佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大阪神戸附近4 安治川~天王寺 ― 2015年05月05日
写真は四天王寺。
安治川
大阪市を貫流せる淀川の海に近き下流を安治川といふ。川村瑞賢の改修によりてその名を負へるなり。また川口ともいふ。船舶輻湊せり。
西吹くと思ひもあへず安治川の川瀬をのぼるかずの船の帆
いそがしき安治川口の船つきに春の日中を男釣する
円珠庵
大阪市の東部にあり、契沖阿闍梨旧棲の地。
(水垣注:大阪環状線玉造駅より西約五百メートル。天王寺区空清町。契沖の墓あり。通常非公開。)
春雨の世にふることも知らであらむ難波の芦のめぐみ初ずは
たらの葉の蔭しめながら外山なる楢の木葉をかきつめしはや
夕陽が丘
市の東南部、夕陽丘女学校構内に藤原家隆の墓あり。
(水垣注:夕陽丘女学校の後身である府立夕陽丘高校は移転したため、現在家隆の墓は学校構内ではなく、住宅地の一角に史跡として保存されている。地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽丘」下車、西約百メートル。)
契あれば難波の里にやどりきて浪の入日を拝みけるかな
天王寺
大阪市の東南端にあり。聖徳太子の草創。
濁なき亀井の水を結びあげて心のちりをすすぎつるかな
人とほらぬ四天王寺の蓮池に亀うかびたり秋の日をよみ
小春日和四天王寺の敷石に群れ居る鳩に豆などやりぬ
補録
安治川
紀津川に安治川に入る船の帆の行く方わかつ住吉の沖
円珠庵
正紹とともに、はじめて円珠庵の契沖阿闍梨の墓にまうでて、九月の末つかた
あととめん道こそしらね庭ざくら秋の木の葉と散りつもりつつ
夕陽が丘
鵙のなく夕日の岡の秋はぎは末葉までこそ色付きにけれ
天王寺
万代をすめる亀井の水はさは富緒川のながれなるらん
さはりなく入る日を見ても思ふかなこれこそ西の門出なりけれ
難波津に人のねがひをみつしほは西をさしてぞ契りおきける
世をすくふ誓ひの海の入日こそ難波の水のてらすなりけれ
み仏のみ手のいとゆふ見ゆるかな西に入日のかげのうちより
打ちわたす海のかぎりは遠けれどたなびきあまる春霞かな
厩戸の皇子がかゝせる十あまり七條憲法見るがたふとさ
佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大阪神戸附近4 大阪(難波) ― 2015年05月01日
大阪
大阪湾に臨む、古の難波の地。
心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを
難波の市いづち見るにも所せき家のはざまの初しぐれかな
夏近し心斎橋の扇屋のみの屋の店のみせ飾りかな
広重の水と町とをおもほゆる道頓堀のあるゆふべかな
春一日文楽にくれてそのかみの女のために涙そゝぎし
兵営の槐樹の梢ほの白う狭霧の中を鴉むれとぶ
雨空に月は大きうぼやけたり葛城の裾くろぐろと見ゆ
畑の井の釣瓶の竿のすいすいと立てる向うの葛城の山
補録
難波・大阪
昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり
海原のゆたけき見つつ蘆が散る難波に年は経ぬべく思ほゆ
夕波の花にもかけて梅が香をさそふ難波のさとの春風
露と落ち露と消えにし我が身かななにはの事も夢のまた夢
あしがちる難波の里の夕ぐれはいづくもおなじ秋風ぞ吹く
西の京大阪かけてはしきやし吉井勇のあそぶ初夏
たはれをの心のごとく流るるや南し北す大阪の水
大阪に着きてはじめて見し空を元禄の世の空とおもひぬ
難波津
難波江の要港。上代、倉庫や商館が立ち並ぶ物流の一大拠点であった。
難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
難波津に御船下ろ据ゑ八十楫貫き今は榜ぎぬと妹に告げこそ
難波津を今日こそみつの浦ごとにこれやこの世をうみわたる舟
難波江・難波潟
大阪市中心部(上町台地以西)とその周辺部には、かつて水深の浅い海や葦におおわれた低湿地が広がっていた。その辺りを難波潟とか難波江とか呼んだ。蘆の名所であり、澪標が名物とされた。
難波潟潮干の名残よく見てむ家なる妹が待ち問はむため
直越のこの道にして押し照るや難波の海と名付けけらしも
難波潟みじかき葦のふしのまもあはで此の世をすぐしてよとや
わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしてもあはむとぞ思ふ
秋風に潮みちくれば難波江の葦の穂よりぞ舟もゆきける
津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり
難波江の葦のかりねの一よゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき
忘れじな難波の秋のよはの空こと浦にすむ月は見るとも
難波江やあまのたくなは燃えわびて煙にしめる五月雨のころ
夕月夜しほみちくらし難波江の蘆の若葉にこゆる白波
難波江や冬ごもりせし梅が香のよもにみちくる春の潮風
難波がた月のでしほの夕なぎに春の霞のかぎりをぞ知る
難波がた霧間の小舟こぎかへり今日も昨日もおなじ夕暮
佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大阪神戸附近3 交野 ― 2015年04月30日
写真は渚の院跡の業平歌碑(枚方市渚元町)。
補録
交野
大阪府交野市・枚方市あたりの平野。皇室の御領で、古来狩猟地として名高い。桜の名所でもあった。京阪本線牧野駅より東へ徒歩五分、河州一之宮片埜神社がある。
霰ふる交野の御野の狩ころもぬれぬ宿かす人しなければ
み狩すと楢の真柴をふみしだき交野の里にけふも暮らしつ
御狩すととだちの原をあさりつつ交野の野辺にけふも暮らしつ
鶉鳴く交野にたてるはじ紅葉散りぬばかりに秋風ぞ吹く
またや見む交野の御野の桜狩花の雪ちる春のあけぼの
天の川秋の一夜のちぎりだに交野に鹿のねをや鳴くらむ
夕狩の交野の真柴むらむらにまだひとへなる初雪の空
桜さくかた野やいづこ白雲の中に流るる天の河なみ
渚の院跡
惟喬親王の別荘跡。その後寺になり、今鐘楼と梵鐘のみが残る。京阪本線御殿山駅より北東約五百メートル。枚方市渚元町の保育園に隣接して跡地が保管されている。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
(水垣注:『伊勢物語』には「いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、かみなかしも、みな歌よみけり」とある。)
見る人もなきさの花は思ひ出づやたえて桜といひし言の葉
天野川
交野の地を流れる川。七夕伝説に因んで詠まれることが多い。
惟喬のみこの伴に狩にまかりける時に、天の河といふ所の河のほとりにおりゐて酒などのみけるついでに、みこのいひけらく、「狩して天の河原にいたるといふ心をよみてさかづきはさせ」といひければよめる
狩り暮らしたなばたつめに宿からむ天の河原に我は来にけり
あまの川とほきわたりになりにけり交野の御野の五月雨のころ
佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大阪神戸附近2 水無瀬離宮~高槻 ― 2015年04月27日
水無瀬離宮の址
汽車山崎をいでて左方に叢林あり、これを後鳥羽上皇が離宮の址にして今水無瀬神宮あり。
見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋と何おもひけむ
桜井の駅
水無瀬を過ぎて程なく左方鉄道に沿ひて楠公父子訣別の地あり。
桜井の実ある教にこずゑまでこゝろの花をちらさざりけり
君の為散れと教へておのれまづ嵐にむかふ桜井のさと
高槻
能因法師が旧棲の地古曾部はこの近くにあり。
我宿の梢の夏になる時は生駒の山ぞ見えずなりゆく
補録
水無瀬
水無瀬山木の葉あらはになるままに尾上の鐘の声ぞちかづく
水無瀬山我がふる里は荒れぬらむまがきは野らと人もかよはで
河上に里荒れ残る水無瀬山見しものとては月ぞすむらん
ありて行くみかさもいさや水無瀬川山もとかすむ春の明ぼの
いにしへにはやたちかへれ水無瀬川ふかき心のすゑの白浪
水無瀬山玉をみがきし跡とめて忘れぬ郷と月やすむらん
わきてやはこの里人もみなせ川山もとかすむ花の下道
水無瀬川遠きむかしの面影も立つや霞にくるる山もと
水無瀬川かすみの水脈のあらはれて一筋深き遠の山もと
桜井
秋、さくらゐの里といふところにて、もみぢをみて
秋風の吹くに散りかふもみぢ葉を花とやおもふ桜井のさと
見わたせば春のけしきに成りにけり霞たなびく桜井の里
小芹つむ沢のこほりのひま絶えて春めきそむる桜井の里
この頃は待つと惜しむと往き来にも花をぞかたる桜井の里
是やこのさらぬ別れにますらをのかへり見しけむ桜井の里
子わかれの松のしづくに袖ぬれて昔をしのぶさくらゐの里
高槻
津国古曾部といふ所にまかりけるに、能因法しの旧跡、見しにもあらずなりて、あら田にすきかへしなどせしを見て
それをだに田にほり残せ敷島の道しある世の跡かたに見む
佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大阪神戸附近1 淀川 ― 2015年04月25日
写真は淀川と長柄橋。
五 大阪神戸附近
淀川
宇治川、鴨川、大井川などを併せ下りて大阪市に入る。
狩くらし交野の真柴折敷きて淀の川せの月をみるかな
ふけゆけば月すみわたりわたの辺の大江の岸に秋の風ふく
鶯も啼きつかれたる声させつ淀川つつみ長々し日は
たび人のいかにのりてか淀船のとまのうへなる数のすが笠
淀河の夜舟のねざめ神さびぬ八幡の神楽とほくきこえて
枚方の堤はてなき夕月に船ひく影のたえずもあるかな
ふけぬるか苫の上白く月さえて千鳥なくなりよどの川ふね
補録
淀川
ゆく人もかへるも見ゆる淀川は波の心もいとなかるらむ
さみだれに岸の青柳枝ひちて梢をわくる淀の川舟
霜氷る葦の枯葉に風さえて月すさまじき淀の川なみ
わが友の照る頬の春よ淀川のみどりあふれて君が門ゆけ
長柄の橋
淀川にかかっていた橋で、その後朽ちて橋柱だけが残っていた。現在、大阪市北区と東淀川区とを結ぶ同名の橋がある。
世の中にふりぬる物は津の国の長柄の橋と我となりけり
難波なる長柄の橋もつくるなり今は我が身をなににたとへむ
我ばかり長柄の橋は朽ちにけりなにはのこともふるる悲しな
いにしへにふりゆく身こそあはれなれ昔ながらの橋を見るにも
ゆく末を思へばかなし津の国のながらの橋も名はのこりけり
朽ちにける長柄の橋を来てみれば葦の枯葉に秋風ぞ吹く
心なほ夕とどろきの橋柱たつ秋風も身にしみて行く
佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大和紀伊方面目次 ― 2015年04月24日
佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大和紀伊方面19 熊野・由良の門 ― 2015年04月24日
熊野
紀州南部の称。熊野神社あり。
山賤がけぶりふきけむ跡ならし椿のまき葉霜に氷れり
山賤がもちひにせむと木実つきひたす小川を又や渡らむ
鯨とるくま野の舟の八十つゞき花も紅葉も浦にこそあれ
紀の山の冬暖かし夕さればきり岸の上に松虫のなく
すがすがし奥の熊野の広前の黒き小石の朝じめりかな
三熊野は野べも山べも風かをる蜜柑花咲く春のあけぼの
熊野新宮
熊野川口にあり。
明るくも材木船のならびたる熊野の秋の川口の色
木の国の木の都なる川口の鋸屑道の物柔かさ
瀞八丁
熊野灘にそゝぐ北山川の一部。
天つ星またゝき寒し山彦の外に声なき岩かげにして
由良の門
紀淡海峡をいふ。
ゆらのとを渡る船人梶を絶え行方も知らぬ恋の道かな
紀の潮と淡路の潮と戦へる迫門を船ゆくかしぎながらに
補録
音無
(熊野本宮大社前で熊野川に合流する川。附近を「音無の里」と言った。)
恋ひわびぬ音をだに泣かむ声たてていづこなるらむ音無の里
音無の川とぞつひにながれける言はで物おもふ人の涙は
氷みな水といふ水はとぢつれば冬はいづくも音無の里
はるばるとさがしき峰を分けすぎて音無川をけふ見つるかな
熊野
み熊野の浦の浜木綿百重なる心は思へどただにあはぬかも
さしながら人の心をみ熊野の浦の浜木綿いくへなるらむ
ちはやぶる熊野の宮の梛の葉をかはらぬ千世のためしにぞ折る
まれらなる跡をたづねし熊野山見し昔よりたのみそめてき
熊野の本宮やけて、年のうちに遷宮侍りしにまゐりて
契りあればうれしきかかる折にあひぬ忘るな神も行末の空
熊野川くだす早瀬のみなれ棹さすがみなれぬ波の通ひ路
熊野路や雪のうちにもわきかへる湯の峰かすむ冬の山風
わたの原夕浪黒く立ち来めり熊野の沖に鯨寄るころ
花の窟
木の国や花のいはやに引縄の長くたえせぬ里の神わざ
神無月春ごこちにもなれるかな花の岩屋に花祭りして
有馬の海浪のゆふ花折りかけて神をまつらぬ時も日もなし
(水垣注:有馬の海は三重県熊野市有馬町あたりの海。熊野灘の一部。弓なりの海岸線が長く続き、七里御浜と称される。伊邪那美の墓所とも伝わる花の窟が近い。)
由良の門
妹がため玉を拾ふと紀の国の由良の岬にこの日暮らしつ
紀の国や由良の湊に拾ふてふたまさかにだに逢ひ見てしがな
かぢをたえ由良の湊による舟のたよりもしらぬ沖つ潮風
佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大和紀伊方面18 日高・那智 ― 2015年04月23日
日高
和歌山の南方十数里。日高河畔に安珍清姫の古蹟と伝ふる道成寺あり。
鴉鳴く松原のかなた網をひく声さかりなりとのぐもる日に
喪へる心さびしく越えてゆく梅津呂越えを人に逢はずも
木の間もる入日の光あかあかと日高松原冬ぞ来むかふ
那智
寺を普陀落寺といふ。那智の滝あり。
壁たてるいはほとほりて天地にとゞろきわたる滝の音かな
高機をいはほにたてゝ天つ日の影さへ織れるからにしき哉
滝の上の杉のむらだち月おちて雲井にかをる水けぶりかな
山伏のふきなす貝のこゑくれて雲にとゞろく奈智の滝つせ
真熊野の熊野の浦ゆてる月のひかり満ち渡る那智の滝山
雲の行き速かなればおどろきて雲を見て居き滝の上の雲を
川添の川原なでしこ咲く道をめしひの親子那智まうでする
補録
いはばしる滝にまがひて那智の山高嶺を見れば花のしら雲
雲きゆる那智の高嶺に月たけて光をぬける滝の白糸
雲かかる那智の山陰いかならむ霙はげしき長き夜の闇
天の原雲なき空の雪と雨ととはに見せたる那智の大滝
いただきに杣板のせてくだる子がうしろで寒き那智の山風
天つ処女あまつ白木綿とはに織るをさの音かも滝の音かも
修行者が清き素足のあなうらに汝も作仏す那智の黒石
雲の中に那智の山あり人かよひ伐木すなり春夏秋冬
ぬばたまの夜の樹群のしげきうへにさゐさゐ落つる那智の白滝
末うすく落ちゆく那智の大滝のそのすゑつかたに湧ける霧雲
暮れゆけば墨のいろなす群山の折り合へる峡にひびくおほ滝
朝なぎの五百重の山の静けさにかかりてひびくその大滝は
冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ
佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大和紀伊方面17 和歌の浦 ― 2015年04月18日
和歌の浦
和歌山市より東南にあり。
和歌の浦に潮満ち来れば潟をなみ蘆べをさして鶴なき渡る
若のうらを松の葉ごしにながむれば梢によするあまの釣舟
玉津島神社
和歌の浦にあり。
玉津島見れどもあかず如何にして包みもて行かむ見ぬ人の為
一むらの州崎の松にかげわけて内外の海の月をみる哉
白浪のよするなぎさに大御輿みたゝせりけむ古へ思ほゆ
補録
和歌の浦
ゆく年は波とともにやかへるらむ面がはりせぬ和歌の浦かな
和歌の浦や沖つ潮合にうかび出づるあはれ我が身のよるべ知らせよ
和歌の浦のちぎりもふかし藻塩草しづまむ世々をすくへとぞ思ふ
なびかずは又やは神に手向くべき思へば悲し和歌の浦浪
あはれはや浪をさまりて和歌の浦にみがける玉をひろふ世もがな
この国はことばの海のおほ八島いづくによるも和歌の浦波
玉津島神社
年ふれど老いもせずして和歌の浦に幾代になりぬ玉津島姫
人問はば見ずとや言はむ玉津島かすむ入江の春のあけぼの
三代までにいにしへ今の名もふりぬ光をみがけ玉津島姫
ささがにの蜘蛛のいとすぢ代々かけてたえぬ言葉の玉津島姫
佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』大和紀伊方面16 粉河寺・根来寺 ― 2015年04月17日
写真は粉河寺本堂。
粉河寺
粉河駅にあり。西国三十三所観音の一。
粉河寺遍路の衆のうち鳴らす鉦々きこゆ秋の木の間に
根来寺
岩出駅より一里十三町、真言宗新義派の総本山。
古へを吹きぞ伝ふる法の風山の根ごろの松のむら立
桜落葉さびしうぞ散るそのかみの根来法師の面影もなく
補録
粉河寺
いとうへも花のあたりはあだなれどいかに散るらん吹く風の森
(水垣注:初句不審(「いとこへも」とも)。「風のもり」は旧粉河寺領内の風市神社の森という。)
修行せさせたまうける時、粉河の観音にて御札にかかせ給うける御歌
昔より風に知られぬともし火の光にはるるのちの夜の闇
つたへ聞く粉河の水のいかばかりもとの光の月もすむらん
粉河観音の歌
花ごろもかささぎ山に色かへて紅葉のほらの月をながめよ
此歌は、素意法師いまだ出家し侍らざりける時、粉河の観音にまうでて発心してやがてこもり侍りて、いづれの所にてか出家しいづくにてか仏法修行して往生をとげ侍るべきといのり申しけるに、内陣よりかくしめし給けるとなん
法のため此の身は骨をくだきても粉川の水の心にごすな
かづらきの尾越しの雲の崩れきて夕立すなり風猛の里
(水垣注:「風猛の里」は紀ノ川北岸の地。粉河寺に近い。)
根来寺
高野山わかれてこしもことさらに法を伝へん世々のためかも
(水垣注:伝法院(大伝法院)は根来寺の本堂。)
きぎすなく根来の山の桜花さかずは今も焼野ならまし
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