程にさよ更けてをしみもあへず年ぞ暮行く
『霞関集』(除夜) 源高門
四方に今なやらふ声はしづまりて年をぞ守る夜半の灯
『藤簍冊子』(追儺) 上田秋成
年ごとにやらへど鬼のまうでくる都は人のすむべかりける
『うけらが花』(追儺) 加藤千蔭
宮人のけふ引く桃のたつか弓花さく春にいるにぞありける
『琴後集』(追儺) 村田春海
雲の上に
『調鶴集』(追儺) 井上文雄
なやらふとこよひ手に取る桃の弓いるがごとくに春はきにけり
(2010年7月29日加筆訂正)
和歌歳時記:早梅 Early plum-blossom ― 2010年01月18日
早咲きの梅、特に立春前に咲く花を早梅と言ひます。梅の中には冬至梅・寒紅梅など季節を先取りして咲くやう作り出された品種もありますが、品種の別を言ふのでなく、普通の梅で、いちはやく咲いた花を言ふのです。和歌では「早梅」のほか「年内梅」「歳暮梅」などの題で盛んに詠まれました。もとより、梅を殊更好んだ万葉歌人もこれを愛でてゐます。
『万葉集』巻八 大伴宿禰家持が雪の梅の歌一首
今日降りし雪に競 ひて我が宿の冬木の梅は花咲きにけり
春を待ち切れないのか、雪と白さを競ひ合ふやうに咲いた梅。早梅に対する賛美は、天地の改まる浄らかな新春への憧れでした。
『松下集』 早梅開 正広
消えずとも皆淡雪ぞ天地 にこぬ春ひらく園の梅が香
「消えないと言つても、皆淡雪だ。まだ来ぬ春を、天地に向けて広げる園の梅が香よ」。
積もつた淡雪など何のその、開き始めた梅の香りが、一足早く春を天地に向けて解き放つ。正広は室町時代最大の歌人と言ふべき正徹の一番弟子。師の難解な作風とは異なり、大らかな丈高い詠を得意としましたが、この歌はその最良の一例でせう。
『万葉集』巻八(紀少鹿女郎の梅の歌一首)
『拾遺集』(しはすのつごもりごろに、身のうへをなげきて)紀貫之
霜がれに見えこし梅は咲きにけり春には我が身あはむとはすや
『風雅集』(歳のうちの梅をよみ侍りける)紀貫之
一とせにふたたび匂ふ梅のはな春の心にあかぬなるべし
『拾遺集』(詞書略)三統元夏
梅の花にほひのふかく見えつるは春のとなりの近きなりけり
『拾遺愚草』(十二月早梅) 藤原定家
色うづむ垣ねの雪の花ながら年のこなたに匂ふ梅が枝
『紫禁和歌集』(早梅) 順徳院
雪降ればこと深山木も咲く花を春のものとて匂ふ梅が枝
『草庵集』(雪中早梅) 頓阿
うづもるる垣ねの雪ににほふなり春のとなりにさける梅が枝
『宗良親王千首』(年内早梅) 宗良親王
難波津や冬ごもりせぬ御代なればいまも此の花春にかはらず
『冷泉為尹千首』(年内早梅) 冷泉為尹
今ははや春のへだてや程ちかき花になりゆく庭の梅垣
『草根集』(早梅) 正徹
ふる雪の木の間の月の笠にぬふ梅ならなくの冬の一華
『草根集』(冬早梅) 正徹
年のうちの春やうれしき梅が枝の今朝はほほゑむ花のかほばせ
『卑懐集』(早梅) 姉小路基綱
さそはるる鳥の音もなし咲く梅の春にさきだつ風のたよりに
『松下集』(早梅開) 正広
『拾塵集』(早梅) 大内政弘
枝かはす木は冬がれて咲く梅の此の一もとに春やきぬらん
『雲玉集』(古寺早梅を、ある所にて) 馴窓
今も世につたへて梅や一ふさの花のさとりを先づひらくらん
『柏玉集』(早梅) 後柏原院
とく咲くもあやにくなれや冬の日の嵐にをしき梅の初花
『黄葉集』(早梅) 烏丸光弘
花ぞとき鶯さそへ年の内の春に先咲く梅の冬木に
『後十輪院内府集』(雪中早梅) 中院通村
春待たでほほゑむ梅の花の香にふかさおよばぬ枝のしら雪
『霊元院御集』(早梅) 霊元院
冬ごもる窓のみなみに咲く梅や春とほからぬ日影をもしる
『芳雲集』(早梅薫風) 武者小路実陰
いづこぞと梅が香さがし年の内も立枝たづねて春風や吹く
雪に吹く風に匂ひは宿してもなほ冬ごもる窓の梅が枝
『柿園詠草』(早梅) 加納諸平
わがせこが春のいそぎに衣たてば朝北さえて梅かをるなり
『調鶴集』(社頭早梅) 井上文雄
広前にはやきを神の心とやいがきの梅のはるも待ちあへぬ
和歌歳時記:福寿草 Pheasant's eye ― 2010年01月04日
キンポウゲ科の多年草。福づく草、元日草、さちぐさとも。ちやうど旧暦正月頃に開花するので、縁起の良い花として新年の床飾りに用ゐられるやうになつたのは、江戸時代のことである。陽暦の今も正月の花として好まれ続け、歳末初春の市で鉢植が売買される。
今滋 が近きわたりなる友どちの許 に行きける帰るさ、福寿艸 の有りけるを買ひて、おのれに家づとにせむとてもてかへり、机上 にすゑて、これ見給へといひける時
正月 立つすなはち華のさきはひを受けて今歳 も笑ひあふ宿
幕末の歌人
『霞関集』(かしこより金山の福寿草を押花にして添へてつかはす歌) 石野広通
これぞこの黄金の山に咲きそひてその色見する花の春草
『鈴屋集』(福寿草といふもの書きたるに) 本居宣長
人みなのいはふ名おひてあらたまの年のはじめに咲くやこの花
『蜀山人家集』(福寿草の画讃) 大田南畝
元日の草としきけば春風のふくと寿命の花をこそもて
『草径集』(元日草) 大隈言道
うれしくも年の始めのけふの日の名におひいでてさくやこの花
『白桃』 斎藤茂吉
『晴陰集』 吉野秀雄
朝にほふ緋氈の上に
和歌歳時記:屠蘇 New Year's sake ― 2010年01月03日
明けましておめでたうございます。本年もどうぞよろしくお願ひ申し上げます。
正月三日の夜も更けましたが、まだお屠蘇気分に浸つておいでの方も多いことでせう。
さてその「お屠蘇」ですが、本来はさまざまな薬草を調合した「屠蘇散」を袋に入れて浸した中国の薬酒で、一年の邪気を払ひ長寿を願つて飲まれる祝ひ酒でした。後漢末の名医
楚の民間の風俗を記し、中国現存最古の歳時記と言はれる『荊楚歳時記』(西暦6世紀成立)の正月一日の項には次のやうな記事が見えます。
長幼悉 く衣冠を正し、次を以て拝賀し、椒柏酒を進め、桃湯を飲み、屠蘇酒を進む
日本には平安時代に伝はり、朝廷の元日行事として屠蘇を飲むことが採り入れられました。『土左日記』の承平四年(934)の年末の記事に「
調合する薬草には
『年中行事歌合』 供屠蘇白散 冷泉為秀
春ごとにけふなめそむる薬子は若えつつみん君がためとか
「毎春の今日元日、最初にお味見する薬子は、何度も若返り千世を見る大君の御為であるとか」。
南北朝時代の貞治五年(1366)十二月、二条良基が主催した歌合に出詠された歌。有職故実に通じてゐた良基は判詞で屠蘇についての薀蓄を披露してゐます。
屠蘇白散といふ薬は、一人これを飲みぬれば一家に病ひなし、一家飲みぬれば一里に病ひなしといふ目出たき功能侍れば、年のはじめ清涼殿にて聞こし召すなり。薬子とは幼き童女にて侍り。これも屠蘇は小児より飲むといふ本文にてあれば、まづ御薬をこれになめさせられて聞こし召すにや。
屠蘇を年少者から順に飲む風習はやはり中国由来で、毒見役に童女を置くといふしきたりもこれに基づくものであらうと良基は推察してゐます。
屠蘇を天皇より先に童女が舐めることは、どうやらお毒見といふよりも、若返りを願つての儀式的な意味合ひが強かつたやうに見えます。為秀の歌も、さうした知識を踏まえてのものでせう。
今も年末に屠蘇散を用意する薬局はあり、安価ですし、入手は難しくありません(因みに現在では毒性の強い薬草を含まないので、全く安全とのことです)。屠蘇散は酒の香りを良くし、風邪の予防などにも効果があるさうです。元旦、古を偲びつつ本当のお屠蘇を味はつてみるのも良いのではないでせうか。
-----------------------------------------------------『雲玉集』(屠蘇白散の心をよみ申せし) 馴窓
おしなべて誰えつつみむ白く散る春さへ雪のむらさきの庭
『うけらが花』(薬児の絵に) 橘千蔭
ことしより生ひ先こもる薬児にあえなむ春ぞ限りしられぬ
『竹乃里歌』 正岡子規
新玉の年の始と
『赤光』 斎藤茂吉
『風雪』 吉井勇
大土佐の
霜の花 Frost flower ― 2009年12月19日
夜間の冷え込みが厳しさを増す季節、庭や野原に、早朝限りのささやかな花が見られるやうになる。普段は目にとめることもない小さな冬草のどれもが、白くきらめく花を一斉に咲かせるのだ。古人はこれを「霜の花」と名づけて愛でた。
『亜槐集』 朝霜 飛鳥井雅親
みし秋の千種 はのこる色なくて霜の花さく野辺の朝風
秋に眺めた時は色さまざまの草花が咲いてゐた野。冬に来て見れば、冷たい朝風が吹く中、いちめん霜の花が咲くばかり。
新編国歌大観で検索する限り、「霜の花」の初出は鎌倉時代初期。冷艶の風を好んだ中世歌人たちによつて、室町時代にかけて盛んに詠まれるやうになる。上掲歌の作者も室町時代の人である。
尤も、「霜の花」の語がないからと言つて、平安時代の風流人が霜に花の美を見てゐなかつたわけではない。
『古今集』 しらぎくの花をよめる 凡河内躬恒
心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花
当て推量に、折れるものならば折つてみようか。草葉に置いた初霜が見分け難くしてゐる白菊の花を。
百人一首にも採られた白菊詠の傑作であるが、この歌の肝所はもとより初霜の清新にして凛とした美しさを白菊と競はせたことにある。ほの昏い払暁の庭に、菊と見まがふばかりに皓然と咲いた霜の花。
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「三百六十首和歌」(十月下旬) 藤原基家
さを鹿の分けこぼしたる跡見えて霜の花しく山のかげ草
「長慶天皇千首」(庭寒草) 長慶天皇
むすびこし露のまがきは荒れはてて霜の花さく庭のふゆ草
「雅世集」(冬草) 飛鳥井雅世
おきまどふ霜の花野の色ふりて人めも今やかれんとすらむ
「草根集」(椎柴) 正徹
同(霜夜月)
にほはねど袖を夜風にまかすれば結ぶか霜の花の上の月
「卑懐集」(寒蘆) 姉小路基綱
霜の花なほ穂にいでて蘆辺ゆく水も枯葉にこほる川風
「雪玉集」(暮秋霜) 三条西実隆
はかなしや野べの千種を霜の花のひとつ色にもつくす秋かな
「称名院集」(寒夜月) 三条西公条
小夜風の氷をわびて鳴く
「逍遥集」(霜) 松永貞徳
うちいでし波は氷にみ渡して霜の花ふむ谷のかけはし
「芳雲集」(庭霜) 武者小路実陰
うすくこき落葉を庭のにほひにて霜の花咲くけさの冬草
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